其の参
新井と雪之丞は昨日の喫茶店にいた。
新井は、調べて来た通りのことを雪之丞に伝えた。
「そうですか、ありがとうございました。それなら尚更出来るだけ早く迎えに行ってやりたいですね。あとでその組の事務所に行ってきます。場所を教えてもらえますか」
「行くって、ひとりで、ですか?」
「いいえ、新宿には友達もいますから、一緒に行ってもらいます」
できれば教えたくなかった。
だが新井が問題を解決するのは筋違いで、やはり雪之丞が行くのが当然だとも考えて事務所の場所を教えた。
喫茶店の会計はまた雪之丞が済ませた。
深々と頭を下げてから地下鉄へと向かう雪之丞を見送ってから、新井は新聞社に電話を入れて、社会部にいる金子を電話口に呼んだ。
「キンちゃん、頼みがあるんだけど、急で悪いけど、俺に付き合ってくれないか」
「いいよ」
と簡単に答える金子に新井は事情を説明した。
金子は場合よっては新井よりも危ない男で、目が届くようにと、本社の社会部に勤務させられている男だった。
子供時代から剣道で知られ、棒を持たせると扱いの厄介な男だった。
俗に剣道三倍段と言われるが、金子が棒を持っただけでそれは凶器へと変わる。
組の事務所には新井も行くつもりでいた。ただ、相手を考えたとき、金子がいてくれれば心強いと思い、助っ人として頼むことにしたのだ。
「いいよ。で、何時にどこで?」
雪之丞が動くのは、天国に倫子が連れてこられる四時頃だろう、と考えた。それより早くにと、三時に新宿駅東口の緑の窓口の前で待ち合わせることにした。カップルが待ち合わせ場所して利用する有名な場所だ。
三時半に、新井と金子は、組の事務所の入口が見える喫茶店の窓側の席に陣取っていた。
雪之丞が現れたのは思った通り四時に少し前だった。
入口にいた男と二言、三言話すと、案内されてビルの中へと入って行った。その後ろに、近くのスーパーに買物に来たようなラフな格好の、ジーパン姿の長身の女が続いた。
新井と金子も、喫茶店を出ると、急いで組の事務所のあるビルへと向かった。
事務所の扉を護るようにしていたふたりの男が、新井と金子を見て、さっと身を引いた。できれば会いたくない男がふたり一緒に来たのだから、無理はなかったが、おかげですんなりと中に入ることができた。
白いレースのカーテンから外の陽が差し込む事務所の中は、事務机があり、来客用のソファーがあって、仰々しい神棚があるわけでもない。
壁に組のロゴマークとも言える代紋がはめ込まれた額縁なければ、普通の事務所と変わりはない。
一番奥の大きめの机の向こうで、顎のとがった細身の男が、新井と金子を座ったまま出迎えた。
「アラキンさん」
見知った顔の組長が、ふたりをまとめて呼んだ。
「おお、親分、元気そうだな」
それには答えずに、
「やっぱり新井さんあんた絡みか」
と、組長は面倒そうな表情になった。
「うちの倫子を返して貰いにまいりました」
先に部屋に入っていた雪之丞が口を開いた。
「聞いてますよ。でもあの女には金を貸してますから、はいそうですか、どうぞ、とは言えませんね」
「そうですか、借金はいかほどですか」
「まあ、何だかんだで二百ってとこかな」
「わかりました」
雪之丞が連れの女に目配せした。
背が高く、腰のあたりまである長い黒髪だ。面長の富士額で、八頭身ともとれる体型はモデルのようで、息をのむほどの日本女性の美しさを持っていた。
女は肩に掛けていたバックから紫色の袱紗を取り出し、その中から札束を二つ取ると雪之丞に手渡した。
「はい、二百万円です。これで倫子を連れて帰っても文句はありませんね」
組長は悔しそうな顔になった。
いまは金が欲しいのではなく、もちろん女ひとりなど問題ではなかった。
いくら下手を打たないのが自分たちの世界の常識だと言っても、明らかに素人と分かる男に好きなようにされている自分に腹が立っていた。それは新宿で看板を掲げる者の意地であるし、同時にこの世界で生きて行くために必要な強がりでもあった。
言い返す言葉を探しているとき、入口のドアが開いて男がふたり入ってきた。
「雪ちゃん、遅くなったわ。ごめんね」
見上げるような長身で、がっしりとした体型だが、何故か女学生のセーラー服を着ている。三つ編みのお下げにしているが、鼻の下にはコールマンひげが蓄えられている。
新井はこの男を知っていた。
新井でなくても新宿の水を飲んで生きている人間で、この男を知らない者はいなかった。
おかまのメッカと言われる新宿二丁目あたりに住んでいるらしく、特攻隊の生き残りだとするのは年齢的に無理があったが、信じてしまいそうな雰囲気を持っていた。
『チョーさん』と呼ばれていたが、その名前は、十人を秒殺したとか、体で車を止めたとか、常に武勇伝とともに語られた。
警察官が敬礼し、やくざ者が道を開ける存在だった。
もうひとりの男も新井は知っていた。
新宿に店を持つ料理屋の板前は地方出身者が多い。
とりわけ焼肉屋は沖縄出身の調理人が多く、新宿のはずれにある沖縄料理店が彼らの溜まり場になっていた。
背が小さいことを、異常なまでに高い歯の入った下駄でカバーしている。
男は皆に『チーフ』と呼ばれていたが、やはりやくざ者が道を譲るほどの組織力を持っている、料理人の長だ。
組長は諦めたように首を振った。
「これだけの面子が揃ったら、いくらなんでも何にも言えないわな。いいよ、その娘、どうぞ連れて行ってくれ。店に連絡を入れとくよ」
立ち上がって男たちの顔を見回していた組長は、肘掛椅子に倒れるように座りこんだ。
「雪之丞さん、新宿の知り合いって彼らですか?」
「ええ、まだ他にもたくさんいますよ」
いったいどんな人物なのか、新井はこの雪之丞がわからなくなっていた。
「こっちはうちの家内です」
新宿の知り合いに間違えられたら困ると思ったのか、雪之丞は連れの女をそう紹介した。
「私も一時期ここでだいぶ悪さをしていましたから」
雪之丞が懐かしそうな眼になった。
「大昔のことです。チョーさん、チーフ、ありがとう。もう大丈夫だよ」
「いいえ、あいつらのことだもの、このまま済むとは思えないわよ」
少し女言葉にはなっているが、腹から出るような声でチョーさんが言った。
新井も同じように考えていた。