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細身にすらりと着物を着こなした周一郎が嘲笑う表情で立っている。
「なんだよ」
「いえ…なかなか考えつかないことだな、と思って」
「どうせお前は天才だよ」
いじけると、作り物的な笑みを浮かべ、周一郎は厚木警部に向き直った。
「警部さん、あの部屋の中、外から全部は見えませんよ」
「何?」
「一緒に来てください」
周一郎に案内されて、俺達はさくの部屋に入った。死体はさすがになかったが、部屋は生々しい血の跡でべっとり、未だに赤みを残しているのが何とも不気味だ。
「何だね、周一郎君」
「ここです」
周一郎は地獄絵図に構わず、すたすたと入って行くと、ある場所でピタリと足を止めた。
「そこが?」
「来てもらえばすぐにわかりますよ」
「?」
厚木警部は不承不承、周一郎の立っている場所へ近づいた。
初めは意味がわからない顔できょろきょろしていたが、そのうち、周一郎のサングラスの奥の目が周囲を見回すのに、はっとしたように声を上げる。
「え、ま、まさか!」
大人びた微笑を唇の端に滲ませ、周一郎は頷いた。
「そうなんです。『ここ』は、家屋の中からは決して『見えない』」
周一郎の言っている意味がわからない。
俺が目をパチクリさせているのに構わず、
「だから、11時15分までに『ここ』に居ても、誰にも見えません」
「…とすると…」
厚木警部は周一郎を深々と覗き込んだ。
「じゃあ君も、由宇子と同じ考えなのか?」
「今のところは」
「そうか!」
厚木警部は一声叫んで慌ただしく部屋を飛び出していった。と、その瞬間、ふっと障子に警部とは別の影が動いた気がした。どきりとしてその辺りを見つめたが、人の気配はない。
(亡霊…?)
思わず首を竦めると、周一郎がくるりと振り返った。
「滝さん?」
「え、あ…」
「どうしたんですか?」
「いや、その…」
なんかその辺りに妙なものが居てさ。
言いかけて、周一郎の凝視に口を噤む。
また滝さんの想像力は凄いですねとか普通じゃないですねとか、ありがたくない評価が付け加えられるのがオチだろう。
「いや、別に…それより、どういう意味だ?」
「今のことですか?」
「ああ」
「簡単ですよ。『ここ』に立って周囲を見回してください」
「周囲を?」
周一郎が示した場所に立って、ゆっくり見回す。気づかなかったが、いかにも老婦人風の部屋だ。磨き抜かれた違い棚、高価そうな花瓶、凝った作りの置物…。
「違いますよ」
周一郎が首を振った。
「窓の外を見てください」
「窓の外?」
促されて、開いたままになっている窓を眺める。特にどこと言って変わったことのない景色に見えた。
「?」
おい、一体何が見えるんだ。
そう尋ねようとした矢先、突然『それ』が見えた。
「…あれ?」
見えた?
いや、『見えない』のだ。
母屋のどの窓も、ただの1つも、『ここ』に立つ限り、さくの部屋からは見えない。
「障子と襖は開け放したまま、つまり事件の夜と状況は同じ。その時も、そこに立って居たなら、決して母屋の窓からは見えなかったでしょう」
周一郎はもう一度確認するようにゆっくりと部屋の中を見回した。
「開け放たれているから、全部見えていると誤解する……『ここ』は開放空間だからこその死角になっているんです」
「じゃあ昨日だって」
「そうです。その位置からこちら、床の間の方へ近づいて行くと、母屋から姿は全く見えないことになります。だから、この辺りで殺人が…」
唐突に周一郎はことばを途切らせた。振り向いた俺の目に、まじまじと床の間を見ている姿が映る。
「…どうした?」
「いえ……これは…どうして、こんな風に…」
何を熱心に見ているのかと思ったら、風に揺れているらしい掛け軸と置物だった。両方ともどす黒い血の染みが付いている。どうやら、その染みのつき方が周一郎の興味を引いたらしい。
ふわりとまたも妙な気配が過った気がして、俺は肩を竦めた。
「わかったよ、厚木警部にも説明したし、もういいだろ、行こう」
「ええ、ちょっと」
周一郎はひょいと無造作に手を伸ばした。
「おい!」
鑑識とかも入れていないし、現場保存とかも不十分だし、そんな中で下手に触ると犯人にされかけないぞ、一体何を、と目を剥いた俺の目の前で、周一郎は壁と掛け軸の境で揺れていたものを摘み上げた。
「何だ?」
「女性の髪の毛、のようですね。しかもかなり長い…」
周一郎の指先に艶やかに絡みつく細い髪にぞっとする。
「止めとけって、そんなに長い髪の毛なんてそうそうない…」
言いかけて気づく。ちらりと周一郎が俺を見やる。俺が飲み込んだことばを口にした。
「鈴音、ですね」
「お前まで!」
むっとした。
確かに全ての状況は鈴音に不利だったが、俺の頭には初めて彼女を見た時の、儚げで寂しげな姿が焼き付いている。どう考えても、手を血に染めて人を殺すようには思えない。
「人間は…」
俺を見つめていた周一郎はサングラスの向こうの瞳を少し陰らせたようだった。瞬きし、緩やかに俺から目をそらせ、独り言のように呟く。
「一つの想いに取り憑かれていると、どんな物静かな人でも鬼にも蛇にもなれるんですよ、滝さん」
淡々とした声が冷え冷えと響いた。
「それが愛であったり執念であったり願いであったり………断ちたくない絆、だったり…」
最後の方はどこか自分に言い聞かせているような、ぼんやりとした囁きに消えた。
「う……んっ」
寝返りを打って目を覚ます。全身、汗びっしょりになっている。
「くそぉ…夢の中でも怪奇映画かよ…」
ぼやきながら体を起こして、枕元の腕時計を薄暗い明かりの中で確かめる。
午前1時20分。
よりにもよって、こんな不気味な時間に目を覚まさなくても良さそうなもんだが、夢の中でのっぺらぼうに追っかけられてドブに落ちたところだったから、タイミングが悪いとは言えない。あれ以上夢の中にいたら、俺は確実にドブ漬け人肉として美味しくいただかれていただろう。
「ふぅ…」
体を起こしてごしごし顔をこする。べったりとした汗を掌で拭ってもすっきりはしない。
部屋の空気は墓場みたいに動かず、周囲には物音一つしなかった。足止めを食らった刑事も客達も今はぐっすり寝入っているのだろう。
それにしても寝苦しい夜だった。空気が重く湿気を含んでいて、身動きするたびに纏わりつき絡みついてくるようだ。もう一眠りするにも妙に目が冴えてしまい、途方に暮れて隣に寝ている周一郎に目を落とす。
「おーお、無防備な面しやがって…」
サングラスを外しているせいもあるのか、本当に子どもっぽい顔で眠っている。いつも何かを考え込んで憂いをたたえている目は閉じられて、整った顔立ちを引き締めている緊張も解けている。そこには計算し尽くし裏を読みくつしている冷たさも、仮面をかぶり続けている片意地さもない。珍しく乱れたままの髪、静かで安らかな寝息。
起きるなよ。
胸の中で呟いた。
起きれば、周一郎は人の裏を見ずにはいられない。心優しい笑顔の裏の、濁り腐りきった闇に自分を晒し続けなくてはならない。それが、周一郎の深いところにある優しさを容赦なく切り捨てさせ、傷つけていく。その脆さを嘲笑しようとしてしきれないまま、周一郎は心を守ろうとして、より防御を固めていく。
それなら今は眠っていろ。
ほんの少しでも安らげているなら、ここで眠ってていいんだ。