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「久は嫉妬深い男で、以前も天外和尚という生臭坊主が鈴音に言い寄った時、半殺しの目にあわせたようですよ。もっとも……さくが圧力をかけて表沙汰になるのは押さえたみたいだけど」
「…ふぅん」
突き放した物言いに、物騒な男だなと呟いて気づく。
「…よく知ってるな?」
「1日あれば、人の裏なんて十分見えてきますよ」
「…そんなもんかね」
俺には人の表と裏の区別さえ、見分けがついた試しがない。
「…そんな何とか和尚の話なんか、誰も話してなかっただろ?」
「知らなかったんですか?」
ちらりと周一郎は横目をくれた。
「あなたがここに来た時から、天外和尚の二の舞になるんじゃないかと使用人達が怯えてましたよ」
「…あ……ああ」
そう言われりゃ、何かひそひそ話をよくしていたな。
「なるほど……って、待てよ?」
もう1つ、奇妙なことに気がつく。
「俺が来た時からって、どうしてお前がそんなことを知ってる?」
確かこいつが来たのはもっと後のはずで。
「え、あ…」
急いで視線を逸らせた周一郎の頬が薄く赤くなったようだった。
「いえ、だから、僕は仕事のこともあって、ここに来た時からルトにですね」
いつものこいつらしくない野暮ったさで口ごもりつつ体を起こし、布団の上に目を落としたまま黙り込む。
「うん、ルトに?」
「にゃあ!」
ふいに、いつの間に抜け出していたのか、障子近くでルトが鋭い声を上げた。きらっと目を光らせた周一郎がそちらを見やる。振り向いて手を伸ばし、いきなり廊下側の障子を開け放った。
ばたばたとした足音が廊下の端へ消えて行く。
ちらりと見えたのは子どもの姿だった。
「に!」「おう!」
走り出すルトにつられて追いかけると、屋敷中を追い回すこともなく、すぐにそいつを捕まえられた。
「おい、待て!」「にゃっ!」
「わっ」
なおも逃げようともがく相手を前に回り込んだルトが制する。肩を掴まれ逃げられそうにないと判断したのだろう、相手はきっとこちらを振り仰いだ。顔貌はほぼ同じ、けれど激しい目の色は、きっと皖の方だろう。
「なにするんだよ!」
皖だ皖だ。間髪入れずに食ってかかるような真似は亘にはできまい。
「なんで逃げんだよ?」
「っ」
何か叫びかけたことばを呑み込み、きつく唇を噛む。怯えた色などどこにもない。
「逃げたんじゃない」
すぐに勝気な口調で反論して来た。
「逃げただろうが」
「こっちへ走って来ただけだ」
「じゃあ走って何してたんだ」
「…」
皖はますますきつく下唇を噛んだ。怒りのせいか焦りのせいか、真っ赤になった頬に焦ったそうな表情を浮かべ、眉を寄せる。
「何もしてない」
「にゃあん」
嘘つけ。
ルトの鳴き声がそう聞こえたのは俺ばかりじゃなかったらしい。そちらへ一瞬険しい視線を投げ、負けるもんかと言いたげに、皖はもう一度俺を見上げてきた。
「けど、部屋の前に居たよな?」
「あれは……母さまを探してて…」
言い淀んでますますじわじわ赤くなる。さすがにぴんときた。
「見たのか」
「……………」
弓でもあれば俺を射抜いていそうな強い視線が、ふっと弱まった。のろのろと首を落とす。
「皖君…?」
「……初めてじゃ……ないんだ…」
掠れた声で呟いた。ぎょっとする俺に、
「前にも…」
ぼんやり続けかけ、我に返ったように体を強張らせて首を振りながら叫ぶ。
「大っ嫌いだ! 父さまなんか……父さまなんか!」
握りしめた拳に全身の力を込めながらぶるぶる震えている。
話したい話したくない、訴えたい訴えたくない。
内側に力を溜め込んでいくしんどさは、俺にも覚えがある。
腰を落としてそっと皖を覗き込んだ。
「それで……この前………滝さん……亘に優しかったから……それで…」
今にも消えそうな声で続けた。
「…和尚さんの時も……母様が……だから…今度は…滝さんが…」
「へ?」
きゅと口を結ばれて凍りついた。
ちょっと待て、左右確認横断歩道、じゃない!
なんかとんでもないことを聞いてないか?
今のややこしいあれのことじゃないな? 和尚さんって例の和尚だよな? でもって、さっき和尚が鈴音にどうこうってので久がブチ切れて、って聞いたよな? けれど、こいつが今話してるのは、鈴音が俺を誘惑して、それでややこしいことになりかねないって、そういう意味だよな?
脳裏に昨夜の鈴音の姿が蘇る。熱っぽくて色っぽくて、いやいや待てよ待って下さい、まさか。
「おい、母親のことをそんな風に」
「母さまは好きだよ!」
皖は真剣な目の色で俺を見つめた。
「母さまは好きなんだ…」
じれったそうな口調、寂しさを滲ませる。
「亘は…いいな…」
「? どうして?」
「だって…」
ふうと大人びた溜息をついた。一瞬、亘によく似た気弱そうな微笑を浮かべた。
「…だって…さ」
「皖君?」
「……ぼくと……亘とどっちが好き?」
唐突に尋ねられた。
「え?」
「それに答えられたら答えるよ!」
ぽかんとした俺の手を振り解き、身を翻して走っていく。
「なんだ?」
「にゃ」
隣でルトが応じて振り向く。ぱっちりした金色の虹彩、黒い糸のような瞳孔が見つめ返してくる。
「お前わかったか?」
「にゃん」
「俺には全然わからん」
「でしょうね」
「っ」
どきりとして振り返ると、着替えを済ませた周一郎が相変わらずの白い着物姿で立っていた。サングラスの向こう、眩そうに目を細めているのが日差しに透けて見える。
「でしょうねって、お前はわかってるのか?」
「少しは」
「にぁん…」
甘えた声を上げてルトが周一郎の足元にすり寄った。そっと抱きあげながら、
「僕も……そういう繋がりがずっと欲しかったから」
「つながり?」
「もっとも…最近気付いたばかりだけど」
すり、と伸び上がって頭を擦り付けるルトに珍しく頬を寄せて応じ、周一郎は苦笑した。
「?」
「あなたはわからなくっていいんです」
「??」
くるりと背中を向けた姿の向こうから、いつものように感情のこもらない声が響いた。
「お由宇さんが探しているようでしたよ、滝さん」