1
「は?」
俺は改めて、相手の顔をまじまじと見つめた。
季節は初夏もそろそろ去って、夏へと本格的に入っていこうかという7月のこと、朝倉家の応接間にはきらきらした金粉を含んだ光がふんだんに入っている。
目の前に座っているのは、歳の頃60と少し、品の良さそうな老人で、しっかり着込んだ背広を脱ぎもせず、暑がることもなく、両手を膝に載せた黒革の事務カバンの上に置き、軽くソファに腰掛けている。こういう豪勢な応接間には通り慣れているらしく、逆に俺の方がさっきから落ち着かなくて、高野の持って来てくれたコーヒーを一口飲んでは皿に戻し、戻しては取り上げて一口飲み、再び皿に戻しかけてやっぱり飲もうと思いとどまり、口まで持っては来たものの、口を開けるタイミングがずれて膝に零すというばかを続けていた。
「あの…」
諦めて手にしたカップをテーブルに置き、俺はおどおどと相手の穏やかな表情を見つめ返した。
「おっしゃっている意味がよく掴めないんですが……いや、その、日本語がわからないわけじゃありません! 日本語は良く判ってます! 英語も少しならわかりますし、ジスイズアペンとか!」
ふ。
老人が苦笑して、顔に血が昇った。
どうして俺って奴はこういう上品系知識階級系の人間に弱いんだろう。落ち着いた相手の物腰に合わせようとして、いつもいつもへまをする。
「では、改めて申し上げましょう」
老人は微笑みながら続けた。
「私は吉田幸雄と申します。大館様、石蕗伸次様の顧問弁護士を務めております。この度、大館様の御遺言状に従い、あなたを石蕗家の遺産相続人としてお迎えに上がりました」
「石蕗家と言えば、由緒正しい古い血筋の家柄です。名門名家の多いあの地方でも一二に名前を挙げられるぐらいのね。皇族と繋がりがあったという話もあります」
周一郎は肩越しに視線を投げてくると、ソファにひっくり返っている俺に問いかけた。
「滝さん、本当に覚えがないんですか?」
いささか不満げな声音だった。
「俺に覚えがないかって?」
天井を睨みつけたまま唸る。
「覚えがありゃあ、とっくの昔に苦しい生活を助けてもらいに行ってる」
頭の中の数少ない記憶の箱をがたごと転がしてみたが、覚えがあるのは金には縁がなさそうな面子ばかり…まあ、もっとも正体不明のお由宇は別にして、だが。石蕗なんて名前は聞いたことも見たことも、ついでに食ったこともない。
「じゃあ、どうして」
「こっちが聞きたい」
むっつりと応じる。
吉田と名乗った弁護士は、俺のような理解の遅い有象無象に慣れているのか、終始一貫した辛抱強さで初めの台詞で惚けてしまった俺に懇切丁寧に説明してくれた。
石蕗家は広大な山林と田畑を持ち、昔はその辺り一帯を治めていた領主だったらしい。そのため、周囲の村人は今でも石蕗家を館様と呼び習わし、何か変事が起きれば、警察や役所よりも先に石蕗家に伝が飛ぶ。
その当主、石蕗伸次はついこの間心臓マヒで突然死した。
幸い遺言状が残っていたため、石蕗家の莫大な財産の譲渡先は明瞭にわかったが、第一番目として上げられていたのが滝志郎、つまり、この俺だった。
(一体何だって、その石蕗とか言うじーさんは、俺の名前を知ってたんだ?)
これがまず第一の疑問。
腕を組んで、頭の後ろに引き込みながら考える。
じーさんが死んだのが5日前の7月12日、それから2日で吉田弁護士は俺を探し当てたというのだから、いろいろとんでもない量の調査が為された後に違いない。それほどの名家で、しかも呆れ果てるほどの財産と権力があるならば、他のどこかのタキシロウではなく、俺がそうだと確信できるまで、とことん調べ尽くされたはずだ。
だが、何度考えても悩んでも、俺には全く思い当たる節がなかった。