其の壱
鶴田亀之丞一座のウマは本名を新井孝信と言った。しかし誰も本名で呼ばない。忙しい動きが求められる舞台の仕事では長い名前や呼びにくい名前は嫌われる。ラグビーなど、試合中に声を掛け合う団体球技の試合で、渾名やニックネームが飛び交うのに似ているが、ウマの場合、馬の脚が唯一の役どころだということもあった。
今回も役がないウマは、競馬新聞を眺めていたが、馬券を買う資金はとうに無くなっていた。
興行している寺の境内で、賽銭箱を恨めし気に覗き込んだりしてから、腰を下ろした石段で、なぜか先代の雪之丞との出会いのことを思い出したのは、季節も天気も、ちょうど今日のような日だったからかも知れなかった。
朝、天井を見て、いまどこにいるのかを判断する生活も三年目に入っていた。
とてもプロの仕事とは思えない、気配りの感じられない工事だ。工事中に踏んだ地下足袋の足型が、長年の塵と埃と油を含んだ煙に縁どられて、天井の板にはっきりと浮き出て見えている。
見慣れた天井だ。朝方まで営業している焼肉屋の二階の座敷にいることを確認してから、新井はゆっくりと上半身を起こした。
壁の時計はすでに十一時に近かった。朝方四時ごろまで営業して、翌日の昼に再び店を開ける焼肉屋だ。酔いつぶれた新井を寝かせたままにしておいてくれたらしい。
よく働くと評判の色白の女店員が、
「おはようございます。またですか」
と、床の雑巾掛けをしながら、造作物が顔の中心に集まるような笑顔を作った。
女店員の入れてくれたお茶をすすっているとき、窓の下を数人の男たちが走っていくのが見えた。
知っている顔もある。この辺りを縄張りにしている組の連中であることが、すぐにわかった。事件の匂いを素早く嗅ぎ取った新井は、階段を降りると、男たちの後を追った。
新井は全国紙の学芸部に籍を置く新聞記者だ。
時事や政治ネタを扱う社会部ではなく、芸能や人物を追う学芸部にいるのは、その過激な取材方法がたたって配置換えになったからだ。取材対象を決めず、その時々の自分の主観で動くため、出社するのは週に一回程度で、ほとんどを新宿で過ごしていて、いつしか『ジュクの新井』と呼ばれるようになっていたが、会社も暗黙のうちにそれを認めている。
コマ劇場裏はホテル街と歓楽街になっている。トルコ風呂からソープランドと呼び名が代わっても、堂々と入店するのはさすがに躊躇らわれるから、表通りでの営業は客に敬遠される。
裏道にあるその種の店が入居しているビルの前で、数人の男が、背の高いひとりの男を取り囲むようにしていた。
細く見えるが、半袖の開襟シャツから覗く男の腕は贅肉のない鍛え上げられたものだ。
午前中の新宿は、一日でもっとも静かな時間の中にある。それでも、野次馬が集まっていた。
「『天国』さん、どうしました?」
息を切らしながら駆け付けた組員のひとりが聞いた。天国とはいかにもそれらしい店名だ。
「この男がね、うちで働いている女を渡せって、妙な事を言っているんですよ」
店の従業員らしい、南国の蝶が羽根を広げた、派手な柄のアロハシャツの男が答えた。
「なんだ、おめぇ」
肩を揺すりながら進み出た組の男が、背の高い男を下から斜めに見上げるようにして聞いた。
「私は、うちの女の子を連れ戻しに来ただけです」
組の男の視線をしっかりと受け止め、そのまままっすぐに返すように、背の高い男は抑揚を押さえた声で静かに答えた。
「連れ戻すって、同業者か?」
「いいえ、芝居をやっている者です。うちの一座の女の子が迎えに来てくれと言っているそうです」
「なんだと、芝居?猿のやるやつか?へっ、わからねえよ」
「それは、あなたが頭が悪いからです」
不敵な態度だ。しかし男の身体の真ん中に、何かしっかりとした自信のようなものが一本通っているかのように思えて、新井は、これは楽しくなるかもしれないと思い、ニンマリとした。
「なんだと、何を言ってるんだ、おめえ」
「うちの一座の女の子です。親御さんからお預かりした大切な娘さんです。連れて帰りますから、会わせてください」
静かではっきりとした物言いは、ナレーションのようだ。
「ふざけるなっつうの。今はお家に帰っておやすみ中。もし居たって、はいそうですかって渡せるもんじゃねえよ」
上滑りした店員の声を受けて、組の男のうちのひとりが背の高い男の胸倉に手を伸ばした。
その手を軽くに握るようにして受け止め、下に向けた。合気道のような動きだったが、組の男は悲鳴を上げて地面に両膝をついた。
それを見た別の男が殴りかかる。
背の高い男は先に襲ってきた男の腕を決めて地面に座らせたまま、空いた方の手で男の拳を受け止め、握り潰すようにした。組の男は悲鳴をあげて今度は飛び上がるような格好になった。
「ほう、やるねえ」
新井には古武術の心得があって、背の高い男がかなりの武道の達人であることはすぐにわかったから、またニンマリとしていた。
早起きはしてみるもんだ、と心の中で言ってから、そうでもないかとまた心の中で打ち消した。朝というより、昼に近かった。
「この野郎」
組の男たちが身構えた。
野次馬の中から新井がゆっくりと進み出た。
「おい、やめな」
「あ、新井さん」
新井は暴力団に一目置かれる存在だ。
「しかし、このままじゃあ、俺たちの顔が立ちません」
「馬鹿、その逆だ。お前たち、明日から新宿を歩けなくなるぞ」
このまま黙っていれば、組の男たちが背の高い男に打ちのめされるのは目に見えていた。
背の高い男はふたりの男を離して、新井の方を見た。
「なんですか、あなた。この人たちの仲間ですか?」
「とんでもない、ただのブンヤですよ」
「ブンヤって、新聞記者ですか?」
「はい、新井と言います」
新井は名刺を取り出して、背の高い男に渡した。
「すいません、名刺を持たないもので。私、橘雪之丞と申します」
思えばおかしな光景だった。丁寧に挨拶をしている場合ではないようにも思えたが、ふたりのやりとりは誰の目にもごく日常的のものに映った。それはこのふたりが尋常ではない世界に生きていることを物語っていた。
「なんですか?女の子を渡せって」
「ええ、うちの一座にいた娘がここで働かされているようなので、迎えに来ました」
「なるほど。でもこいつらは、はいそうですか、と渡すような連中じゃありませんよ」
「いえ、力づくでも連れて帰ります」
それを聞いた男たちゆっくりと間合いを取りながら、雪之丞を取り囲んだ。
仲間のふたりを手玉に取ったいまの雪之丞の動きを見て慎重になっている。
「まあまあ、ここは俺に任せてください。とりあえず朝飯でも……」
もう昼だったが、新井はまだ朝飯を食べていなかった。流れの中での台詞という以上に、心の底から自然に出た言葉だった。
「いいでしょう、お任せしましょう」
雪之丞も新井に何か感じたようだ。拍子抜けするほどあっさりと承諾した。
昼に食事をするには新宿は不向きな所だ。
この町が本格的に活動を開始するのは夕方からで、昔は飲食業が中心で、終電に前後して明かりを落とす店が多かったが、不夜城とマスコミが名称を付けたころから、のぞき部屋をはじめとするいわゆる風俗の店が増えてきて、そこに群がる客を目当てにして一晩中営業する飲食店も増えてきていた。
しかし、このところ六本木あたりに客を奪われるようになって、空き店舗も目立つようになってきている。
ふたりは私鉄駅前の喫茶店に入った。
「しかし、あんたも無茶な人だ。あの店は裏で組が経営しているんです。暴力団は商売をやらないことが奴らの暗黙の了解になっているから、表立ってはいませんが、評判の悪いことで有名な店なんですよ。さっきのも連中の下手な猿芝居ですよ。そこに怒鳴り込むなんて、全く」
「そうなんですか。でもうちの女の子を連れて戻らないといけませんから」
「うちの子って、さっき一座で預かった、とか言ってた……」
「そうです、倫子という娘なのですが、一座に入ったばかりなのにいなくなってしまいました。新宿で無理やり働かされているから助けてくれと、客になったという男に頼んだらしいのです」
「それであの店へ」
「すぐにいなくなったのは、芝居を口実にして親元を離れるためだったのでしょうが、困っているなら助けなければいけませんから」
「なるほどね。そうですか。しかし、本当にあの店にいるかどうかもわからないでしょ」
「それはそうですが」
「俺に調べさせてもらえませんか。あとで調べておきます。明日まで待ってください。明日またここで会えませんか?」
「ええ、それではお願します。明日もこの時間でいいですか」
雪之丞は支払いを済ませると、新井に「よろしく頼みます」と言って、地下鉄の入口の方へと歩いて行った。