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「偶然近くを通りかかった村人が、朱音の絶叫にすぐに助け上げたけど、既に朱音はショックで半狂乱だったそうよ」
「そりゃそうだろう!」
むしろ、そのまま元気で育ちましたと言われる方が怖い。
「この朱音には婚約者が居た……名前を石蕗久」
「っ!」
目を剥いた俺に構わず、お由宇は歩き続け話し続ける。
「北岡家は格式のあまり高くない家だったらしいわ。朱音の縁談も必死にまとめたものだったけど、その不幸、けれど諦めきれずにある事を盾に取引して、精神的に脆くなっている朱音の事は世間に隠して久に嫁がせたらしいの」
「ある事…?」
「どこにも記録は残ってないけど、噂や密かに伝わった替え歌などから考えると、どうやら陽子伝説事件の犯人は、さく、だったみたいね。当時34歳」
「……」
色々驚きすぎて、何に突っ込めばいいのかわからなくなって来た。お由宇は無言の俺から何かを読み取ってくれたらしく、首を振った。
「いいえ。さくは正気だったようよ、これ以上ないぐらいにしっかりしていた」
長い沈黙があった。
溜息を一つついて、なんとか質問を編み出してみる。
「さく…は、嫁が朱音…その池に落ちた娘だと知って……たよな…?」
「多分ね。朱音の方は知らなかったでしょうね。…正気だったのは皖と亘を身ごもって産み落とし、1ヶ月ほど育てた間だけだったみたいだし……それに夫の心が自分に向いてないことも薄々感づいていて、それで余計に追い詰められたらしくて、最後は急死という事で世を去った」
母親の本能だろうか。子どもを身ごもり出産後1ヶ月だけは、朱音は親子の絆を保っていた。
「さくは……どうして…?」
「死人に口なし。今からでは、聞くわけには行かないわね」
お由宇はふっと物寂しい笑みを浮かべた。
「でも、夫の伸次が色香のない自分を好いていないと思ってはいたようね。ひょっとしたら……陽子伝説にあやかって夫の心を得たかったのかも知れない」
いつの間にか、一の門が目の前にあった。
来る時は車で十数分かかったはずなのに。
振り返る俺の目に、石蕗家はやはり、年老いても気迫を漲らせている老女のように堂々と、そして今はどこか禍々しい気配に身を染めている。
「……陽子伝説には、本当は救いがあったらしいわ」
お由宇が思い出したように口を開いた。
「上人がやって来て陽子を諌め、人は外の『魔』から身を護るとともに、内の『魔』を出さぬように死力を尽くして戦うことが大切だと諭すの。けれど今、村人達が語る陽子伝説には、その救いの部分はない…」
おそらくは現実の事件が、救いを砕いてしまったのだろう。子どもを殺された父母の嘆きや怒り、哀しみは、外からの『魔』として石蕗家の門に遮られ、中には届かなかった。その絶望が昔話をも変えてしまったのだろう。
殺人犯は陽子と同じく、今でもこの高殿に、血の涙を湯水として使いながら、村人達の上に君臨している。
それは何という恐れだっただろう。
「…でも、鈴音さんは、救いの部分を知ってたぞ」
「そうね。そして、あなたを、二の門の外へ呼んだのよね、何かを告げようとして」
お由宇は少しことばを切り、俺を見つめた。
「でも、彼女は一の門の外へは出なかった、人々の叫びが聞こえる所までは、ね」
「…」
お由宇の声には鈴音を糾弾する響きはなかったが、触れると切れそうな冷たさがあった。
「どうする、志郎。ここを出れば、厄介事からは逃げられるわよ」
微笑んで一の門の外を指差すお由宇の指の向こうに、広々と深く濃い山の緑が広がる。重なるように、周一郎の顔が横切った。
「いや、やめとく」
首を振った。
「今更どうにもならないみたいだし……それに」
石蕗家を振り仰ぐ。そこまでの坂道を戻るには、うんざりするほどの距離があるに違いなかった。
「…無限の信頼、って言ったよな?」
「ええ」
「わかってないんだ」
言い切った。
「けど、あいつを裏切ることは嫌なんだ。…あいつがどう思っていようが」
お由宇がひどく優しく淡く笑った。思わず照れて続ける。
「それに、今の俺には、そっちの方が一の門のうちっかわのような気がする」
「志郎…」
「ん?」
「あなたにそんなことが言えるとは思わなかったわ」
「おい!」
俺は思い切りつんのめった。




