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「……ったく」
吉田弁護士は3日以内に石蕗家に来て欲しいと言い残して帰って行った。すぐに石蕗家に戻るのではなく、こちらでもう一仕事あるので、俺を伴っては戻れないらしい。
『詳しいことは、あちらでまたご説明いたします』
とにかく、その皇族と繋がりがあるとさえ言われている由緒の塊のような家に、当主として帰って欲しいと言う。
「どこをどうひねくれば、そんな話が出てくるんだが…」
ぼやくうちにだんだん心細くなってきた。
確かにそりゃ、大学は夏休みに入っているし、体が空いていない、どうしても行けないという事情もない。行き方がわからないわけでもない。
けれど俺は、いくら飯が食べ放題であっても、そういう家には住みたくない。
ちら、と周一郎が気がかりそうな視線を投げてくれた気がして、思わずすがった。
「なあ、周一郎」
「何ですか?」
「付いて来てくれないか?」
心細いからとはさすがに言えなかった。外見や精神年齢がどうであろうと、実際に俺は24の立派な成年男子だし。
「僕は…ちょうど片付けなくてはいけない仕事があるんです」
予想通り過ぎるほと予想通りの返答にがっくりする。
「だよなあ、そりゃそうだろうけどさ、薄情な奴だな………あ、あーっ!!」
次の瞬間、俺は跳ね起きた。ぎょっとした顔で振り返る周一郎にひきつり笑いを返す。
「あった」
「?」
「覚えがあった」
ちょっと前のことだ、と話し出す。
6月半ばぐらい、ちょうど梅雨でじめじめしていた時だった。
傘を駅に忘れ、軒先で雨宿りしつつ走って戻っている最中、1人の老人が困り果てているのを目にした。手にした紙切れに目を遣り、背中に負ったふろしき包みも重たげに、雨の中へ出て行こうとしていた。傘はちゃんと手に持っているが、片手はこれまた重そうな鞄を下げ、もう片手は例の紙切れで塞がっていて傘をさせない。既にあちらこちらを尋ね歩いた後らしく、服はぐしょ濡れ、半白の頭も雨に濡れている。
その老人がまたもおろおろと軒下から雨の中に出て行こうとするのを見て、何だか自分の将来を見ているような気がして我慢できず、つい走り寄って笑顔満面,申し出てしまった、「お手伝いします」。
それから1時間ほど濡れつつ辺りを探し回っただろうか、気の毒がる老人に、駅の傘が気にはなったが放っておけず、結局最後まで目的地探しに付き合った。
『近頃の若い者は薄情な奴ばかりじゃと思うておったが、今時、あんたみたいな男も居たんじゃのう』
嬉しそうに子どものようにはしゃいで老人は喜び、それを皮切りに俺達は他愛のない話をし続けた。特に俺が孤児だと知ると、小さい頃のことや両親の記憶など、しつこいぐらいに繰り返し聞いてきた。
「まあ結局、傘の方は影も形もなかったんだけどな。確かあのじーさんが、何とかぶきって田舎では知られた家だとか何とか言ってたはずだ」
そうか、あのじーさんがそうか、けど、とてもそんな、大館様なんて呼ばれているふうには見えなかったけどな、とぼやくと周一郎が微かに笑った。
「……滝さんらしいですけど」
「俺らしいって何だ?」
言い返しながら溜め息をつく。
せめて今回の厄介事は命の危険のない、平和な遺産相続の話であってほしい。平和に済むなら人間違いでも吉田弁護士の勘違いでも全く構わない。
(そもそもこいつと関わってから、厄介事の規模がでかくなってるよな)
じろりと周一郎をねめつけると、いつの間にか物思わしげにこちらを見つめていた相手が、はっとしたように体を伸ばし、少し頬を赤らめた。
「? おい」
「それでどうする気ですか?」
どうかしたか、の俺の問いをあっさり封じて尋ねてくる。
「どうって…」
逃げ回ったところで、きっとよりパワーアップするか面倒な状況になって、厄介事が襲い掛かってくることはこれまでの経験が教えてくれる。
よいしょ、と声をかけてソファから起き上がった。
「とりあえず、行くしかねえんだろうなあ」
「……じゃあ、滝さんは」
「ん?」
「え…あ、いや…」
振り向くと周一郎は慌てたように側の机に歩み寄った。書類を今更のように広げて検分しながら、背中を向けて続ける。
「あなたはどこへ行ってもヘマしかしない、ドジの塊なんだから、気をつけて下さい」
「お…おお」
けなされたのか、心配されたのか微妙な感触に首を捻りつつ、まあ、案じてくれたのだろうと思い直す。
「わかった、注意する。準備とか、ちょっと高野に相談してくる」
「はい」
何泊ぐらいすんのかなあ、とりあえずは2、3泊の荷物で行ってみればいいのかなあ、と唸りつつ、ドアを出かけて振り返る。
「あ、周一郎」
「、はい」
びくりと微かに体を震わせ、相手も俺を振り返る。
「どっちにせよ、もう1回戻ってくるから、部屋、そのままにしといてくれ」
「わかりました」
応じた声が、少し安堵の響きを帯びた気がした。