其の終
朝、目が覚めたのはスナックの止まり木だった。
また新宿で一夜を過ごしてしまった。
どこをどう飲み歩いたか定かではなかったが、昨日の酒が楽しい酒だったことだけは覚えていた。
喫茶店に行き、ラックからスポーツ新聞と自分が勤める会社以外の新聞を取って、席に着いた。
野球のニュースがないシーズンオフは、スポーツ新聞がネタ探しに苦労する。大手の新聞も同じでスポーツ記事の代わりをするのが学芸の仕事なのだが、新井はそれらしい記事を入稿した記憶がなかった。
次いで眼を通した日刊紙の記事に、体が一瞬にして冷たくなった。
昨夜高速道路で乗用車にダンプカーが突っ込み、乗用車に乗っていた三人が死亡したという記事だった。
運転免許証から、雪之丞の本名が満晴であることを知ったが、首を捕まれてグラリと思い切り振りまわされたような気がした。
組の連中の仕業に間違いなかったが、証拠がない。交通事故として処理されることは目に見えていた。
連中の勝手な世界観から、簡単に命を投げ出す人間がいるのは事実だ。自分の命を捨てて相手を狙う、彼らの世界で言う『鉄砲玉』よりも割りの良い仕事で、運転していた男は組の幹部の印である金色の小さなバッジを手に入れることになるのだ。
言いようのない悔しさが、確実に新井の心に、深い影と傷を残した。
それからまもなく新井は新聞社を退職した。
いきがるつもりはないが、自分の力の限界を思い知らされたことと、この世界で生きて行けば、また誰か大切な人の死に出会うことになることが明白だ、ということが嫌だった。
二年ほど、金が無くなるまで、あちこちをさまようように流れた。
その間も雪之丞のことが頭から離れなかった。
まったくの偶然か天のいたずらか、山深い温泉場のホテル案内板の『芝居』の文字に引かれるように入った宴会場で、この一座が橘雪之丞ゆかりの一座であることを、仲居たちの会話から知った。
義理の兄が交通事故で死んで、弟が跡を継いでいるということだった。
新井は迷うことなく一座の座長を訪ねて、入門したいと言った。瞬きするほどの時間だったが雪之丞と知り合ったことを大雑把に伝えた。
意外にも座長は入門を快く受け入れ、そばにいる小学生の男の子を呼んで、自分の横に座らせると、
「兄貴の橘雪之丞の忘れ形見で、トオルだよ」
と、少年の頭に手を置いて紹介した。
不可解な出来ごとを説明するときに言葉は力を持たない。
座長が新井に何を感じたのかは、推測するしかなかった。
「橘徹と申します。以後お見知りおきくださいますよう、お願い申し上げます」
芝居の口上そのままに言うその少年に、雪之丞がだぶった。