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「うー……」
結局俺はまんじりともできないまま朝を迎えた。
障子を通して入ってくる日差しに部屋の中がぼんやり明るく見える。床の間の一輪挿し、屏風、そして隣の布団で安らかに『お休みあそばしている』周一郎。
「この野郎…」
じろりと見遣った。
こっちは中途半端に途切れたことばの続きがわからなくなってイラついた上に、また例の亡霊話を思い出したものだから、とても寝るどころじゃなかった。おまけに、さくが殺されたのは、庭の池を挟んでこの部屋とほぼ向かい側にある部屋だと気づいちまうし。
なのにどうして『現場』を見たお前が、それほどすやすやと眠っていられるんだ? 経験値の差か?
「…」
うつ伏せになっていたのをもぞもぞと起き上がる。十分朝だし、鼻でも摘んで叩き起こしてやるかと手を伸ばしかけ、同時にもこもこ動いた周一郎の布団にどきりとした。
しまった、起きてたのか。
「にゃあ」
「ルト」
ちゃっかりご主人の懐に潜り込んでいたらしい青灰色の猫は布団から抜け出してくると、前足を揃えてきちんと座った。
「お前、いつそこへ入った?」
「…」
今度は応じず、じっと顔を上げて俺の手を見つめている。
「あ、え、あの、あはは、あの、これは別に殴ろうとかそういうのじゃなくてだな」
弁解に戻ってきたのは冷ややかで硬質な視線。
「あは、は、はは」
「……」
「…すまん」
とりあえず謝って手を下ろした。
敵影が消えたことに満足したのか、ルトは周一郎の顔の側で長々と寝そべり、尻尾を指先に絡ませるようにくねらせている。
それに刺激されたのか、周一郎は射してきた日を避けるように寝返りを打ってこちらを向いた。枕にきちんと頭を載せ、寝巻きの浴衣の襟元も整ったまま、布団の裾も乱さずに静かに眠っている周一郎は、20歳前というより、もっと年下…子どもに見える。
小さな子どもが精一杯大人の仕草で眠っている。
「そうか…」
ふと気づいた。
「お前さん、そうやってずっとあの家でご主人を守ってきたのか」
「にゃあん」
青灰色の小猫1匹しか味方がおらず、牙を隠し持った大人達に囲まれながら闇を見続けてきた周一郎には、今更殺人とか亡霊とかに怯える神経などないのだろう。死んだ者よりもっと残忍に人を嬲れる、生きた人間の欲の亡者達の方が、よっぽどおぞましくて恐ろしいのだろう。
「そういう経験値は、嫌だな」
「…なぁん」
小さな声でルトが鳴く。
2匹の猫が寝そべっている。甘えてこない、本音を見せない、そのくせ一挙一動を心に刻み込むように見つめている。
「……猫は猫でも、眠り猫だな、こいつは」
眠れる時間はほとんどなかったのだろう。だからこれほど眠るんだろう。
「まだまだうんと…足りない、か」
ふああう、と欠伸をした。
俺みたいに十分眠ってきた人間だってまだまだ眠い。周一郎と対照的に乱れて今にも脱げそうな浴衣をかき合わせる。もう少し夜が長ければ、すっかり脱いでしまってるところだ。育ちというのはこういうところにも出るもんなのか。
「やれや…」
「この…売女!」バシン!「きゃっ!!」
「っっ?!」
がしがし頭を掻きかけた途端、激しい罵声と何かを叩く音、悲鳴が響いてぎょっとした。
耳を澄ませる。何か聞こえるような気もする。
そろそろと床から離れて障子を開ける。外のサッシが少し開いていた。このせいで夕べが肌寒かったのかもしれない。
窓の外、裏庭の端で肩を怒らせ息を荒げて立っているのは久。足元にいつかの亘のように、崩れるように鈴音が座って頬を押さえている。
「大方、あの滝とか言う若造に惚れたんだろうが!」
「違います!」
悲鳴のような声が応じた。
「違う? ふん、それにしては最近妙に嬉しそうだな!」
「誤解です、あなた」
赤くなった左頬から手を離し、鈴音は懇願するように久を見上げる。
「わたくしはあなたのために、あんなことまでしたではありませんか!」
(あんなこと?)
切羽詰まった声の調子に首を傾げる。
「どこまで本当だか、わかったものではないな」
吐き捨てる久の声は苦々しい。
「母がいなくなったからといって、ここからは逃げられんぞ。お前は誰にも渡すわけにはいかん。ずっと俺のものだ、俺の…」
「あ…いやっ…あなた、あな…」
「どわっ」
久に抱きすくめられた鈴音がぐいと着物を剥かれ、白い肌を晒される。
慌てて窓から飛び退いた。
「おいおい、いきなり何…」
「…あぁ…」
「ひえっ」
急いでサッシを閉め、室内へ撤退して障子も閉めた。体がばくばくしている。何が悲しくて朝も早くから夫婦の営みなんぞ見せつけられる羽目になる。そんなことは室内でやれ室内で!
「ったく、怪異に殺人にポルノなんて三流映画館かここは…」
くす、と微かな声が響いて思わず固まった。
「………」
ぎくしゃく振り返ると、布団に横たわったままの周一郎が悪戯っぽい目でこっちを見ている。唇を片端だけあげて見せ、
「久と鈴音ですか?」
「っっ!」
こいつ、知ってやがんのか。
ざわっと身体中の血が顔に集まってきたみたいに熱くなった。
ひょっとして覗き見してるのも見てたのか。
今後は一気に顔が寒くなる。
「お前…」
「ところ構わず、ですね」
俺が赤くなったり青くなったりしているのを気にした様子もなく、見ようによっては悪魔っぽい微笑が消えた。転がって天井を見上げ、淡々と続ける。
「この前の時もそうでしたよ。同じようなことがあって、たまたま亘と皖が見ていた。鈴音に拒まれて腹を立てた久が逃げ遅れた亘を捕まえて折檻したんでしょう」
冷ややかな瞳がより硬く嘲りに満ちる。




