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「周一郎!」
「いらっしゃいません」
「っ」
背後から突然響いた声に固まった。なかなか向きを変えられない。それでも頑張って振り返りつつ、声の主に尋ね直した。
「居ない?」
夏の日差しの中、驚くほど色白の素肌に、薄青と薄緑をぼかした着物の鈴音が、初めて会った時よりもなお儚げに、まるで陽の光に溶かされ空気に混じり込んで行ってしまいそうな美しさで立っていた。上品な笑みを浮かべ、こちらを見つめ返した瞳に眩いほどの輝きをたたえて、鈴音は頷いた。
「はい。もうお帰りになりました」
「帰った?」
心の隅がぞろりと蠢く。俺は不審な顔をしていたのだろう、応じるように鈴音がことばを継いだ。
「ええ、他の仕事もおありになるとかで…事件も解決したことですし…」
「さくさんや……皖くんのことは?」
「あれは不幸な事件でした」
平然と流す石蕗家の女主人の顔を見つめ返す。視線の意味を察したらしく、鈴音は睫毛を伏せ、細い肩を震わせて見せた。
「私には……一生…忘れられませんけど…」
さらさらと長い黒髪が乱れた。
「でも…亘もおります……あの子に、より多く……ごめんなさい」
白い手が目尻の辺りを押さえた。その、悲しみに沈む脆い仕草が、妙に寒々とした人形じみたものに見え、俺は思わず目を逸らせた。
「帰ったんですか」
「ええ、お急ぎのようでしたわ」
周一郎が俺に黙って帰るわけがなかった。『帰った』天外和尚はどうなったのか。現世を超えて三途の川の向こうまで『帰って』行ってしまったのだ。
俺は唇を噛んだ。くるりと鈴音に向き直る。
「帰ったんですね?」
「はい」
ためらいなく答えた鈴音の目の奥に、ちらりと挑戦的な色が動いた。
「鈴音さんは、俺と周一郎が知り合いだと知ってたんですか?」
形は問いかけだったが、意味は確認だった。
「はい。大変鋭い方なのだそうですね、あの方は」
応じた鈴音の言外の意味もわかった。知りすぎた人間を生かして出すのは、石蕗家の『慣習』ではないのだ。
「亘君を見てきます」
「どうぞ」
鈴音の声を振り切るように、俺は彼女とすれ違った。
「滝さん…」
布団の中から、皖は熱っぽい目を上げ、俺を認めた。
「苦しいか?」
ゆっくり首を横に振る。額のタオルが落ちたついでに、絞り直して乗せてやる。気持ち良さそうに皖は目を閉じた。
「もう少し眠ってろ」
「うん」
頷いて皖は布団の中に潜り込んだ。掛け布団を引っ張り上げ、肩までかけてやる。
夏だというのに、皖はまだ寒そうだった。体温計を見ると39度を超えている。
寝顔を見る俺の頭に厚木警部の声が響いた。
『無茶はするなと伝言だ』
確かにな、お由宇。俺はこの辺りで、しーらないしーらないと嘯いて、ここの当主に収まっちまえばいいのかも知れない。ふかふかの布団と広々とした屋敷に満足して、余計な事に首を突っ込まない方が賢いのだろう。
「けど俺はどっちかっつーとバカなんだよな」
怖くないと言うのはカッコよすぎる。怖いことは怖い。けれど、同じぐらい腹が立つことがあるのも事実なのだ。
「第一、ここで周一郎を放って行ってみろ、高野に呪い殺されちまう」
ぼやいた後に残った静けさが重く不気味だった。
カン、と乾いた音を立てて、床の間の掛物が壁に当たる。
慌ただしい皖の呼吸音。
このままじゃきっと、こいつも十分な手当を受けられず、放置される可能性が高い。
「…」
俺は皖の頭に軽く手を乗せ、掛物を見つめながら立ち上がった。




