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「厚木警部」
障子の向こうから声がして、警部はひょいと顔を上げた。鈴音の声だ。さっきまで横になっていたはずだが、もう気分が落ち着いたらしい。
「志垣さんがいらして頂きたいとおっしゃってますが」
「ああわかった、何か見つけたかな。…由宇子」
「ええ。じゃ、後でね、志郎、周一郎君」
音も立てずに立ち上がって、お由宇は警部と一緒に部屋を出て行った。
「やれやれ…」
溜息混じりに足を崩す。
「また妙な事が絡んで来やがった」
「お由宇さんは…」
沈黙を守っていた周一郎が呟いた。
「石蕗家に焦点を絞っているみたいですね」
「よせよ」
思わず引きつって相手を見る。
「じゃあ、俺はそのど真ん中に居ることになっちまう」
「違うと思ってたんですか?」
「おい、険があるな」
さすがにいじけた。
「この間からえらくつっけんどんじゃないか」
「僕は…」
周一郎は目を外らせ、少し赤くなった。
「そんなつもりは…」
「じゃあどんなつもりだよ」
「……」
気まずそうに黙り込んだ周一郎を救うように、障子の外から再び声がした。
「失礼いたします」
「はい」
障子を開けた鈴音が、両手をついて頭を軽く下げ、
「お布団を敷かせて頂きます。今夜一晩、こちらでお休み頂けますか」
「へ? 周一郎も?」
「ええ、その」
鈴音は一瞬困った顔になったが、
「実は警察の方々の本部にお部屋を提供することになりました。泊まられる方のお部屋がどうしても都合がつかず……申し訳ございません」
これだけでかい屋敷の中で、たかが十数人分の部屋がないというのも不思議な気がしたし、警察の本部を一般民家に置くというのも違う気がしたが、石蕗家というのはこの辺りの領主的な地位にもあるようだし、何か昔からの特別な待遇もあるのかもしれない。
「あ、いや、構いませんけど」
「ありがとうございます」
鈴音はほっとしたように笑って部屋に入って来た。主さながらに端然と座って居る周一郎に一礼した後、慣れた様子で布団を敷き始める。
さっきまでの禍々しい雰囲気は跡形もない。儚げではあるものの、テキパキと動いて布団を整えていく鈴音は、石蕗家を取り仕切る女主人がわざわざ自らもてなしてくれようとしている、そんな風に見える。
「…それでは、おやすみなさいませ」
「はい、おやすみなさい」
「…お休みなさい」
かたりと軽く鳴って閉まった障子と、その向こうに遠ざかる鈴音の姿を見送って、石蕗家の人間は行きの電車の車掌のような訛りがないと気づいた。
「…標準語だよなあ」
「訛りのことですか?」
周一郎が頷く。
「官公庁などの公式な場に出ることも多かったからでしょう。それよりも」
「それよりも?」
「……」
周一郎は瞳を遠くに彷徨わせている。そう言えば、ルトの姿がない。
「周一郎?」
「彼女は、僕と滝さんが知り合いだと知っているみたいですね」
ふっと焦点を戻して振り向く。
「吉田弁護士が話したんだろ?」
「久は知らなかったけれど」
「そうなのか?」
冷えてくる夜気に、おい寝ようぜ、と声をかけ、布団に潜り込む。
まだ気がかりそうだった周一郎が溜息をつき、明かりを消して同じように布団に滑り込んだ。
「…」
真夜中はとうに過ぎている。寝そびれて今一つ眠気を感じない。
「滝さん? 寝たんですか?」
静まり返った夜に、夢の間をすり抜けるような淡い声が聞こえた。
「起きてるよ」
自分が声をかけたくせに、俺が返事をしたことで一瞬たじろいだようだった。
「何だ?」
「…すみませんでした」
「?」
「僕、やっぱり、少し言い方が悪かったかもしれません」
瞬きをして眉を寄せる。言い方? いつの、どんなことだっけ?
「僕はただ…滝さんとの…」
闇の中から聞こえていた声は不意に途切れた。待てど暮らせど、その後が続かない。続けるのをためらって考え込んでいるようにも感じる。
「…周一郎?」
尋ねてみたが、返答はない。耳を澄ませると規則正しい寝息が微かに聞こえて来た。
「…もし狸寝入りだったら、首絞めてやるからな」
答えが得られなかった欲求不満で余計眠れなくなったのに、俺は殺気を込めてぼやいた。




