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亘の部屋の床の間にも、やはり隠し扉があった。忍者屋敷よろしく、そっと押すと、真昼になお暗い入り口が俺を待っていた。
どうもナマコの口に入っていくようで気分がいいものではない。あまつさえ何とも言えぬ生臭い匂いが上がってきて、慣れるまで一苦労だ。
梯子は例によって数段、さくの部屋と同じく横穴が下へ下へと降りていく。俺は深く息を吸い、ぐっと腹に溜めた。腰を曲げ身を屈めて、じりじりと地下道の中を歩いていく。
持ち込んで履いた下駄の下で、ごつごつした岩肌が荒い音を立て、妙な具合に地下道に響いていく。漆のように濃い闇の中、手探りで前方を確かめていると、遠い所にふっと明かりが灯った。ぼうっとあたりが黄色く揺らめく光に浮かび上がる。空気は冷たく乾燥したものと生暖かく湿ったものが入り混じり、腐臭のような不快な匂いが漂っていた。死んだように動かない空気の重さが、肺を締め付け喉を干上がらせていく。
明かりを灯した人間は、あちらこちらと動き回っているようだ。重いものを引きずるような音がする。気を取られて足元がお留守になっていたところで、ごろりとした石を踏んだ。あっと思う間もなくバランスを崩し、もろに横の壁に頭を打ち付ける。
「っ!」「誰だ!」
間髪入れない誰何の声、目を閉じて体を竦める。
「にゃあああ~ん」
その時、化け猫並みのおどろおどろしい声が足元から這い上がってきた。ついに本格的な妖怪かよと引き攣る俺の着物の裾が、何者かにがっきと咥え込まれる。
「ひえ!」
助けてくれ、俺は今まで猫鍋も猫ステーキも猫炒めも猫じゃらしも食ってない。呪われる覚えなんかこれっぽっちもないぞ!
喚きかけた寸前、それがルトだと気づく。
「…何だ、猫か」
奥に居た声の主はそれで納得したらしい。そちらを気がかりそうに見つめた青灰色の猫は、優雅な動作で振り向き、尻尾をくねらせ、例の声を出さずに口だけを開ける鳴き方をしてみせる。
「ルト…」
思わずほっとして呼びかけた。
とにかく化け物屋敷で知り合いの顔を見つけるのは嬉しいものだ、たとえ幾分、その仲間だとしても。
「周一郎がどこにいるか、わかるか?」
ルトは金色の目を見張り、頷くように耳を倒して見せた。虹彩は狭くなり、真ん丸になった瞳孔の色が前方にたゆとう闇の世界と同じ色だ。俺が困りきっているのに溜め息をつくように鼻を鳴らし、ルトはくるりと向きを変え、ゆっくり先に立って歩き始めてくれる。が、すぐに、続く俺の足音がうるさいぞと言いたげに振り返って睨みつけてきた。
「すまん、俺は猫じゃなくってな」
弁解すると、ひょいと立ち止まり、前足の爪でちょいちょいと下駄を引っ掻いた。さっさと脱げ。声にならない罵倒が響いた気がした。こんなもの履いて付いてくるなよ。
「…これなしだと、俺裸足なんだが」
こっちだって裸足だぞ、文句があるのか。そう言いたげに片足を上げて見せたルトがじろりと睨み上げる。
本当に主人似の猫だよな、何も言わずに人を使いやがる。
「わかったわかった」
しぶしぶ下駄を脱ぐ。歩き始めたルトを慌てて追いかける。しばらく歩くうちに、地下道は次第に広く高くなり始めた。足元も平らになり、両側の壁が次第に俺から離れていく。少し先で壁が一段と深く彫り込まれている。
「…っっ」
その部分を覗き込み、思わずぎょっとして立ち止まった。
何かが立っている、が身動きしない。
しばらく待って、相手が全く動かないのにそろそろと近寄ってみる。
異様な像だった。ほぼ俺と等身大、ぱっと見には仏教美術書なんかで公開されているインド風の仏像に見える。
だがよく見ると、その像は仏像のもつたおやかさ、慈悲心を全くたたえていなかった。長い髪は肩を過ぎ、腰の辺りまで乱れている。卵形の顔に、整いすぎるほどの見事さで二重まぶたの瞳、通った鼻筋、小作りな唇が配置され、瞳の虹彩は金箔で覆われている。
細い首はまろやかな肩へと続き、両の乳房も露わなのは薄物一枚の表現だろうか。体の線がくっきり浮き出た衣を纏い、そこばかりは仏像のように少し腰を捻って立っている。だがその腰の捻り方は妙に妖しく、見つめると知らず知らずのうちに薄物をはだけて伸びた太腿に視線が誘われる。
肩から伸びた二対の腕、胸の前で一対が交差し、もう一対は顔の横まで片手を差し上げ、もう片方の手で腰を押し出している。品を作ると言うには物騒すぎた。上げた片手に持っているのは鋭利な剣、切先はまともにこちらに向けられている。
微かに笑みを浮かべた唇、踏み出そうとする足、ふわりと天女の羽衣じみたしなやかさで舞っている衣、それらの優しい表現が、上げた片手の剣一つで世にも禍々しい邪宗の表現と変わり果てていた。
陽子だ、と思った。陽子という女は、きっとこう言う女だったに違いない。
「ん?」
まじまじ眺めていると、突然、その剣がぬめぬめと光っているのに気づいた。
岩から掘り出した像とはいえ、こんな所に水が湧き出るなんてことがあるんだろうか。
ゆっくり手を伸ばして触れて見る。粘りつくような、嫌悪感を抱かせる感触が広がる。そっと引き寄せた親指と人差し指を擦り合わせる。指先にねとつくものは、淡い光の中、どす黒く濁った赤に見える。
「っっ」
血だった。
はっとして周囲を見回す。陽子像は一体ではなかった。先へ進む地下道両側、先までずっと立つ陽子像の全ての剣が、どす黒いものにべっとり濡れている。間違いない、陽子像は生き血の付いた剣を掲げているのだ。
数体先の陽子像が鈍い黄色の光に照らされながら浮かび上がっている。剣の切っ先から、丸い雫が膨れ上がり、ゆっくり糸を引いて伸びていき、やがてふっとその糸を切った。
ピッチャーン…。
いつかの夜の記憶とともに、生臭さが鼻を突いた。鈴音に呼び出されたあの日、水音と聞こえたのは、この血の滴る音だったのかもしれない。思わず一歩下がった俺は、すぐ後ろで小石を踏みつけるじりっと言う音を聞いた。
はっとしたときには遅かった。嫌というほど頭を殴られ昏倒する。
意識を失う前、黄色と黒に塗り分けられた光の波の中、漂うように立っている陽子像が花の唇を開き、瞳をぎらつかせ、聞くに耐えない哄笑を響かせるのを聞いた気がした。




