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(あいつが危ない!)
慌ててあたりを見回した。
吉田はいつの間にか姿を消している。そして、未だにニの門のあたりで押し問答している鈴音と亘の他、人影はない。
ごくり、と唾を呑んだ。
何はともあれ、確かめて見なくてはならない。
ゆっくり2人の側へ歩み寄る。
「かあさま!」
「だから、ほんの少しだけ。ね、わかって、亘」
「だから! ぼくも連れてってよ! ねえ!」
亘は必死に訴える。
「こわいんだよ! 1人でいたくないの、ねえ、かあさま!」
ただ甘えて鈴音を引き止めているのとは、どうも様相が違うようだ。
「かあさま!」
「亘…?」
鈴音が不審そうに眉を潜めて亘に目を落とした。今にも泣き出しそうに歪めた少年の顔をじっと見つめて続ける。
「…あなた……」
「あ」
何が伝わったのか、亘がびくっと体を震わせて竦め、怯えた表情になった。視線を母親から反らせ、周囲を見回す。その目が俺に止まった。
「滝様…」
ほっとしたような鈴音の声と対照的に、亘の顔はますます歪んだ。どうして来たんだ。そう言いたげな責める視線で俺を射抜く。大きく澄んだ瞳に暗く重い絶望が漂っている。
「申し訳ありません、少し亘をお願いできないでしょうか」
鈴音は淡くて脆い、保護欲をそそる微笑を投げ、亘をこちらへ押しやった。はっとした亘が鈴音を振り返る。
「かあ、さま…」
「ね、駄々をこねないで、すぐに帰って来ますから」
覗き込まれて亘が唇を嚙む。
「う…ん…」
亘はようよう頷いた。頷くと言うよりは首を落とした、に近かった。のろのろと顔を上げた時には、目に涙が一杯に溜まっていた。
「それでは…」
軽く会釈してニの門を出て行く鈴音と、凍てついたように見送る亘を視界に入れて俺は頷き、少年を呼んだ。
「亘君」
「……どうして……来たんだよ…かあさまが……出て…ちゃったじゃ…ないか…」
ゆっくりと少年は振り向いた。潤んだ目に責め立てたい感情が溢れている。
「…今度こそ……止めようと…思ってたのに……二度と…あんなこと……母さま……させたく…かったのに…」
口調が微妙に変わっていた。手を伸ばし頭に触れるのを避けようとした相手は、呼びかけたことばにぎくりとした。
「何を知ってるんだ、『皖』?」
「!!」
顔を跳ね上げた後は、頭に手を載せても身動きもせず、少年は俺を見上げていた。驚愕に大きく見開いた目が、激情に耐えられなくなったように曇っていく。
「『亘』じゃないんだろ? お前、『皖』の方だよな?」
「滝、さんっ!」
次の瞬間飛びついて来た皖を、俺は屈み込んでかろうじて受け止めた。子どもの力とはとても思えない激しさでしがみついてきながら、皖は声を殺した。時折漏れる微かな嗚咽さえも罪であるかのように、声を立てそうになっては俺の服を握りしめて声を殺し、静かに泣き続ける。
「皖…」
苦い思いが広がった。一瞬、こんなに泣くなら、こんな泣き方をさせるなら、言うんじゃなかった、とそんな想いが胸を掠めた。
「…して…」
「ん?」
しゃくりあげるのをしばらく堪えて皖が尋ねてきた。
「どうして…わかったの…? ……母さまも……わからなかった……よ…?」
「どうして、かな」
少し笑った。
「なんとなく、だな。お前によく似た奴を知ってるんだよ」
もっとも、あっちはこんなに素直に飛びついてなんぞ来ないが。
「ん…」
涙がおさまってきたのだろう。手の甲でごしごし目のあたりを擦りながら、皖が体を起こす。その前に膝を折り曲げしゃがみ込む俺を、真っ赤になった目で見下ろした。
「どうして入れ替わった?」
問いかける俺に皖は弱々しく笑った。
「亘なら…母さまを止められると…思ったんだ」
「? どう言うことだ?」
「母さまは悪くないんだ! みんなあいつが…父さまが…」
激しい語調で応じた皖は、ぽつりぽつりと顛末を話し始めた。
いつの頃からか、皖は鈴音とひさしの間にある秘密に気がつきだしていた。どうしてそんな風に感じられたのかはわからない。けれど、それが禍々しい暗闇に属する秘密であることは心の何処かで感じ取っていた。双子でも、亘はそう言うことに気づいた様子はなかったが。
「亘は……いつも、そうなんだ」
羨ましげに皖は呟き、先を続ける。
秘密が決定的になったのは、ある夜、鈴音と久の会話を盗み聞きした時だった。
その頃、石蕗家には天外和尚が出入りしており、鈴音にそれとなく誘いをかけていたらしい。
『え、和尚さまを?』
『そうだ。俺が表に出るのはまずい。今度はあいつを使おう』
『でも…』
『俺の言うことがきけないのか、鈴音?』
『いえ…そんなことは…でも…』
『俺はお前にもっと美しくなって欲しいんだよ。お袋を見ただろう? あの歳であの若々しさだ』
『ねえ、あなた…もうやめましょう……あれは迷信ですわ、伝説です』
『いや、俺はお前をもっと美しくしてやりたいのだ、な、鈴音……な、お袋よりももっと美しくだ……お袋よりも……お袋よりも…』
『あなた……あ……なた…』
続いた荒い呼吸の意味を、皖は無理やり理解した。逃げるようにその場を離れ、次の日から鈴音が天外和尚に異様なほど優しくするのを見た。いつもなら不愉快そうに苛立つ久も何も言わない。
その頃同時に、付近の子どもが神隠しにあったように姿を消し始めていた。
「っ」
ぎょっとして俺は皖を見た。涙に濡れた頬に固い表情を浮かべている相手をまじまじと眺める。一体何を話してる、と訝る常識とは別に、心の中のお節介焼きがご丁寧にも1つのことばを思い出させてくれた。
「陽子…伝説…」
さくは陽子伝説殺人事件の犯人と思われていた女性だ。その息子の久が母親の所業を知っているようなことを話している。吉田の声が谺する。『さく様と久様は同じことを為さいました。これほど見事な母子もありますまい』
まさか、だよな。
まさか、そんなことがあるわけがない、見つからないわけがないよな。
幼児誘拐殺人事件。陽子伝説。石蕗家の権力と、襲い続ける悲劇………連綿と繋がれる血の絆。
「…僕も…そう、だとは…思わなかったの」
濡れたか細い声が打ち明ける。




