旅の途中にばったり熊に出会う。 熊「どないしたん?」と私「!」で始まる近未来の短い話
さらさら雪
本州の雪は、さわるとしっとり水気を感じる。ここの雪は、まるきり違う。雪は、靴裏についたのを払う時も、ひと塊りを手すくい握って離す場合も、さらさらべ粉のように振舞う。
北海道の東部の気温は、真冬1日中氷点下になる。太陽が出る前の晴れた朝は、マイナス20度とか30度になる。そんなのだから、雪は春までずっと粉のままである。
徒歩旅
今日の朝 N町のホテルを出発して、隣の B町に歩いて行く。距離は、直線でだいたい20キロ メートルある。歩いて5、6時間で着くだろう。
この地方は、フットパスが多い。フットパスは、何十キロメートルもあるハードな散歩専用の道のこと。今歩いている所もそうで、大昔に鉄道が通っていて廃線後に道にした。この道の良い所は、坂やカーブが少なく楽に歩けるところ。鉄道は、急なカーブや坂が苦手なので極力避けられていたためだ。
無人地帯
散歩専用道は、もうだいぶ長い間、使用と補修がされてないようで、舗装は朽ち果てつつあり、盛り土の部分など崩れている所もある。道の真ん中に若い木が生えていたりする。ここも、近いうちに自然に戻りそうだ。
だいぶ前は鉄道が必要なくらい人間が住んでいたが、最近はすっかりいなくなって、このあたりは、各町の中心にこじんまりと人が住んでいるだけで、それ以外の広大な地面にほぼ人はいない。最近は、鉄路だけでなく道も廃止されるようになった。
鉄橋
真冬の気温は、1日中氷点下を超えない。とても寒いが、ここ数日ずっと晴れ。青い空に雲がなく太陽だけの日が続く。そんな天気なので、寒いけれどちょっと歩くのが楽しくなってきた。
道は谷と丘の間を、小高い土手のような盛り土の直線の道が続く。
川に橋がある。長さは20メートルくらい。水面から、5から6メートルの高さに、川の流れと直角に架かっている。
橋は鉄でできていて、厚い細長い鉄板を、四角や三角になるようリベットで組み立てて、さらに角柱のように立体的になるよう工作されている。
たぶんこのフットパスができた昔は、道として渡し板とか簡単な手すりが、この角柱の上にあったと思う。今はそういうのは、なくなって鉄の骨組みだけになっている。
さて、渡ろう。でも、角柱の鉄の板と板の隙間は、人が落ちるのに十分の大きさがある。錆びが進ん鉄の板がブラブラになっている部分や、ボロボロの虫食いの葉みたいなったところもある。
足を着く所を慎重に選べば、平均台の上を歩くよりは簡単に渡れそうだ。しかし、水面までは高く、川底はその割に浅く見える。雪が薄く鉄板の上に積もっているので、足を滑らすかもしれない。落ちたら水深があまりないので、川底の石とかに衝突して大怪我をする。無人地帯での怪我は、恐ろしい結末しかない。
落ち着け
こういう時は、落ち着くよう努める。
もし落ち着かないまま、たとえよく考えて行動したとしても、後になって思うと大きなミスがあって、より難しい事になる。急ぐ旅でない。約束事もない。命に関わるリスクがここにある。慌てて何かすることはない。『じっくり考えよ』と強く自分に言い聞かせた。
まずは、背負っていた旅道具の入ったリュックを地面に下ろす。5から6キログラムの重さが背中からなくなり、ちょっとほっとする。
防寒用のフードを脱いで頭を冷気に晒して、両腕を大きく回転させて深呼吸をした。冷たい空気が耳に晒され、痛くなってきたのでフードを頭にすぐ戻す。
「よく考えよ」と声に出してみた。
今どこに私はいるのか? スマホの電波の棒は最弱を示している。こんな無人の地でも最小限の電波は届く。既に町中の電波が豊富な所で、地図情報を手にいれていた。スマホは、最弱電波とGPS信号によって、地図上で今いる位置を詳しく示してくれる。
この川を渡れば、橋もなく平らな所ばかりのはずで B町まで大きな障害なく行けそうである。
渡らず引き返して、フットパスと平行にある町まで通じている国道に行ける道の分岐点まで5 キロメートル。でもね、さっき通ったその分岐点を思い出すと、道の痛み具合から廃止された道であろう。地図で見るとその道は、川を横切っているので無事に国道に行けるか怪しい。そうすると、最初のN町近くまで戻らなくてはいけない。振り出しに戻るのである。
「ああ、面倒くさいなあ」と声が出た。
昔はもっと道がたくさんあって、好きな方向に移動できた。人がどんどんいなくなって、鉄道がなくなり、バス路線がなくなり、学校もどんどんなくなり各町の全年齢用総合学校に1つづつにまとめられ、家もなくなって、条件の悪い畑や牧場も放棄された。そういう所を通る道は整理され廃止された。
水面をのぞいてみる。橋を渡らず川を渡れないか。氷は全面に張っておらず、その上を歩けない。水深も歩いて渡るには深いようで、真冬に体が濡れることになる。それは命にかかわる。
「これは無理」と大きめの声。「戻るしかないかも」と小さな声。
熊
「どうしたん?」後ろからやさしい声がした。
想定していないことが起きると、こうも当たり前のことが判らないものなのか? 私だけがそうなのか、それともみんなそうなのか。
誰か居ると思って振り向くと誰もいない。その代わりに黒いもふもふの物体が、ひと塊りあった。何だこれと思っていると、脳内で背景と黒色が分けられ、黒の形が整理され、やっと判った
「これ、熊だ」
この時私は、叫んだり、気絶したりしなかった。次の事を冷静に想像した。
その1。熊がにじり寄って来て、強靭な前足で首をはたかれ、とどめをさされて食われる。
その2。熊を睨む私。膠着している間に緩慢に後ずさりして逃亡を図る。しかし、冬眠をしそこなった空腹の凶暴熊に通じず、その1に至る。
その3。荷物を捨てて、それを身代わりに置いて逃げる、すぐに欲しい食べ物がないことに熊が気づき、時速50キロメートルで追いかけてきて、その1に至る。
「どれもその1になるのか」と私。
「その1? なに言うとうん?」と熊。
「なにに困ってるん。どないしたん?」と続けて熊。
2メートルくらい離れていた熊が、こちらに寄ってきた。
「なぜ喋る?」と私。
「なんで言われても、そういうもんやから。それより、川を渡れなくて困ってるんのと違うん?」と熊
「そのとおり(えらく察しがいい熊だ)。橋を渡ろうとしたけれど、壊れてて通るのは危ないと思った。引き返すのも面倒でどうしようか考えていた」
「ほんなら、わいの背中に乗せて渡してあげよか? どう?」
「うーん。遠慮しようかな」
「なんでや!」と少し怒り口調の熊。
しまった。体が今さら恐怖を感じ、心臓がどきどきし始めた。熊に逆らうのは止めよう。
「渡してあげるから、わいの背中に乗り。はよ。はよ」と少し優しい口調で。
川を渡してもらう
熊は落ちないように、手でしっかり毛を掴めと言う。ちょっとごわつく毛の束を、両手でしっかり握った。熊の背中は、つやつやの毛で匂いもなくとても清潔な感じ。胴の丸みにそって座るので安定はしない。
「毛、痛くないですか」
「わいは、あの(猛獣の)熊やで。問題なしや。」
橋を渡る時は、すごく揺れるかと思ったけれど、熊は猫のようなしなやかさで、人間が歩くのを躊躇するような足場を、私が乗っている背中をなるべく揺らさないよう水平のまま、すたすたと繊細に渡った。
お礼
背中から降りて一言。
「ありがとう。くまさん」と私。
「大したことあらへん。いつも通る散歩道やから、難しいいことあらへん」と熊。
「それと、わいのことは『くまさん』でなく、ヒグマなんで『ひーさん』と呼んでくれたら嬉しい」
「わたしのことは、ごんと呼んでください」と人間の私。
「なあ、ごんさん、今からどないするん?」
「B町まで行って、どこかで泊まろうと思っています」
「この先にもう一か所川を渡るところがある。でもそこは、橋が崩れて撤去されてあらへんよ」とひーさん。
「困った。この川の土手沿いを海に向かって進めば、町に行く国道に当たるので、そこに行こうかな。どうしようか」と私。でも土手も、ちゃんと国道まで進めるか怪しい。
「ごんさん、よかったらうちに泊まらんか?」
ちょっと考える。うち(家)は、地中の巣穴のことでは。丁重に断ろうと決めてそのことを言いかけたら、ひーさんが。
「巣穴と違うで、人間が住んでた家や。けっこう綺麗にしているから、気に行ってくれると思うよ」
「どうど泊めてください」
「ええよ」
喋るひぐまの家に泊まるなんて、ちょっと、だいぶ、かなり? 危険なことだったかも知れない。流暢な喋り方、人を背中に乗せた時の繊細な体の使い方、しかもちゃんとした家に住んでいう。どんな人間もひーさんの申し入れを断るのは、恐怖より好奇心が勝って無理だろう。いや、やっぱり逃げる人のほうが多いか?
ひーさんハウス
元鉄路のフットパスをしばらくひーさんと一緒に歩き、直角に交わるほとんど使われていないであろう道があった。その道をしばらく行くと、ひーさんの家があった。昔、牧場を営んでいた人の家のよう。
敷地は広い。家は、木造モルタル仕上げ2階建、築60年くらいか。最寄りの駅まで、車で120分。家の近くのサイロや牛舎は、屋根には穴、壁は所々剥がれ落ちて朽ちるままのよう。
しかし家だけは、古いけれど手が入っているようだ。ひーさんの仕事だろうか?
ひーさん玄関の引き戸を(老朽化しているので)そろそろと開けた。
「まあ、超きれいとは行かへんけれど、上がって。靴は脱いでな」
ひーさんは終生裸足だが、家に上がる時に手(前足)を巧みに使って、足と手(前足)をブラシでこすって、土とか雪を落とし、さらに布で肉球を拭いていた。だから部屋の床は綺麗である。
ISARC
玄関を入ると看板があって「ISARC(国際喋る動物保護研究基金)」(和英併記)とあった。
「ひーさん、ISARCて何ですか?」看板を指差す私。
「書いてあるとおりや。わいはここの職員かつ保護と研究の対象や」
「人の言葉を理解して、なおかつ喋る動物が、そこそこおる。そういうのを対象に研究してる。ほんで、ここは日本の北海道支部や」
私、「そういうの聞いたことないなあ」
「あんまり有名やないからな。でもググれば出るで」
猫が玄関に出迎えに来た。こっちを見た。
「猫さん。こんにちは。ごんと言います。ひーさんの紹介で、ちょっとお世話になります。どうどよろしく」
猫、「にゃ」と言って立ち去る。
ひーさん、「あれ、しゃべらんよ。わいが飼ってる猫のとらこや」
ちょっと恥ずかしくなる私。猫に丁寧に挨拶する人間は、あまりいない。
ひーさんの話では、ここは、宿泊所、事務所、研究所、保護施設兼用になっていて、冬は時々しか来ないけれども、暖かい良い季節になったら人間の職員も結構来るとのこと。そのための滞在用の部屋とか、食料とか色々あるとのこと。
食料や資材が無くなったことを本部に知らせると、アマゾンとかの通信販売で不足分が届く。こんなほぼ無人の地で配達があるのかと思ったが、宅配ドローンが飛んで来て、玄関前に設けた受け取り網に勝手に荷物を落として行くとのこと。とても便利。
風呂
風呂に入れるとは思わなかった。道と共に廃止された電気もガスもこの家にはあって、それは多分自家発電とプロパンガスボンベを使っているのだろうけど、水は井戸だろうか? ひーさんが風呂を用意してくれた。
「これは本当のことか?」の湯船で独り言。
困っていたら喋る熊に助けられ、家に泊めてもらう。体がきれいになったところで、食べられないだろうか? 喋る熊の秘密を知った私は、だいじょうぶだろうか? 喋ることが、そもそも秘密なのだろうか? ひーさん、ごんさんと名前を呼びあう仲で、そんな怖いことはあるまい。いや、今日起きたことは、絶対ないと思っていたことの連続であった。最後に最悪のことが起きるかも知れない。
良と悪がぐるぐる回る。
「でも、色々よくはしてもらった」と独り言。
ひーさん、事情を知らない人にばったり会ったら、どうするのだろう。元からこの地に熊がいるし、人間はいなくなりつつあるので、遭遇も少ないからどうということもないだろうか? ヒグマの仲間とうまくやっているのだろうか? 喋る熊が世間に知れたら、色んな人が押し寄せて来て、とても面倒なことになりそうだけど、どうだろうか。よくしてくれたので、協力できるようなことはないだろうか?
夕飯
湯上り後、2階の宿泊用の部屋に行った。床がたたみ、壁が木目調の合板で、昭和時代の映画で見た60年前の内装だ。手入れはされている感じで、古いがぼろくはない。強力な床暖房があって寒くなくちょうど良い。
今は珍しい有線電話が鳴って、コの字形の受話器を取るとひーさんからで「夕飯どうやろか」、「いただきます」と私。
1階の居間は、床暖房がよく効いていてぬくぬくしていた。猫のとらこは、外がマイナス20度になっているとも知らず、横になって手足を伸ばして棒のようになって寝ている。
机の上は、ひーさんが用意したカレーライスが2つ。コップに入った水が2つ、花瓶に花があった。
「ひーさん、花を飾るなんて、昔の女の子みたい」
「わい、女やで」とひーさん。
今日何度目の想定外だろうか。
「そうなんですか。男と勝手に思ってました」少し動揺。
「人間から見たら、ヒグマの雄と雌は、ぱっと見わからんやろうからしかたない」
「ひーさん、関西なまりの言葉で、自分のことを『わい』とか言うから、男と思ってましたよ。でも、北海道でなぜ関西なまりなんですか?」
「わいが子供の時の世話係に人が、そういう喋りかたやった」
「テレビとかネットとか女の職員もおって、ほかの喋りかたも知る機会はあったんやけど、この喋りかたが気に入って、ずっと使こうとる」
「方言ヒグマさんになるわけですね。面白いですね。」と私。
「カレーはよ食べてん。冷めてまうから」
「いただきます」「ひーさんはカレー好きなんですか」
「好きやで、でも本当は人間のほうがもっと好きや」(ジュルジュル)よだれの音。
恐怖で凍る私。
「ごめん。冗談や、ブラックなジョークや。気にせんとって。カレーに限らず、人間の食べもんは大体おいしい。職員からは、人間のものばっかり食うのは不自然すぎる。熊らしいもん食べときて言われる。あと人間は食べたことないよ」
「だから、まあ食べ物の半分くらいは、外で自分で色々なものを採る。まあ熊やからあたりまえやな」
「ふーん、そうなんですか。あと、ひーさんの熊ジョーク、私にはきつすぎます」
次の日
「どうもとてもお世話になりました。ひーさんがいなかったら、遭難して、今ごろお仲間のお腹の中かも知れませんでした」と私。
「その冗談W。まあ、冬やからみんな冬眠中や。でも夏やったら、わいの子がそうしてるかもしれん。これはジョークと違うで」
「ひーさん、子供いたんですか」動揺した口調で私。
「子とは上手くやっとるんやけど、人の言葉はできん。まあ、人を襲うことはないやろけど、獣やし餌がなくなったら、ないとは言えん」
「次来る時は、熊よけ鈴つけて注意します」
「それ今逆効果やで、熊の界隈で鈴の音言うたら、『獲るのに簡単なやつが来た』の合図やから。静かにさっさと移動する方がええよ」
ぞっとする私。
お誘い
「ひーさん、なにか協力できることはない?」
「うーん、(少し考えて)今は大丈夫やな」
「今はないけど、未来が心配ということ?」
「ごんちゃん、未来はどうなるか判らんんから、わいに限らず心配やで」
当たり前のことを熊に諭される私。
ひーさん、真面目な顔になって。(熊は表情に関する発達した筋肉がないので、気のせいだろう)
「ごんちゃん、わいの好きなタイプや」
「えー私、人間専門です」と心の声で答える。気持ちが顔に出たのだろう。
ひーさん、「好き言うても、そういう意味でなくて気に入ったと言うことやで」
「それは、とても嬉しいです」
「ごんちゃん、わいらの職員にならんか? 動物の喋りを理解できる人て、あんまりおらへんのや。大体の人は、わいらが言葉を発しても、獣が唸っているようにしか聞こえへんみたい。ごんちゃんみたいな人がおったら助かる」
「それ本当ですか? ひーさん、すごくはっきり喋ってますけど?」
「スマホでわいが喋ってる時、動画で撮ってみ」
撮って再生すると、ヒグマが唸っているだけだった。
「どうなってるんですかこれ?」と驚く私。
「研究中やけど、今のところ何でこうなるか、さっぱり判らん」
ひーさんが言う、
「まだ例がないんやけど、牛や豚、鶏が喋るとなったらどうなんやろか。ごんちゃん、喋る肉を食べれる?」
最近聞いた話の中で最も恐ろしく感じた。身体中に電気が走った。
「喋る動物がどないなるか判らんけど、なんとかはしたいな」
私に動物や言語に関する専門知識はない。国際機関に必要かも知れない、翻訳機なしで外国語の使用もできない。でも動物と会話できる特技はある。
「ひーさん、わいもいっしょに働くわ」
「何で関西弁?」とひーさん。
終わり
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