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皖も、始めから父母の会話と子どもの神隠しを繋げて考えたわけではなかった。ただ、漠然と不安になって、追い詰められるように鈴音を観察するようになった、
数日経ったある日、皖は母親の部屋の隅に転がっていたものを拾い上げて息を呑んだ。
鈍い海老茶色の万年筆のキャップ。子どもの持ち物にしては随分古めかしいものだったが、それは確かに友達の茂森一雄の物に間違いなかった。一雄は、その万年筆を祖父から譲り受けたか何かでひどく自慢にしていて、肌身離さず持ち歩いて触らせてもくれなかったはずだった。
わけもなく震えだしてくる体を壁に手をついて支えた皖の耳に、カタン、カタンと軽くて無機質な音が響いた。振り返ると、床の間の掛け軸が揺れていて。
「……そこから先は、あんまり…覚えてないけど…」
熱に浮かされたように、万年筆のキャップを握ったまま、片手で掛け軸を避けると、薄寒い風が吹き込む部分を押し、現れた階段を降りて行った。
地下道があるのは知っていた。よく亘とふざけて一緒に潜り込み、かくれんぼをしていた。けれど、そこが今も使われているとは知らなかった。
気がつくと、皖は地下に設えられた小部屋の入り口に立っていた。あたりを見回す前に気配がして、慌てて身をひそめるや否や、向こう側の扉を開けて誰かが入ってきた。その姿を見て、皖は危うく叫ぶところだった。
「、おいっ」
皖が突然からだをもたせかけてくるのにあわてて手を出す。ぐったりと頼りなく腕の中へ崩れてきながら、皖は囁いた。
「母様だった…」
「?」
「片手に…ナイフ…持ってて……血だらけのナイフで……母さまの手も…真っ赤で…っ」
ぎゅっと皖が俺の服を掴み直す。滲む声を励ましながら、
「戸の向こうに…一雄君が血だらけで倒れてて…側に和尚さんが立ってて……、そしたら…」
次の瞬間、皖が居るのには気づかなかったのか、目の前で鈴音はナイフを振り上げた。気を許し切った様子の天外和尚の腹に深々と刺す。絶叫して仰け反り倒れる和尚にとどめを刺すように、久が躍りかかった。そのまま次々と切り裂いていく、飛び散る鮮血、絶叫、やがて肉塊になっていく和尚から目が離せず、頬に流れ落ちた涙を拭うこともできずに、皖は震え続けた。
やがて久の声がうっとりと響いた。
『これでいい。これで、表向きには、こっぴどく懲らしめられたから姿を消したと思われるだろうさ』
魔王のように笑い始めた父親、側で優しく虚ろな瞳で微笑む母親、吐きそうになりながら、それでも冷たく熱い頭の中で、喋っちゃダメだ喋っちゃダメだと繰り返しながら、皖はそこから逃げ出した……。
「…だから、滝さんも…」
皖はしゃくり上げる。
「おんなじことになっちゃうんじゃないかって。……だから母様が呼んだら…絶対止めなくちゃって………母さまは父さまのことしか…目に入ってなくて……っ」
俺はぞくぞくしながら身を竦めた。
妖しいほどの色気をたたえて近づいてきた鈴音を思い出す。ひょっとすると、あの時俺も、もう少しで餌食になるところだったのか?
「いや…」
あの時の鈴音はちょっと違っていたような気がする。何かを伝えようとしていた気がする。閃光のようにことばが蘇る。3つ目の悲劇……『魔』が弱い…。
明るいはずの日差しが妙に薄暗かった。寒々とした空気があたりを包む。
しばらく泣き声を堪えていた皖は、熱い体を預けたまま、口を開いた。
「気が気じゃ…なかった…」
また母親に同じことをさせるわけには行かなかった。嫌がらせをして意地悪をして、それでも俺はいつまでも出ていく様子はない。
皖は焦ったが、別の方法も思いつかなかった。
昨日、地下道を通り、いつものように、何かまたおかしなことが起きていないか見に行った皖は、聞こえてきた子どもの悲鳴にぞっとした。
凍りつく手足を必死に動かして部屋に辿り着いた皖が見たのは、台の上で切り裂かれて転がっている子どもの死体と飛び散った血潮、側に置かれた容器にたっぷりと溜められたどろりとした赤い液体だった。
口を押さえて後ずさりした皖の足が、近くの棚に触れる。がたりと揺れた棚の音とほぼ同時に、悪夢で見る顔もこれほどおぞましくはないだろう、半分喜び半分怒りを浮かべた奇妙に物凄い表情の久が顔を突き出した。皖は身を翻し、無我夢中で地下道を駆け抜けた。
『待て…待つんだ……アキラァ…』
おどろおどろしい声が迫ってくる。普段なら亘と見分けもつかない男なのに、どうして今は皖だと気づいたのか。背後から響く闇の声に、耳元を覆われ、足に絡みつかれ、腕をねじ上げ腰を抱かれ、首を締め付けられる。身動き取れなくなってくる、手足がこわばり動けなくなる、それでも皖は悲鳴を上げながら必死に走った。
飛び出した外では草が木が、皖の墓場になろうとでも言いたげに周囲に迫り崩れ落ちてくる。前方に闇、後方にはなお暗い人の闇がある。
『皖ちゃん!』
ふいに側の茂みから亘が走り出てきた。
『どうしたの?!』
『あ、あ、あ』
『…、とう、さま……っ!!』
声にならぬ皖の説明よりも、亘は、着物の裾を見出し、指を鉤爪のように曲げて腕を突き出し、眉をしかめ口は大声で笑いながら追いかけてくる久の姿に全てを悟った。
『皖ちゃん!』『亘!』
2人は呼び交わすと暗闇の中を走り出した。
どれだけ逃げたのだろう。いつ実の父親に首根っこを押さえつけられるかわからない恐怖に、ひたすら走る1人の足が空を踏んだ。
「いやあああーっ!!」
悲鳴、滑り落ちる音、そして鈍い、骨が肉に入り混じる音。
呆然と立ち竦む片割れは今まで逃げて来た方向から見つめる目を感じていた。とっさに身を翻しながら叫ぶ。
「皖…皖ちゃんが!!」
茂みの向こう、冷酷な目でこちらを見定めていた人間が立ち去る気配がした。それを背中に感じ取り、皖は助けを求めながら俺達の方へ走り出した……。




