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恋愛  作者: 月沢あきら
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第三回

 真夜中の東京。美沙は一心にパソコンの画面を見ている。インターネットの記事に目を通していた。克樹らしい人物がいないか探しているのだ。克樹が消えてから三日が過ぎた。美沙は仕事が終わってからあちこち探し歩いていた。ネットで尋ね人の掲示も出した。しかしまだ手がかりになるようなものは何もない。画面を見すぎて目が痛いし、睡眠不足で頭も痛い。だが焦燥感にかられて、何もせず眠っていることはできなかった。

 会社での克樹の扱いは病欠という事になっていた。だがそれも二週間が限度との事だった。その間に本人から連絡があればまた対処するが、なければ本人不在のまま退職扱いになるとの事だった。一刻も早く所在を確認しないと。

 大きくため息をつく。コーヒーカップに手を伸ばすが空だった。目を上げるとカーテン越しに空が白んでいるのが分かった。パソコンの電源を落とし、嫌々ベッドに入った。少しでも寝ておかなければ仕事に差し支える。ずるずると身を横たえる。克樹の両親からはあれきり何の連絡もない。彼はどこにいるのだろう?なぜ連絡もしてこないのだろう。美沙に連絡がないのはわかる。携帯の番号を覚えているわけはないと思う。しかし、実家には連絡できるはずだ。なのになぜ。この何日かで幾度も浮かんできた疑問をまた反芻する。なぜ、と考えているうちに意識が薄れてきた。




 徳島。

 克樹が目を覚ましてから三日目。病院に搬送されてから五日が過ぎていた。克樹の身体は順調に回復していたが、記憶障害は相変わらずだった。朝出勤してきた理恵子はそう申し送りされてこっそりため息をついた。だが同じく朝出勤してきた他の二人も落胆の声を上げているのを聞いて、皆同じなのだな、と少し安心した。

 病院の朝は忙しい。様々な検査の準備や医師の回診などで気付けば昼を過ぎている。キューキュー鳴く腹の虫を抱えながら、理恵子は患者の昼食の食器の回収にかかっていた。病院食は動ける患者は各自、自分の名前が書かれたプレートの物を取って行って食べてもらうのだが、動けない患者にはベッドまで運び介助したり、食べた量を記録したりする必要のある患者には看護師がトレイを下げる。

 理恵子が山田氏の病室に行くと彼はベッドに座って外を見ていた。

「失礼します」後ろ手にドアを閉めてベッドに近づいた。食器の中はきれいに空になっている。

山田氏は振り返って頭を下げた。頭の包帯は取れ絆創膏が貼られている。右足はがっちり固定されているが、左腕のギブスは包帯で添えられているだけで、清拭の時などに取り外しができるものである。あちこちにできている擦過傷も随分目立たなくなってきている。

「具合はどうですか?」

「身体はだいぶいいです。痛みもましになってきました。足はまだ痛いですけど」

「開放骨折でしたからね。何をご覧になってたんですか?」

彼は首を傾げた。

「窓から何を見ていたんですか?何か面白いものでもありました?」

彼は首を横に振った。

「何を見ていたという事はないんです。ぼんやりしていただけで。そういえばこの前も同じこと聞かれましたね」

理恵子は顔をしかめた。質問は負担になるというのに。だが彼が何を考えているのか知りたいのだ。気詰まりな沈黙を振り払うように

「そうだ。天気もいいですし、少し散歩に行きませんか?気分が変わるかもしれません。私、車椅子借りてきます」

そう言うと返事も待たずに部屋を出た。

車椅子を押して戻ると彼はベッドに腰かけて待っていた。横には松葉杖も用意している。理恵子は手を貸し車椅子に座らせた。エレベーターで一階に降り、庭に出た。

「なんだか外の空気を吸うのは久しぶりだなあ」

 庭の敷地は広く、なだらかな高低差があって歩道部分は舗装されてスロープになっているが、それ以外の部分はあまり手入れがされていない。病院にはそこに割く予算がないのだ。灌木は伸び放題になっていて芝地の部分は雑草も多い。時折近隣の人たちがボランティアで雑草を刈ってくれたりしているが、敷地すべてを整備するには至らない。

 理恵子はゆっくりと車椅子を押していった。彼は目の上に手をかざして遠くの山を見た。

「視界が広いなあ。高い建物が全然ないし、東京じゃこうはいかないなあ」

 その言葉に衝撃を受けた理恵子は、車椅子のハンドルを放し前に回り込んだ。理恵子の勢いにぎょっとした彼は「東京?今、東京って言いました?あなたは東京で暮らしてたんですか?」という言葉に顔色が変わった。

「え?」

 理恵子は車椅子の前にしゃがみ込み、克樹の顔を覗き込んでいる。彼は視線を外し、しばらく考え込んでいた。

「分からない。だけど。ここの夜の静けさとこの空の広さ。緑の空気。僕の住んでいたところでは考えられない。環境が違うのは間違いないです」

理恵子は興奮して「それから?他には何かわかりますか?」

「……」克樹はまた考え込んだ。

「山田さん?」

「すみません。わかりません。地下鉄に乗っていたとか、ビルの間を歩いていた印象はあるんですけど、具体的なことは思い出せません。でも……」

理恵子を見て笑うと「やっぱり山田っていう名前じゃないと思います」

理恵子も笑った。

「じゃあ違う名前で呼びましょうか?福山雅治とか?」

「絶対やめてください!」

二人は声を上げて笑った。

「ずいぶん記憶も清明になってきているみたいですね。この調子だと他の事も思い出せそうですね。私、東京で山田さんの事が記事になっていないか調べてみます」

「ありがとう」

 山から吹きおろしの風が吹き抜けていった。キンと音が鳴るような冷たい風だった。理恵子はカーディガンの前をかき合わせたが、彼は無表情に風の来た方を見やっている。

「人生思うにまかせないことが多いですけど、いい事もありますから」

彼の肩が揺れた。首をひねりまじまじと理恵子の顔を見つめる。

「どうしました?」

「あなただったんですね。まだ意識のない僕に話しかけてくれていたのは。優しくて、でもすごく寂しそうで。その人が今の科白を言っていた。あなただったんですね」

理恵子は驚いた顔で口に手を当てた。

「聞こえていたんですね」

「ええ。いっぺんにいろいろ思い出しました。苦しい恋の話も」

理恵子は目を見張った。「そんな事まで!」

「ええ。でも切れ切れな記憶で、どこまで夢かわからないんですけど」

 理恵子は大きく肩で息をすると車椅子を押しだした。大きな椎の木の前に木製のベンチがあり、その前で止まると車椅子のストッパーをかけ、彼と対面するようにベンチに腰かけた。

「少し、私の話をしてもいいですか?本当は患者さんにこんな事話すべきじゃないんですけど」

彼は黙って頷いた。

「私、今煮詰まっている感じなんです。付き合っている相手は既婚者で。自分でも最低だって思います。私、父は中学の時に亡くなって、母は数年後再婚しました。その義理の父にはあまりなじめなくて、母とも疎遠になって何年も一人で寂しくて。優しかった彼は救世主みたいでした。でも……彼には子供もいるし。もちろん奥さんと別れて私と結婚してほしいなんて全然思っていないですけど。でも……」

「でも?」

理恵子はかぶりを振った。「すみません。変な話しちゃって」

「いえ。でもだからだったんですね。あなたの声、優しいんだけどいつも寂しそうに聞こえて……何か何か言わなきゃってずっと思ってた気がする」

「いつも?」

「ええ。いつも言葉が間に合わない。そう思ってました」

理恵子は困ったようにこめかみを掻く真似をした。

「まずいですねえ。これからは意識のない患者さんでも話しかける時は内容を考えます」

彼は笑った。

「僕はもう意識ありますから。僕でよかったら何でも話してください」

「ありがとうございます。そろそろ戻りましょうか。寒くなってきましたね」

時計を見ながら言った。


 翌日。理恵子は急いでいた。日差しはあるがあまり温もりのない太陽の下を汗をかきながら速足で進んでいく。太陽は真上にあって、足元にだけある影が短く踊るようについてきている。準夜勤だからとネットの探し人の検索をしていたら時間が過ぎていたのだ。バスに乗り込み、さっきまで見ていたネット検索を思い返す。掲載されている尋ね人は意外なほど多かったが、まず名前が分からないと捜すのは難しそうだ。それでも様々なワードを打ち込んで検索してみたが、成果は上がらなかった。遅々としてす進まぬ身元探し。判明しないままなら、来週には彼は市内の脳外科病院に転院させられてしまう。理恵子は焦っていた。病院に到着すると出勤時間ギリギリだった。大急ぎで着替えると髪をまとめ、詰所に向かった。

 仕事はいつも申し送りから始まる。日勤の看護師からの引き継ぎを終え、準夜勤の仕事に就く。夕食前の薬を準備し、病室を回る。薬を渡す最後の病室の前にきた。理恵子はいささか緊張しながらドアを開けた。

「失礼します」

ドアを開けると同時に声をかけた。山田氏はまたぼんやりと窓の外を見ていたが声に振り向くとにこりと笑顔を見せた。

「お加減はいかがですか?」

「大分いいです。ずいぶん痛みも引いてきました。ただ頭が痒くて。って言ったら頭を洗ってもらったんで、気分もいいです」

「そうですか。良かった。今日から食事も普通食になってますし、順調に回復されてますね。じゃあバイタル取らせて下さいね」

 理恵子は山田氏に体温計を渡すと慣れた動作で血圧、脈拍を測った。パソコンに打ち込むと、体温計を受け取りその結果も記録した。

「熱もないしいい感じですね」

「ありがとうございます」

「また、外見てらしたんですね」

「え?」山田氏は意外そうに顔を上げた。

「退屈されてるんじゃないですか?雑誌とか、少し古いもので良ければ患者さんが置いて下さってるものがありますから、お持ちしましょうか?」

 そう言いながら枕元の棚に置いてある小さなテレビを見た。プリペイドカードを買ってテレビの横に取り付けてある器具に差し込むと、一定時間テレビが視聴できるものだ。家族が、来た時などにナースステーションの横のプリペイドカードの券売機で買っている。だが彼には見舞い客はいない。現金もない。

 理恵子がテレビを見ているのに気付いた山田氏はその意味を察し、

「ありがとうございます。でも雑誌やテレビなら休憩室の所にもありますし、それに」

 彼は窓の外を見た。つられて理恵子も外に目をやった。東の山の端から月が昇っている。薄い雲の端を金色に透かせ、満月に近くなっている月は柔らかな光を放ち、神々しく美しい。

「ここから見ている景色はずっと見ていても飽きないです。綺麗ですよね」

「ええ。」

彼は振り返ると「あなたも」と微笑んだ。理恵子は真っ赤になった。大きく手を振りながら「からかわないで下さい」と叫んだ。と逆に驚いた彼は

「からかってなんかないですよ。本当にそう思ったんです。女優のKさんみたいじゃないですか」

Kはこの一年ほどで急にドラマやCMにでるようになった若手女優である。その名前が出てくるという事は、かなり現在に近い所まで記憶が鮮明になってきているのではないかと理恵子は思った。

「お名前教えて頂けます?」

「カツキです」

「名字は?」

そこまで淀みなく進んでいた会話はカツキの凍りついた表情で止まった。

「カツキさん?」

「ナマエ?」カツキは恐ろしい目にあったように身体をかき抱いた。

「わからない。ナマエってなんだ?」絞り出すように言うとベッドに身を投げ出すように顔を伏せてしまった。理恵子はカツキの背中をさすりながら努めて冷静に

「すみませんでした。大丈夫ですよ、思い出さなくても。無理させてしまってすみませんでした。本当にごめんなさい」

カツキは理恵子を見上げるとすがりついてきた。理恵子もカツキの背中に手を回した。「ごめんなさい」と小さく謝りながら、回した手で背中をさすっていた。


二人はしばらくそのまま抱き合っていた。と、カツキの手の力が抜けた。そして身を離した。

「すみませんでした。迷惑かけちゃって」

寂しげに笑って顔を背けた。理恵子は思わず背中から抱き締めた。

「私がいます。絶対あなたを一人にしたりしません。ずっとそばにいます」

カツキはゆっくり身体を回し、理恵子に向き合った。理恵子の髪をなでる。「ありがとう」

理恵子はカツキの肩に顔を埋めながら、本当は自分の方が彼を必要としているのではないか、と思った。



        .



 二日後。目立った進展はなく、カツキは明後日には市内の脳外科病院への転院が決まった。

 その二日間、理恵子は出来るだけ長く病院にいて、可能な限りカツキをみていた。

 夕食が終わり、日勤の看護師達がそろそろ夜勤の者と交代しようという時間。理恵子はカツキの車椅子を押し、まだ明るさの残る庭に出ていた。空は水に藍色を混ぜた色で、雲一つなく西の方は白く、山の際は溶けるような美しいオレンジだった。「きれいですね」空を見上げながらカツキが言う。「本当に」

「あ!」東の方向を見上げ「飛行機雲だ」遥か彼方を横切る、白く透けるような小さな機体。そしてその後を追うように走る二筋の線。その筋は広がる事もなく波頭のようにしだいに消えて行く。

「過飽和だな」

「え?」理恵子が聞き返した。

「カホウワ」

「寝て待て?」

カツキは吹き出した。「本宮さん面白すぎですよ」

ひとしきり笑うと、理恵子はちょっと憮然とした表情を見せた。それを見て小さく手を合わせ、謝るしぐさをする。

「上空の空気にはね。過飽和っていって本来なら気体の状態ではいられないくらいに水蒸気がある状態になっている事があるんです。飽和状態以上になっている。だから過飽和。それでなんで気体の状態を保っていられるかというと、その状態が安定しているからなんですけど、埃とかそういうくっつくものがないきれいな状態だと水分があっても目に見えないんです」

空を見上げた。長く尾を引く飛行機は西の空に消えそうに遠くなっている。

 車椅子を押しながら先日と同じ椎の木の下に来た。カツキがベンチに座るのに手を貸し、横に腰かける。

「それが飛行機からの噴射によって乱されると蒸気がくっついて見えるようになる。それが飛行機雲なんです」

理恵子は感心したように聞いていたが

「すごいですね。カツキさんって何か研究されてる方か、学校の先生なんですか?」

カツキは苦笑いで「いや、ただのサラリーマンですよ」

「そうなんですか?私、今もう一つ不思議に思ったことがあったんですけど。今の飛行機、すごく小さかったですけど、透けてるみたいに見えませんでした?」

「見えましたね」

「それってどうしてですか?昼に見える月が透けてるみたいに見えるのと関係あります?」

「いや、ちょっとそれは……すみません。わからないです」

「そうですか。残念」

「調べておきますよ。わかったらお知らせします」

「いえ、そんな。わざわざ調べていただかなくても」

「いやまぁ。連絡取る口実ですよ」

「え?」

次の瞬間、理恵子はカツキの腕の中にいた。

「僕は明日にはここを出ていかなければなりません。そしたらあなたに会えなくなる」

理恵子は強く抱きしめ返した。

「大丈夫です。私がいます。決してあなたを一人にはしません」


 その日の消灯近く、理恵子は退勤前に病棟の見回りをしていた。声をかけたり、点滴をチェックしながら順に回ってゆく。カツキの部屋の前に来た。先ほどの事を思い出し、幾分赤くなりながら部屋に入った。カツキはまた窓の外を見ていた。

「また外を見ているんですね」

彼が振り向く。

「カーテン閉めますね」

理恵子はさっとカーテンを引いた。カツキはじっと理恵子を見ていた。

「どうかしましたか?」

カツキは少しの間逡巡していたが「あなたの連絡先、教えて頂けますか?」

 理恵子はポケットからメモとボールペンを出し、住所氏名と電話番号、それに携帯の番号とメールアドレスを書いた。カツキはそれを受け取り「一人暮らしって言ってなかった?」

「ええ。一人暮らしですよ」

「なのに固定電話もあるんだ」

「贅沢ですよね。でもインターネットをよく使うんで。調べものとか。でも最近はWi-Fiもあるんで解約しようかなと思っているんですけどね」

「なるほど。ここは市外局番087なんだ」

「ええ。ねぇ、山田さん」

カツキは笑って顔を上げた。「僕の名前は北山だよ」

理恵子は目を見張った。「北山カツキ、それがあなたの名前なのね?」

 カツキは声にならない声を上げた。理恵子は両手でカツキの手を握り、大きく振った。

「良かった。これで山田太郎さんじゃない。思い出せて本当に良かった」

理恵子は笑いながら泣いた。

「帰りに警察に行くわ。東京出身の北山カツキさん。これだけわかればきっと家族と連絡が取れるわ」

だが理恵子とは対照的にカツキの表情は沈んでいた。

「どうしたの?」

「家族……か」自嘲的に笑う。

「僕にはちゃんとした家族、いるのかな。何の連絡もなくて。三下のチンピラかなんかで、へまやって組織の人間に始末されたのが生き残ったとか、そんなんじゃないのかな」

理恵子はカツキの両肩をつかみ揺さぶった。

「何言ってるのよ。探してるに決まってるじゃない。でも何の手がかりもなくて見つけられないのよ。たった一人の人間がそんなに簡単に見つけられる訳ないじゃない。探してるわよ!必死に」

「どうかな」

「当然よ!私だって毎日ネットに書き込みしたり、尋ね人の検索したりしてるのよ。でもそんなに簡単じゃないんだから」

カツキは改めて理恵子を見た。

「そんな事までしてくれてるんだ」

理恵子は喋りすぎたというように首を振った。

「だからそんなバカな考えは捨てて。きっと心配してるわよ。恋人…とか…」

最後の言葉は口の中で消えた。理恵子は自分の言葉に自分で傷ついていた。

「恋人…か。今の僕には想像出来ないけど。でもあなたほど素敵な人ではないと思う」

理恵子は両手を頬に当てた。

「ありがとう。本当に何もかもあなたのおかげだ。自分の事も、なぜこんな怪我をしているのかも何一つわからない不安定な状態だったけど、あなたがいたから。あなたがいてくれたから心に平安があった」

「本当に?私はあなたの役に立った?」

「もちろん。あなたがいなければどうなっていたかわからない。あなたの存在が僕の救いだった」

理恵子はカツキの手を取った。

「それは私の方よ。あなたのおかげで私は救われたの」

廊下から消灯の音楽が響いてきた。ドビュッシーの『月の光』だ。理恵子は腕時計を見ると慌てて、

「いけない!行かなきゃ。じゃあまた明日。帰って調べておくから」


 だが、その後。理恵子が想像もし得ないほど、事態は大きく動いていた。


 翌日朝、理恵子が病院に憤慨しながら出勤すると、病院関係者以外の人間の出入りが目立った。まだ外来が開く時間ではない。よく見るとうち何人かは先日カツキの事情聴取に来ていた刑事である。理恵子は急いでナースステーションに行くと、夜勤明けの平田に訊いた。

「実はね、例の山田太郎さん。北山克樹さんだけど、昨夜のうちにずいぶん色々思い出したのよ。あなたが帰った後で病室に呼ばれてね。住所とか電話番号とか。それですぐ東京のご自宅に連絡取ったんだけどね。本人が言うには、ひとつ思い出したら後はどんどん記憶がたどれたんですって。それで警察にも連絡したの。で、さっきから刑事さん達が来てるのよ」

 理恵子は昨夜の帰りに警察に寄っていた。だがその時、担当の刑事は出払っていると言われた。今朝出勤してくる前にも足を運び、同じ事を言われた。警察は本気で捜査する気などない。邪険に扱われているだけなのだと憤慨しながら出勤してきたのだが。が、実際刑事達は出払っていたのだ。この場所に。

「それでね、今朝一番の新幹線でご両親がこちらに向かっているって」

平田は壁の時計を見た。

「昼過ぎには到着なさるらしいわ。北山さん、今日は転院って事になってたでしょ?それを中止の手配したり、警察の事情聴取があったりで大変で」

「本当に急展開ですね」

「そうなのよ。昨夜、夜中に思い出したって言うから話聞いて。あちこち連絡とって。一睡もしてないのよ」

平田は伸びをすると首を回した。目の下に隈も出来ている。

「あ、じゃあ申し送りを。私引き継ぎますから、主任は帰ってお休みになって下さい」

「そう?じゃあまだ時間早いけどお願いするわ。昨日も遅くまでいてくれたのに悪いけど」

「大丈夫です。夜勤の方が大変ですから」

「ありがとう。でも良かったわ。思い出してくれて。本人も安心しただろうけど、こっちもほっとしたわ」

「ええ。本当に」

そう応えながら理恵子の心は複雑な感情が渦巻いていた。

 東京。

 文字通り彼は手の届かない所に行ってしまう。彼には都会の生活が日常なのだろう。

 しかし-

 彼はなぜこんな場所で一人でいたのか。なぜ怪我をしたのだろう。


 一人で引き継ぎをし、仕事を進めていると他の看護師達も出勤してきた。小さな病室の事である。その頃には山田太郎氏の素性解明の話は院内中に知れ渡っており、出勤してきた看護師達は皆知っていた。更衣室や廊下、情報収集の場はどこにでもある。理恵子が平田からの引き継ぎを申し送りする時には全員が知っていた。だが皆さらに詳しく知りたがった。が、

「警察などの出入りが夜中から多く、患者さん達も落ち着かない状態になっています。私達が浮わつかないように、と主任からの伝言です」

 理恵子の言葉に皆の間から言葉にならない不平の声が上がった。だがさすがに自重して、申し送りは終わった。理恵子はひそかにため息をついた。今すぐにでも克樹の様子を見に行きたい。だが今はまだ警察の人間も、医師と病院の事務の人間もいるだろう。ゆっくり話が出来るわけがない。上の空で医師からの指示が書き込まれたカルテを見ながら、点滴の準備をしている。だがつい手が止まってしまう。と、後ろから腕をひかれた。

「本宮さんってば!」

「え?」驚いて振り返ると、後輩の村上が詰所の入口を指していた。見ると顔見知りの刑事が立っている。彼が頭を下げたので理恵子も会釈を返した。入口まで行く。刑事はそこから少し離れ、廊下の隅に移動した。まだ若く目つきの鋭い男だ。

「刑事さん、あの」

「高橋です」

「そうでしたね。あの…」

「昨夜、署の方に来ていただいたそうで」

「はい」

「その時はこちらに向かっていたので。こちらの主任さんに連絡をいただいて。さっき署に連絡したら今朝も来ていただいたとか。何度もご足労いただいて申し訳ないです。用件は北山さんの事、ですよね?」

「はい。すみません。記憶が戻られた事知らないままだったんで、こちらに来ていらっしゃると知らなかったんです」

高橋は腕時計に目をやった。

「あの。昨夜からいらしているなら、もう随分長い時間ですよね?それに、なぜこんなに何人も刑事さんが出入りなさっているんですか?他の患者さんも不安になっておられると思うんですけど」

「そうですね。すみません。でも色々問題がありそうなので。あなたが仰っておられたように事件性がありそうで」

「事件性?」

「その辺は北山さんのご両親が到着されてから、また事情をお聞きしますが」

 理恵子は唇を噛んだ。そこに高橋よりもさらに若い、いかにも新米という刑事が彼を呼びに来た。

「どうした?」

「家族が到着されました。安岡さんが高橋さんを呼んでます」

高橋は一つ頷くと理恵子に頭を下げ、その場を去ろうとした。

「待って下さい」

二人揃って振り返る。

「今からまた事情聴取ですか?」

「そうです。本人の供述はまだ記憶が不明瞭で曖昧な部分も多いので。ご両親の供述も必要ですから」

「彼は病人なんですよ!」

 ヒステリックな大声に周囲の視線が集まった。それに気づいた理恵子は気まずそうに下を向いたが、すぐ顔を上げた。

「昨夜からの事情聴取に興奮状態。まだそんな環境に耐えられる体調ではありません。どうか少し休ませて下さい。それから事情聴取には医師か看護師の同席をお願いします」

二人は顔を見合わせた。高橋が顎で示すと若い刑事は上司のもとに走って行った。

 ニ十分後、車椅子に乗った克樹は病室からカンファレンスルームに移動した。理恵子が付き添うことになり車椅子を押している。

 カンファレンスルームは医師が患者や患者の家族に病状を説明するための部屋で、ホワイトボードや、レントゲン、CTの画像を見るモニターとタブレットが並んでいる。がそれらは今日は端に寄せられ、ブラインドもすべて開けられている。窓からは克樹の病室と同じ方向の景色が広がっている。室の中央に長机が二つ、平行に並べられていて、それぞれにパイプ椅子が三つづつ置いてある。部屋にはすでに三人の刑事と克樹の両親が向かい合わせに席についていた。刑事が奥に並んでいて、入り口側に克樹の両親が座っている。理恵子が克樹の車椅子を押して部屋に入ると博明と静子は立ち上がった。

「克樹!」

静子は涙を浮かべている。「良かった。無事で」

 後は言葉にならなかった。克樹を抱きしめたり肩をさすったりする感動の対面を、刑事たちは辛抱強く見守っていた。

「幸田先生がさっきまでお前の容体について説明して下さっていたんだ。具合はどうだ?」

博明が克樹の肩に手を置いて言う。

「うん、まあ。それより」克樹は刑事たちに目をやった。それをみて理恵子は一万手前のパイプ椅子を動かし、克樹の車椅子をそこに移動させた。それを見て博明と静子もそれぞれの席に着いた。理恵子は動かしたパイプ椅子を入り口のドアの横におき、そこに腰かけた。素性が分かり、両親と再会したからか、克樹の笑顔は理恵子が初めて見る安堵とくつろぎに満ちたものだった。それを見て、克樹がいかに孤独と緊張に耐えていたかを知った。

「早く東京に帰りましょう。怪我は家で治せばいいわ」

 刑事たちが事情聴取にかかろうと口を開きかけたところで、静子が言った。

「せっかちだな。そんなすぐには無理だよ」

博明が諭すように言った。克樹も「そうだよ」と窺うように理恵子を見た。理恵子は首を縦に振ってから傾げた。

「でも!会社の方もずいぶん心配して下さっているのよ。美沙さんも」

「美沙?」克樹の肩がピクリと動いた。

「本当は美沙さんも一緒に来たいと言ってらしたんだが、私達は一刻も早く来たかったから、二人で朝一で来たんだ。それで美沙さんには会社に連絡をしてもらうことにした。このまま行方が分からなければ解雇処分になる所だったんだ。だがこれで休職扱いにしてもらえるだろう。後で直接連絡を入れなきゃな」

「美沙さんは、毎日毎日連絡をくれて。失踪届として受理されたのを絶対事件か事故だからって。何度も警察に掛け合ってくれてね」

「そうだよ。私達より熱心なくらいだった。本当に心配してくれていたよ」

 狼狽して目を泳がせた克樹は理恵子と目が合った。が、理恵子は目を逸らした。

「……まだ」

克樹は右手で頭を抱えた。

「まだその人の事は思い出せない。わからない」

頭を低くしてうずくまるように身体を縮めた。それを見て理恵子は素早く立ち上がると、克樹の右手を持ち、脈を取った。「大丈夫ですか?」

刑事たちも立ち上がった。「事情聴取は無理そうですか?」

 理恵子は窺うように克樹を見た。克樹は脈を取っていた理恵子の手をそっと握って手から外し

「大丈夫です。でも思い出せていないことも多いみたいなんで、お役に立てるかどうかわからないですし、さっき言ったこと以上の事はお話しできませんが」

 克樹は刑事達に身体を向けた。博明と静子も居住まいを正し、彼らに正対した。刑事たちはやっと話が聴けると手帳とペンを持ち直した。


 事情聴取は一時間ほどで終了した。とは言うものの、刑事たちにとって実のある話はほとんどなかった。克樹は言葉通り事故の直前のことは何も覚えていなかったのだ。そこで聴取は主に両親からとなった。だがその二人も具体的なことは何もわかっていなかったのである。おそらく自宅近くで事故に遭ったか事件に遭遇して、発見された場所まで運ばれ、山中に捨てられたのであろうという推測が出来たが、あくまで状況証拠に過ぎなかった。克樹が自分の意志でここまで来たという可能性も捨てきれない。刑事たちは渋い顔でカンファレンスルームを出ると、そのまま警察署に引き上げていった。

 刑事たちのいなくなったカンファレンスルームで、博明と静子は克樹と話したいと言った。理恵子は椅子を片付けると

「私はナースステーションにいます。ここを出られるときはほかの看護師でもいいですので、誰かに声をかけて下さい」

と言って仕事に戻った。

博明と静子は改めて克樹の会社の状況、出張前夜に失踪した時の経緯を事細かに話した。話すべき事はいくらでもあった。だが克樹の返事は捗々しくなかった。学生の頃の事などは思い出せているのだが、事故の前あたりの記憶は戻っていないのだという。そこで博明は克樹が若葉丘総合病院で目を覚ましてからの事を訊ねた。そのことに関しては明瞭な答えが返ってきたので、脳の障害はなさそうだと二人はひそかに安堵した。

 静子は一刻も早く克樹を連れて帰りたがり、今後の日程を決めようとしたが、克樹は「うーん」と言ったまま黙ってしまった。

「それより、頼みがあるんだけど」

博明はぐっと身体を乗り出すように「どうした?」

「眼鏡がないんだ。後お金と」

二人は慌てて克樹のために用意してきた紙袋を渡した。克樹が中を漁ると、着替えやタオル、歯磨きといった日用品の他に、携帯電話と充電器、財布が入っていた。が、「眼鏡はないと思わなかったから」

「荷物ありがとう。眼鏡は……ここで作れるかな?」

三人揃って首を傾げた。

「携帯、確認したら?」

静子の言葉に気乗りしない様子で「見えないんだよ」と言いながら紙袋から取り出す。

「会社に連絡しないと」折りかぶせるように博明が言う。

克樹は指紋認証で携帯を起動させた。目を近づけて連絡先を開き、会社に電話をかける。営業課長に繋いでもらい、事情を説明した。怪我ですぐに出勤することが難しい旨を説明すると、医師の診断書を会社宛てにFAXを送るようにと指示された。礼を言って電話を切った克樹に、説明を求める博明と静子の視線が向けられている。だが、そのまま身体を車椅子預けるようにもたれかかった。「疲れた」

静子は慌てて詰所に戻っていた理恵子を呼びに行った。克樹はすぐ病室に戻され、鎮静剤を投与されて眠った。博明と静子は克樹が眠ったのを見届けると、会計で克樹の入院費を支払い、看護師長の渡辺と話した。会社に提出する診断書がいると言うと、渡辺はすぐに医師に書いてもらうと請け負ってくれた。それで二人は一旦病院を出た。


 理恵子は一連の出来事で午前中の仕事はほとんど出来なかった。詰所に戻って仕事に取りかかたところで静子が呼びに来た。克樹を病室に寝かせ、医師の処方箋を作ってもらい鎮静剤を投与し、仕事に戻るともう昼だった。ゼリー飲料を一本、勢い良く流し込むと午後の仕事にかかった。今日の午後の仕事は清拭からだ。給湯室の横の小部屋で準備をしながら、先ほどの事を思い出す。我知らず大きなため息をついていた。

「お疲れですか?北山さん色々ありますもんね。私、警察の事情聴取って初めてです」

理恵子は笑いながら「私も」「ですよねえ。大変ですね」

理恵子は湯の温度を確かめながら「出来た。行きましょう」カートを押した。

 今日の清拭は五人。仕事は遅れている。理恵子は普段より急いで仕事を進めていた。だが心は別の所にあった。一昨日”克樹”という名前だけが分かった時点で調べたインターネットの尋ね人の書き込みで”美沙”という女性の書き込みがあった。その時にはまだ不確定な要素も多く、返信するのを躊躇したのだが。家族の書き込みだと思っていたが、恋人だったとは……

 ガシャンと大きな音を立ててステンレスの角型トレイがカートから落ちた。理恵子は顔をしかめた。些細なミスをする自分に苛立っていた。

「大丈夫ですか?やっぱり疲れているんじゃないですか?」

理恵子は足元のトレイを拾い、シンクに置くと新しいトレイを出した。「大丈夫。行きましょう」


 克樹の病状を両親に説明した幸田は、ナースステーションで看護師に指示を出していた。克樹が転院し、その後に入院してくるはずだった患者と、転院しないことになった克樹についてである。克樹は四人部屋に移る段取りが取られた。克樹の両親はすぐにでも克樹を連れて帰りたいと言っていたが、せめて後三日は必要というのが幸田の診断だった。転院するはずだった病院への連絡や段取りの変更、警察の出入りで騒がしい事この上ない。「迷惑だ」

「え?」看護記録を書いていた小松が顔を上げた。

「すみません。もう一度お願いします」

「いや。独り言だ。すまない。警察が何人も出入りしたりして、患者さん達は不安になったり、落ち着かなくなったりはしていないかな?」

「それが」小松は目を輝かせた。

「患者さん達の間では北山さん、お忍びで日本に遊びにきた王子さまで暗殺されそうになったとか、色々マンガみたいな憶測が飛んでて。注目の的だったんです。で、身元が分かったっていうんで、今度はその話で持ちきりなんです。だから何て言うか、ゴシップ的に活気づいている感じです」

幸田は苦笑するしかなかった。

「王子と平民の恋っていうのも注目だったんですけど」

「なんだそりゃ」

「本宮さんですよ。すごく熱心に北山さんの事診てて。いつも気にかけてたし。それも話題の一つ…」

幸田の顔がさっと険しくなったのを見て、小松は息を飲んだ。

「もちろん、本宮さんはいつも仕事熱心ですけど。北山さんだけが特別じゃないと思いますけど」

 慌てて取り繕う。だが仏頂面の幸田は「後頼むよ」と言うと詰所を出た。



 理恵子が遅れていた仕事をなんとか終えた時にはもう夕食時だった。今日の普通食は白米とワカメと豆腐の味噌汁、鮭のバタームニエルと茄子の煮浸しにミカンゼリーだった。理恵子は夕食後、各病室を回っていた。患者の容体を診るルーティンワーク。それが終われば今日の日勤の仕事は終わる。

 克樹が移された四人部屋に入る。克樹のベッドは入口側の右にある。克樹の夕食の盆はもう片付けられていた。ベッドに渡されるテーブルももうベッドの横に収納されていて、克樹はベッドのヘリに腰かけて窓の外を見ていた。

「また外を見ているんですね」

その声で我に返った様子の克樹は、理恵子を見ると笑顔を見せた。

「どうですか?具合は。今日は色々あってお疲れになったと思いますが」

「確かに。ちょっと疲れましたね」

「頭痛はないですか?また何か思い出せました?」最後の方は言葉が口の中に消えた。美沙の事が頭をよぎったのだ。克樹はそれを見て幾分辛そうに目を逸らした。

「頭痛は治まりました。でも思い出せたのは昔の事ばかりで。最近の事は出てこないんです」

言いにくそうに口ごもりながら言った。克樹が気を遣っているのがわかった理恵子は努めて明るく

「ご両親はもう東京にお帰りになったんですよね?」

「ええ。父も仕事を休んで来てくれたんですけど、明日も仕事なんで、もう帰りました」

「大変ですね」

 理恵子は血圧を計ったり脈を取ったりしながら、出来るだけ何気ない調子で訊いていたつもりだったが、ふと視線を感じて振り向くと、同室の三人が好奇心むき出しの様子でこちらの話に聞き耳を立てていた。理恵子と目が合うと三人は慌てて目を逸らせたが、理恵子は不用意だったと反省した。

「バイタルは問題ないですね」

「大丈夫です。それで…」続きを話そうとした克樹を手で制し、人差し指を唇に当て、そっと奥の三人を窺う仕草をした。克樹は薄く笑って頷いた。

「あの、売店ってまだ開いてますか?欲しいものがあるんです」

理恵子は腕時計を見た。

「6時半までだからまだ間に合います。車椅子取ってきますから少しお待ち下さい」

 理恵子はナースステーションに戻ると、看護記録を読んでいた小松にまだチェックの終わっていない患者の事を頼むと車椅子を押して戻った。克樹に手を貸し車椅子に座らせると、売店に向かう。

「売店で眼鏡、なんて作れないですよね」

最初から無理だと諦めている口調で訊く。

「眼鏡ですか?売店にはないですけど、ここの眼科で作れますよ」

「ここ、眼科もあるんですか?」

「ええ。じゃあ明日受診出来るように予約取っておきますね」

「ありがとうございます。本当に色々迷惑かけて。他の患者さんや病院の方達にも本当に申し訳ないと思っています」

「北山さんが悪いんじゃありませんから。それに」

 理恵子は下に行くエレベーターのボタンを押した。程なく扉が開きそれに乗り込んだ。中には誰も乗っておらず、理恵子は克樹の正面に回り込んだ。

「北山さんの事、皆噂して盛り上がっているらしいんです」

克樹はおかしそうに笑った。

「今日、同室になった日下部さんに聞きました。暗殺されそうになった王子さまだとか、仕事に失敗した外国のスパイとかって話が出てるって。どうみても日本人なのに」

理恵子も笑った。

「色んな話が出ているんですね。だから、皆テレビドラマみたいに楽しんでいるみたいです」

「じゃあ結末が平凡でつまらないですよね。がっかりさせちゃって申し訳ないなあ」

克樹の優しさを理恵子は好ましく思った。

 エレベーターは一階に止まり、理恵子は車椅子を押して降りた。一階の外来受付を通り抜け、右翼側の内科外来の奥の突き当たりに売店がある。閉店間際の時間なので売店にはいつもより人が多かった。克樹はポケットから財布を出した。

「両親が僕の財布、持ってきてくれたんです。無一文じゃ困るだろうって。余分にお金も置いてってくれました。どういう訳かわからないですけど、財布を持たずに家を出たみたいで。携帯電話は家の近所に落ちてたらしいんで、携帯だけ持って外に出たみたいです」

「そうなんですか」

「へえ。こんなに色々揃ってるんですね」

 楽しそうな克樹の様子を見ながら、治療費や入院費をどこに請求すれば、と話していた平田と事務局の女性との会話を思い出した。深刻な口ぶりだったが、金銭の問題は本人にはもっと切実で寄る辺ない気持ちを抱かせていたのだろう。彼は「何か入り用の物があれば」という言葉にも何一つ求めてきた事はなかった。歯磨きや歯ブラシ、タオルといった必需品も病院で用意した最低限の物だけだった。

 克樹は迷いながら、新聞を一紙と携帯用の歯磨きセット、プラスチックのコップを買った。そんな小さな買い物で喜ぶ克樹が痛々しくすらあった。

「すみません。気付かなくて」

 病室に戻りながら言った理恵子の言葉に克樹は不思議そうに彼女を見上げた。理恵子は首を振ると

「さっきの話ですけど、ご両親は」

「僕が寝てる間に飛行機に乗ったみたいです。最終の便に間に合うようにって。さっきメールが来てました。帰る前に警察でまた事情聴取したみたいですけど、あまり捜査の参考になるような話はなかったらしいです。僕の携帯が家の近所で見つかった時に、そこの警察に捜索願い出したんだそうですけど、事件性は薄いって言われたみたいで。家出人として受理されたって」

「ひどいですね」

「でも事故らしい跡っていうか、痕跡もあまりなかったみたいなんで、結局何があったのかわからないようで。僕の記憶にかかっているみたい」

「まだ思い出せないですか?」

「ええ。実はここにきた最初の頃の事もよく思い出せないんです」

理恵子は慌てて「それは心配ないです。記憶が戻ると、記憶をなくしている間の事は忘れるっていう話もあるし、混乱もしていたでしょうから。大丈夫大丈夫」

克樹の肩をさすりながら明るく言った。

「ありがとう。本宮さんがいてくれて本当に良かった」

「そんな……私、何の役にも立たなくて」

「いつも励ましてくれたじゃないですか。そのおかげでなんとか耐えられた。僕はたぶん後ニ三日くらいしかここにいられないけど、あなたの事は決して忘れません」

 目の前に突き付けられた現実に理恵子は言葉を失った。市内の病院とは比べ物にならないほど、遠くに行ってしまうのだ。頭の中で今の言葉を反芻しているうちに病室に戻っていた。

「ありがとうございました。助かりました」

 他人行儀な克樹の挨拶に「いつでも仰ってください」と型通りな挨拶を返し、ベッドに戻る補助をすると部屋を辞した。空の車椅子を押しながらのろのろと歩く。ナースステーションを横の用具室に車椅子を片付ける。詰所では小松が看護記録をパソコンに打ち込んでいた。

「ごめんね。大丈夫だった?」

「ええ」

理恵子は中央のデスクの空きパソコンの前に立つと「では申し送りをします」

 理恵子の言葉にナースステーションにいた看護師四人全員が中央のデスクに集まった。引継ぎ事項を確認していく。

「それではよろしくお願いします」

申し送りを終えると今日の仕事は終わりだった。理恵子と小松は更衣室に向かった。小松は肩をほぐすストレッチをしながら歩いている。

「……ですか?」

「え?」ぼんやり窓の外を見ながら歩いていた理恵子は小松の方を向いた。

「ごめん。聞いてなかった」

小松は眉を寄せた。

「今日は変ですよ。本当に大丈夫ですか?早く帰って休んで下さいね」

理恵子は首をすくめながら「で、なんだっけ?」

「北山さんですよ。事情聴取とか、どうだったんですか?」

 理恵子は看護師も患者も同じだと笑った。患者のプライバシーに関する守秘義務を考えたが、憶測が飛びかうよりましかと思い直して、かいつまんで説明した。といっても、どんな事を聞かれたかという事くらいで、本人の話はわからない事ばかりなのだが。

「患者さん相手に憶測話はしないでね。もちろん看護師の間でも不用意な尾ひれを付けた話にはしないで」

と言い含めた。

 もうすぐいなくなるのだ。東京に帰ってしまったら、もう二度と会えないだろう。理恵子の心を占めているのはそれだけだった。


 病室に戻った克樹は早速買ってきたコップなどの包装を開けた。右手に骨折した利き手の左手を添える。左手が使えなくなって初めて、どれだけ左手で作業していたのかを知った。箸も持てない。字も書けない。歯を磨くのも大変だ。慣れない右手を使うので、手がつったり筋肉痛になったりした。何日かたってやっと少しましになってきたが、まだ覚束ない手つきだ。

「やりましょうか?」

隣のベッドの奥野が声をかけてきた。

「ありがとうございます。でも大丈夫です。練習しないと」

「さっきの話ですけど」斜め向かいの日下部も加わる。

「さっきのっていつですか?」克樹は手を止め、顔を上げた。

「ほら、本宮さんと話していた」

奥野はベッドから身体をずらして足を下ろした。

「事情聴取とかって話」日下部もベッドから降りて寄ってきた。

 よほど退屈しているらしい。もうそんなに興味を引くようなネタなどないと思われるのに、野次馬ムキ出しだ。克樹は笑いをこらえることができなかった。

「そんなに面白い内容じゃないですよ。僕は日本人で普通のサラリーマンですし」

そう前置きして、理恵子に話したのと同じ事を繰り返した。

「退院出来るようになったら、すぐに東京に帰る事になると思います」

「それじゃ結末がわからない」克樹の向かいの山内が露骨に落胆した声を出した。

克樹は声を立てて笑った。

「別に、物語じゃないんですから。どんでん返しとかないですよ」

「ロマンスだってあるじゃないですか」山内が不平の声を上げた。

「山内さん!」日下部が咎めの声を発した。

 山内ははっと自分の口を押さえた。三人はバツの悪そうなごまかし笑いをしたが、根拠のない噂話に付き合うのが面倒になってきた克樹は「歯磨きます」と入り口横の洗面台に椅子を置き、歯を磨いた。




 美沙はその日を一日千秋の思いで待っていた。昼間は会社にいることで何とか平静を保っていたが、それ以外の時間は、焦燥感との戦いだった。インターネットは毎日何時間もチェックしていたが有力な情報はなかった。毎日の睡眠不足で、鏡に映る顔はどんどんクマがひどくなっていっていた。

 その朝、目覚まし時計が鳴る前に携帯が鳴った。驚いて飛び起き、携帯を見ると静子の名前が表示されている。いい知らせか、悪い知らせか。一瞬出るのをためらった。

「はい、高木です」

 待ち続けた吉報だった。静子は多少興奮状態にあるようで、早口で喋っているし周囲が騒がしくてよく聞き取れなかったが、克樹が無事である事、今から克樹に会いに徳島に行く新幹線に乗る事はわかった。美沙は一緒に行きたいと申し出たが、新幹線はもう出発するという。会社への伝言を頼まれ、詳細を訊ねようと口を開きかけた時には電話は切れていた。ぼんやりと携帯を見つめていると、ベッドサイドの目覚ましが鳴った。手を伸ばして止める。

 ようやく電話の内容が頭の中でキチンと形を作ってきた。笑みがこぼれる。「よかった」美沙は何度も呟いた。急いで身支度を整えると、いつもより早く家を出た。人事部や営業部に報告をしなければと心がはやっていた。


 昼休み、近くの公園のベンチで酒井と弁当を広げている美沙に、静子から着信があった。美沙は携帯を出す間ももどかしく電話に出た。今度はだいぶ落ち着いたようで、現在地が徳島の病院である事、克樹は骨折などの怪我があり、入院しているが心配はない事、会社には静子から改めて状況の説明のため、連絡を入れた事などを聞いた。

「どうしてそんな所に?」

「それがね」静子は電話口の向こうでため息をついた。

「どうしたんですか?」

「事故に遇ったのは確からしいんだけど、そのせいで記憶が混乱しているみたいなの」

「記憶が?どういう事ですか?」

「事故に遇った事、それからその前の最近の事、覚えていないらしいのよ」

「そんな…」

「まあ徐々に思い出しているみたいだから、そんなに心配はいらないみたいだけど」

誰かに呼ばれたらしい静子は「じゃあまた連絡します」と慌ただしく電話を切ってしまった。電話を見つめたままの美沙はすぐにでも克樹の所に行きたい気持ちと戦っていた。

「どうだったの?」酒井が訊いてきた。

「あんまりよくわからない」

「え?」

「怪我して徳島の病院にいるって。私も徳島に行きたい」

「徳島?どうしてそんな所にいるの?」

「それが、本人は怪我した時のショックで記憶がないみたいで、何が起きたのかわからないみたい」

酒井は顔をしかめた。

「わからない事ばかり。私もすぐにでも行きたい」

困った酒井は腕時計に目を落とすと慌てて

「とりあえず、すぐに戻った方がいいみたい」

二人は大急ぎで会社に戻った。


 その後、もう一度静子から連絡があり、北山夫妻が今日に東京に戻ってくることを知った美沙は、その日のうちに会いたいと懇願した。それで仕事帰り、羽田駅近くのカフェで夫妻と待ち合わせた。外のウッドデッキとつながる大きな掃き出し式のガラス窓は、夏は解放してテラス席も使えるようになっている。だが今日は夕方から降りだした雨のでガラスは閉められている。美沙は窓際の席に座り紅茶を注文した。窓に伝い落ちる水滴をぼんやり眺めていると二人がやって来た。

「お待たせしてすみません」博明が声をかける。

美沙は立ち上がり

「いえ、来たばかりですから。お疲れの所、お呼び立てしてすみません」

「いいえ、私達も早く美沙さんに報告しなければ、と思っていましたから」

 二人はホットコーヒーを注文すると話し始めた。夜中に徳島県徳島市にある病院から連絡が来たと。山道の崖から転落したらしい克樹が運び込まれ一週間が経つが、本人は事故の後遺症からか記憶障害があり連絡できなかった事。腕と足の骨折などの怪我でまだ入院が必要だという事。記憶はまだ曖昧でなぜそこにいたのかわからないようだと。発見されたのは早朝で、前夜克樹が家を出た時間からその時間に公共の交通機関を使ってはたどり着けないので、誰かに運ばれたのではないかと警察で捜査が始まったと。

 美沙は食い入るように聴いていた。三人とも飲み物には手を付けず、温かい飲み物はどんどん冷めていった。

「徳島の警察署で私達に対する事情聴取もあったんだけど」

静子は手をもみしだき「でも話せる事なんてほとんどないのよ。だって私達にも何がどうなっているかわからないから」

博明は妻の手を大丈夫だというように握った。

「でも心配はいらないですよ。記憶も戻ってきているし、間もなく退院できるだろうという話なので。その時は連絡いただけるそうなので、すぐ迎えに行こうと思っています。今日会ってきて思ったより元気そうで安心したんです」

静子も博明の手を握り返し、美沙に頷いた。

「そうですか。良かった。私も早く会いに行きたいです」

 美沙は身を乗り出した。が、二人は顔を見合わせた。「それが…」博明は言葉を選び

「その病院は市内では二番目に大きな総合病院なのだそうですが、実際はそんなに大きな規模の所ではなくて。克樹が搬送された状況やその後の展開で、警察が出入りしたりで他の患者さんが動揺しているらしいんです。それで、出来るだけ目立つことは避けてほしいと」

「そんな……」

「まあ後一週間もしないうちに退院できるという事ですから、もう少し待ってやってもらえませんか?」

 美沙は肩を落として俯いた。会いたい。今すぐにでも。それがかなわないならせめて

「電話はできないんでしょうか?声だけでも聴きたいです。克樹さんの携帯、本人が持っているんですよね?それに電話するくらいはいいですよね?」

「それは……」二人は顔を見合わせた。博明は冷たくなったコーヒーをガブリと飲んだ。

 雨の音がした。うねるように強くなったり弱くなったりする。美沙は窓の外を見た。風が強いようで、雨が波のように道を駆けている。その横顔を見て博明は何というべきか考えた。

「電話位なら大丈夫だと思います。ただ、病院内は通話のできるエリアは限られていますから。今は移動は車椅子ですし、通話はなかなか難しいかもしれませんが」

結局本当の事は言わずにおくことにした。美沙からの電話に出る時には彼女の事を思い出しているかもしれないのだから。

「そうですね。出られるまで何度かかけてみます。それと、厚かましいお願いなんですが、克樹さんを迎えに行く時は私も一緒に行かせてください。お願いします」

美沙は胸に手を当て頭を下げた。

「分かりました。その時は一緒に行きましょう」

博明は力強く答えた。





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