悪役令嬢だけど今日も推しが尊い。
愛されたかった。
愛されたかった。
私は愛されていなかった。
金も家柄も豊かな生活も与えられたけれど、愛だけが私には与えられなかった。
愛されてみたかった。
愛されさえいたならばこんな空虚な苦しみを抱えずに済んだはずだ。
愛されてさえいたならば、私はこんな最期を迎えなかったはずだ。
愛されたかった。
愛されてみたかった。
だから愛を勝ち取ろうとした。
ありとあらゆる手段でもって、愛を得ようとした。
けれど、やはり私は愛されなかった。
だから、今私の屋敷には多くの兵が押しかけてきている。
なんの取り柄もない身分の低い有象無象が、私を悪鬼羅刹の類だと断罪の言葉を叫びながら押しかけてきている。
私が不幸なのは誰にも愛されていないからだ。
手にしていたランタンを、カタンと床に落とす。
あっけなく横に倒れたランタンからは炎が零れ、ちろちろと絨毯を舐め始める。
「私は、愛されたかっただけなのに」
どうして、誰も私を愛してくれないのだろう。
どうして、誰も私を幸せにしてくれないのだろう。
家柄も、美貌も、知能ですら私に劣る癖に幸せそうに笑う女が憎かった。
私ですら得られない幸福を、まるで当たり前のように享受する者たちが憎かった。
だから、壊してやった。
壊してやろうとした。
どうして、笑えるの。
あの子は、私のように召使に傅かれているわけでもないのに。
どうして、笑えるの。
あの子は私ほど美しくもないのに。
どうして、愛されるの。
あの子は私ほど必死に愛を求めてすらいなかったのに。
「どうして……」
つぶやく言葉に返事はない。
轟々と床に広がる炎が大きくなる。
もうすぐ、この屋敷は火の海に沈む。
私を捕らえるためにやってきた兵士たちをどれくらい道連れに出来るだろう。
私一人不幸なまま終わるなんて、酷い話だ。
だから、道連れは多い方が良い。
本当なら、こんな世界滅ぼしてしまいたかった。
私が死ぬのだ。
私のいない世界なんて、続いたって意味がない。
私にとって意味のない世界なら、滅んでしまったってかまわない。
私を幸せにしてくれなかった世界なんて。
「お嬢、さま」
掠れた、聞き苦しい声が私を呼ぶ。
無様な青年が赤く炎に照らされた室内で、私を見つめていた。
私と同じ蒼みを帯びた銀の髪に、紫の瞳。
やせ細った、明らかに栄養失調だとわかる骨と皮のような男だ。
髪と目の色が似ているという理由で、私はこの男がまだ子どもだった頃から手元に置いていた。
私は男の成長を許さなかった。
声変わりを迎える前に喉を潰した。
背が伸びないように、体格が変わらないように、死なない程度の最低限の食事しか与えなかった。
だから、目の前の幽鬼のようにやつれた男はどこか私に似ている。
「お嬢さま、にげて、ください」
ひゅうひゅうと空気が漏れるような掠れた声が囁く。
この男はいくつになっただろう。
確か私と年は変わらなかったはずだ。
だというのに、私によって成長を阻まれた彼は未だ痩せた少年のように見える。
髪と目の色を除けば、その辺の路地裏に転がっていそうな野良犬のような男。
「私に、命令するの」
「おしかりなら、あとで、うけますから」
男の言葉に、は、と嗤いがこぼれた。
後なんて、ない。
私はここで死ぬ。
屋敷とともに焼け落ちて終わるのだ。
「………にげ、て」
男は、私へと手を伸ばした。
煤と血で汚れた手のひらが私の頬に触れる。
「汚い手で触らないで」
拒絶の言葉にすら、男は小さく笑ったようだった。
狂ったのだろうか。
頬に残るべたついた熱。
赤く、黒く、私の顔を汚して。
次に男は、私の着ていたガウンを脱がせた。
「……最期の最期に、私を辱めようって気なの」
飼い犬に手を咬まれるとはこのことだ。
だけれども、そうだ。
私は、いろんな男に身体を許してきたが。
この目の前にいる屑のような男にだけは抱かれたことがなかった。
ふ、と嗤いがこみ上げる。
それも、良いかもしれない。
私は、男に抱かれるのが好きだ。
みっともなく必死になって私の肌に顔をうずめる男の熱は、愛とはそういうものなのだと私を錯覚させてくれる。
どうせ身体だけが目当てで、すぐに私を裏切るとわかっていても。
閨を共にしている間だけは、愛されているような気がする。
最期にそんな勘違いをしたまま死ぬのも悪くない。
だと言うのに、男は抱えていた皺くちゃな汚れたガウンを私の肩にかけた。
最期まで、空気を読まない男だ。
鞭をくれてやりたい。
そして――私の目の前で、男は私のガウンを纏った。
フードを目深にかぶる。
煤にけぶる銀の髪がフードから零れる。
まるで。
その姿はまるで。
「貴方、私のふりをしようって言うの」
男は答えなかった。
そんな貧相な姿で。
そんな見苦しい姿で。
私の名を騙るつもりなのか、この男。
「にげ、て」
掠れた声が繰り返す。
そして、男は。
美しい装飾の施されたガウンの裾を翻して、外へと飛び出していった。
「いたぞ、あの女だ!」
「自分の屋敷に火をつけるなんてイカれてンのか!!」
「逃がすな!!!」
やかましい兵士たちの声が、遠ざかる。
聞こえるのは、ごうごうと燃える炎の音だけだ。
「―――どうして」
最期まで、私の問には誰も答えてはくれなかった。
というのが。
『夕闇の淵で乙女は祈る』という女性向けシミュレーションゲームにおける悪役、カーネリア・ディズ・エネッタの最期である。
愛されてるからだよ。
お前、最期の最期まで気付かなかったけどお前あの子に愛されてんだよお!!!
というのが、彼女の最期を見届けたプレイヤーたちの魂の叫びだ。
私ももちろん、同じことを叫んだ。
この『夕闇の淵で乙女は祈る』という乙女ゲー。
いろんな意味で問題作だった。
まず、恋愛要素がとことん薄い。
確かに主人公は可愛らしい少女だし、たくさんのイケメンが出てきはする。
血のつながらない義理の兄、麗しい王子二人、騎士の青年、年下執事、そして異国の王族、悪魔、etc。
そのイケメンたちとの幸せな結末を迎える、というのがこのゲームの目的だ。
だが、そこに立ちふさがるのがカーネリア・ディズ・エネッタという女なのである。
この「立ちふさがる」のレベルがこれまで私がプレイしてきた乙女ゲーのライバルキャラの中では段違いに凄まじい。
絶対ヒロイン殺すウーマンとファンの間で呼ばれるぐらいだ。
正直プレイしている間、攻略対象たちのことを考えるよりもいかにこの女に殺されないように立ち回るかを考えている方が長かったように思う。
いや、殺されないエンドもあったけれど。
目の前で愛する人間を殺され、自我の崩壊したヒロインを地下に監禁し、カーネリアが攻略対象の死体と一緒に人形遊びをするエンドではヒロインは殺されてはいなかった。うん。ヒロインは。
それ以外は大体死んだけど。
主人公の義理の兄も、愛した人も、家族も。
王家転覆を目論んだ大逆人として処刑されてた。
つらい。
このカーネリア、本命は王子である。
ユスリーファ・ドゥル・ミスカネア第一王子。
ちなみに攻略対象にはクレンリード・ドゥル・ミスカネア第二王子もいるが、この第二王子は大概のルートにおいてカーネリアの傀儡と化して第一王子を殺して自分が王位を継ごうと試みる拗らせ系だ。
第一王子を攻略するルートでは、カーネリアとはガチで第一王子との愛を競うライバル関係となる。
この『夕闇の淵で乙女は祈る』というゲームにおいて、屈指のBADエンド数及びヒロインの死亡率の高さを誇る最も危険度の高いルートである。
第一王子がヒロインを選んだからといっても安心はできない。
それ以降カーネリアは第二王子を操り、第一王子もろともヒロインをぶっ殺そうと試みてくる。
ここで王子を守り、カーネリアと第二王子の企みを阻止しなければやっぱりえげつないBADENDが待っている。
ねえこれ本当に乙女ゲー???
最後のあたり、もはや主人公と第一王子の関係は甘ったるい恋愛関係というよりも共に戦場を駆け抜けた戦友みたいになっていた。
それなら第一王子以外のルートなら良いだろうと思うと思う。
だがそれまた考えが甘い。
このカーネリアという女は、素晴らしく病んでいるのだ。
彼女は、愛を知らずに育った。
侯爵家の令嬢として生まれたものの、両親の結びつきは政略結婚によるもの。
跡取りとなる息子が欲しかった父親は、娘カーネリアへの関心がなかった。
もともと別に恋い慕う男がいた母親にとっても、政略結婚の果てに生まれた娘にはなんの興味もなかった。
結果として、カーネリアは広い屋敷にひとり放置された。
使用人たちに囲まれてこそいたものの、使用人と貴族の間には壁がある。
使用人たちは卒なくカーネリアの世話こそしたものの、愛情を向けたりはしなかった。
故に、カーネリアは口のきけない子どもに育った。
誰にも話しかけられないのだ。
そして、何か要望を口にするよりも先に優秀な使用人たちが先回りする日々。
誰からも言葉を向けられなかった子どもは、言葉を知らないまま育った。
それに両親が気付いたのは、カーネリアが4つになった頃だった。
両親は私たちの子どもがこんなにも愚かなんて、とカーネリアを責めた。
お互いに責任を押し付けあい、カーネリアの前で罵り合った。
そして、カーネリアには家庭教師がつけられた。
おかげでカーネリアはようやく話すことが出来るようになった。
そして、カーネリアは。
八つになった年に、王家に連なる伯爵家へと輿入れすることになる。
八つ、というのは『夕闇の淵で乙女は祈る』というゲームの世界観の中でも相当早い結婚だという風に描かれていた。
つまり、カーネリアは家のために幼女趣味の変態伯爵の元に売られたのだ。
だが、そこでカーネリアは初めて『誰かに大事にされる』ということを知る。
伯爵はカーネリアを人形のように愛でた。
可愛らしいドレスを何着も何着も買い与え、宝飾品も好きなだけ与えた。
カーネリアが欲しい、といって与えられないものは何もなかった。
伯爵はカーネリアを小さな女王様のように扱い、カーネリアにもそのような振る舞いを求めた。
カーネリアが気に入らないと口にした使用人は、カーネリアの目の前で鞭打たれた。
時には、処刑することすらあった。
愛するお前のためだからね、と伯爵は笑った。
カーネリアへの愛を証明するために、伯爵は悲しそうに眉尻を下げ、私はこんなことをしたくないけれどお前が望むなら、と言って多くの非道を成した。
そして、カーネリアが少女を通りこし、大人の女になりかけたあたりで。
伯爵は、カーネリアを殺そうとした。
育ちすぎた女は、好みではなかったのだ。
女になる前に伯爵はカーネリアを殺し、その死体を永遠に保存するつもりだったらしい。
伯爵に裏切られたカーネリアは激情に狂い――逆に伯爵を殺してしまう。
そうして、カーネリアは夫に先立たれた哀れな未亡人の立ち位置に収まった。
伯爵の行いをなんとなく察してはいた王家及び、大勢の貴族たちは、カーネリアが伯爵家の女主人となることに物言いを付けることはなかった。
カーネリアには、『愛』がわからない。
伯爵といたころは『愛されていた』ような気もするけれど。
結局は伯爵が求めていたのは「美しく残酷な小さな女王様」であってカーネリア自身ではなかった。
そんなのはきっと愛ではないだろう。
だって、カーネリアはちっとも幸せではなかった。
そこで、カーネリアは間違えた。
大きなロジックエラーを起こした。
私が幸せでないのは、愛されていないから。
彼女は、そう結論づけた。
それはきっと、間違えではなかった。
けれど、カーネリアは逆説的にもそれを証明しようとしてしまった。
私が幸せでないのは愛されていないから。
愛されているならば幸せなはず。
つまり幸せじゃないなら愛されていない。
愛を知らないカーネリアの中で、『愛』は万能で、素晴らしく、それさえあれば永遠に幸福が続くものだと定義されてしまった。
だから、カーネリアは寄せられる愛情に一切気付かなかった。
私を愛しているならば私の望むことがわかるはず。
私を愛しているのなら、私を幸せにしてくれるはず。
私を愛しているのなら、私を傷つけるようなことはしないはず。
だから、言わなければわからないような人間は私を愛してなどいないのだ。
だから、どんな些細なことであれ私に不快な思いをさせる人間は私のことを愛してなどいないのだ。
どんなに愛し合う恋人同士だって、上手くいかないことはある。
喧嘩をすることも、思わぬことで相手を傷つけてしまうことだってある。
カーネリアはそれが理解できなかった。
愛を知らないカーネリアには、最期まで理解できなかった。
カーネリアが第一王子を狙うのも、この国で一番優れた男に愛されたなら幸せになれるだろう、と思ったからだ。
そしてカーネリアが第一王子と結ばれても、カーネリアは幸せにはなれなかった。
そもそも、カーネリアの定義において、カーネリアを幸せにできる人間なんてこの世界には存在しないのだ。
だからカーネリアは、主人公が許せない。
第一王子よりも格下の男と結ばれた癖に、幸せそうに笑う主人公がカーネリアには許すことが出来なかったのだ。
そんなわけで。
第一王子以外のルートを選んでも地獄である。
どのルートにおいても手を変え品を変え、カーネリアは主人公を追いつめる。
そんなカーネリアに最期まで従ったのが、身代わりとなった少年だ。
少女とも見まごう華奢な姿に、青白い顔色。
長く伸ばした髪や眼はカーネリアと同じ色。
彼は、カーネリアと同じく伯爵に買われた子どもだった。
伯爵は幼かったその子にカーネリアと同じドレスを着せ、まるで双子であるかのように扱った。
伯爵がカーネリアを殺そうと決めた理由の一つには、彼の成長もある。
伯爵は『可愛い双子のお姫様』を永遠にそのままとどめようとしたのだ。
まるでペアのお人形を棚に飾るかのように。
少年が男になる前に。
カーネリアが女になる前に。
カーネリアが伯爵を殺したことで、彼もまた自由になった。
が、彼はカーネリアの傍に残ることを選んだ。
そして、二人はやっぱり『お揃い』であることを望んでしまった。
カーネリアは彼の喉を潰し、彼を飢えさせた。
主人公の目の前に、彼は哀れなカーネリアの犠牲者として現れる。
青白くカサついた肌に、華奢な手足。
声すら奪われた彼はカーネリアに虐げられる哀れな使用人だった。
主人公の目の前でカーネリアに鞭うたれたことすらある。
おそらく、全プレイヤーが彼を助けたいと望んだことだろう。
もの言いたげな眼差しで主人公を見つめる神秘的な美少年は、きっと全プレイヤーの乙女心を鷲掴んだはずだ。
少なくとも私は鷲掴まれた。
彼に声をかけ、食事を与え、菓子を与え、気遣い、その口元にようやく小さな微笑みが浮かんだスチルを見た時には画面の前でガッツポーズをしたものだ。
もうね、神々しかった。
また声優さんの演技が素晴らしかった。
喉を潰されているという設定故に、彼はほとんどのシーンでは喋らない。
カーネリアによって痛めつけられる時でさえ、小さく息を詰めるような声が漏れる程度だ。
その彼が!
その微笑みスチルの時に初めて掠れた吐息交じりの声音で、「ありがとう」と口にするのだ。
私は少なくとも30回以上はそのボイスを再生した。
掠れた、苦し気な、ひゅうひゅうと喉で喘ぐ音交じりの声だった。
それでもたまらなく嬉しくて、悪女カーネリアの手からなんとしてでも彼を救わなければと心に誓ったものだ。
スチルまであるのだ。
彼はきっと主人公のヒロインぱぅわーで救うことが出来る隠し攻略対象に違いないと、何度も何度も周回してフラグを立てようと試みた。
けれど、彼は救えなかった。
もう、なんていうか。
攻略できなくていいから助けさせてくれ、と何度も声に出して呻いた。
ありとあらゆる選択肢を選んだ。
けれど、彼は毎回カーネリアを助けるために犠牲になる道を選んだ。
多くの同志が脱落した。
中には彼を救えないことに腹を立て、『夕闇の淵で乙女は祈る』のアンチに転身するファンもいた。
彼は最期まで主人公を振り返らなかった。
一途にカーネリアだけを想い続けた。
つまり乙女ゲーにあるまじきダブルヒロインというかNTRというか、攻略できない攻略対象って何なの、というわけだ。
私だって、似たような怒りは感じていた。
よりにもよって乙女ゲーにこんな地雷ぶちこんでこなくたっていいじゃないか、とライターやメーカーを恨んだりもした。
でも結局、私は彼が好きなのだ。
彼を幸せにしたい。
彼に笑ってほしいし、彼の声をもっと聴いてみたい。
だから、私は今までプレイした中で一番最高の乙女ゲーの推しは誰かと言われたら彼を挙げる。
最期まで主人公を振り返らなかった彼を。
で、だ、
今現在、その彼が私の目の前にいる。
私、カーネリア・ディズ・エネッタの目の前に。
「ひえええええええええええ!?!?!?!??!」
思わず、奇声が喉をついて出る。
まって。
まって。
ちょっとまって。
いや本当まって。
「どうしたんだい、カーネリア?」
ねっとりと絡みつくような声に視線を持ち上げる。
人の好さそうな、中年の男性が私を見下ろしている。
私の夫となる男。
王家に連なる伯爵、デズモンド・ドゥジ・エッケンソン伯爵だ。
頭のイカれたロリコン男。
「ひええええええええ!?!?!?」
また悲鳴が出る。
目の前に自分を歪んだ欲望の対象とするロリコン男がいるのだ、悲鳴が出ない方がおかしい。
目の前の彼は、私とお揃いのドレスを着て、大層怯えた顔をしていた。
あー今日も私の推しが最高に可愛い。
というかショタだ。
彼とカーネリアの過去は三人称で書かれた外伝的なエピソードとして挿入されたため、ショタドレス姿の彼の立ち絵はゲーム内には実装されていなかった。
おかげで妄想がはかどり、私はありとあらゆるファンアートを巡回し、ふぁぼをつけ、ブクマを捧げてきたものだ。
それが今、目の前にいるのである。
というか。
いやいや、おかしい。
私は、誰だ。
私は――
カーネリア・ディズ・エネッタだ。
名前が、重なる。
この世界を、彼をゲームの登場人物として知る■■■と。
カーネリア・ディズ・エネッタとして生きてきた知識が、ぐしゃぐしゃと頭の中で混ざり合う。
いや、そんなことはどうでもいい。
■■■の知識が確かなら、この後カーネリア・ディズ・エネッタは酷い目に合う。
歪んだ欲望の犠牲にされて、形を歪められてしまう。
そして、目の前の彼を遠い未来にて死なせてしまうことになる。
それは避けなければ。
カーネリア・ディズ・エネッタの中の■■■が叫んでいる。
今度こそ、推しを必ず幸せにして見せるのだ、と。
「逃げるわよ!!!!!!」
叫ぶ。
叫んで、呆然と私を見つめる青白い顔をした子どもの手を取る。
私の手もまた、その子どもと変わらないほどに小さかった。
ドレスの裾を蹴立てて、走る。
逃げるのだ。
この変態ロリコン男の元から。
カーネリア・ディズ・エネッタと彼にこれから降りかかるであろう酷い運命から。
伯爵はそのアブない趣味のせいで、屋敷の中にほとんど使用人を置いていなかった。
度重なる暴虐で死んだ眼をした使用人たちは、私たちを積極的に捕らえようとはしなかった。
伯爵は、残酷な女王様に逆らえず酷いことをする、というシチュエーションに酔うことを好んでいたから。
私たちがいなければ、残酷な小さな女王たちがいなければ、伯爵は理知的で、良い主の部類に入ると彼らは思っていた。
私と彼が屋敷から逃げ出せたのは、そのおかげだった。
たまたま近くを通りかかった見回りの憲兵に助けを求めた。
憲兵は最初、私たちの恰好から両家の子女が賊にでも襲われたのだと思ったらしかった。
が、一転して私たちがデズモンド・ドゥジ・エッケンソン伯爵邸から逃げてきたのだと知れば、そのテンションは下がった。
伯爵家ともなれば、憲兵ごときでは太刀打ちできないのだ。
貴族間の揉め事は、超法規的な解決を見ることが多い。
だが、そこで諦めてもらっては困る。
私は、カーネリア・ディズ・エネッタの名を存分に使った。
そして私が未だいたいけな子どもであることも、武器にした。
いくら伯爵家といえど、八歳の幼女を嫁として娶るというのはなかなか社会的には認められにくい行為だ。
それをデズモンド・ドゥジ・エッケンソン伯爵は伯爵夫人として幼いうちから英才教育を行い、適齢期になるまで手元で自ら育てたいと主張してその無理を通した。
その伯爵邸から、将来妻とされるはずの女児が、よく似た女装させられた男児とともに逃げ出してきたのだ。
伯爵の良識に疑念が寄せられるのは自然なことだった。
さらに■■■にはゲーム知識があった。
デズモンド・ドゥジ・エッケンソン伯爵の犠牲者は、私たちが最初ではない。
地下室には、私たちの前の犠牲者がトロフィーよろしく飾られているのを■■■は知っていた。
地下で恐ろしいものを見たのだと訴えた。
それからデズモンド・ドゥジ・エッケンソン伯爵邸は大騒ぎになったらしい。
らしい、というのはその頃には私と彼は王城に保護されていたからだ。
そこで私を実家であるエネッタ邸に帰さなかったあたり、私たちの事件に関わった大人は良い仕事をしたと思う。
こんな無茶な婚姻を了承したあたり、少なくともカーネリア・ディズ・エネッタの両親が娘に対して十分な保護を与えている、とは思えなかったのだろう。
私と彼は、長らく王城に止められた。
それはもしかしなくとも、長い間あのデズモンド・ドゥジ・エッケンソン伯爵を止めることが出来なかった王族たちのせめてもの償いであったのかもしれない。
まあ、単純に人気取りだった可能性もあるが。
これまで何人もの子どもが、デズモンド・ドゥジ・エッケンソン伯爵邸の近くで行方不明になっていたが――…流れものによる犯行として処理され続けていたのだ。
私たちは、助かった。
それからの人生は、■■■の知らないものとなった。
■■■が知っているカーネリア・ディズ・エネッタの物語は、愛を知らずに育った孤独な少女が歪みきった物語だった。
自分の歪みに気付かず、カーネリア・ディズ・エネッタはただただありもしない愛の幻影を追い求め、周囲に破滅を齎した。
カーネリア・ディズ・エネッタは誰にも幸せにしてもらえなかった。
カーネリア・ディズ・エネッタは誰一人、自分でさえ幸せにはしなかった。
同じ轍は踏みたくないと思ったのは、カーネリア・ディズ・エネッタの中に混じった■■■のおかげだったのか。
それとも、もともと■■■なんて存在せず、両親にも愛されず、八歳にして中年の伯爵に輿入れすることになったカーネリア・ディズ・エネッタが生み出した妄想によるものだったのか。
今となっては、よくわからない。
「カーネリア」
名前を呼ばれて、顔を上げる。
私と同じ青みを帯びた銀の髪に、紫の瞳。
■■■の知る彼の面影を宿した端正な顔立ちは、今はかつて■■■が愛した推しとはだいぶ姿が変わっている。
髪は短く刈られているし、背丈はすでに私よりも頭半分ほど高い。
肩幅も広くなり、少年から青年への成長の過渡期にある。
身なりも良く、幸薄げに、儚く微笑んだ美少年の面影はだいぶ薄くなった。
いや、イケメンはイケメンなのだけれども。
「ヴィオレット」
呼び返すと、彼はふ、と口元に小さく笑みを浮かべた。
ちゃんとした食事を与え、教育を受け、清潔な住居にて正しく成長した彼こそが、今目の前にいるヴィオレットだ。
彼は、あの事件の後子どものいない男爵邸に引き取られた。
王家に連なるものによって起こされた事件の被害者である、とうこともあり、当時の国王陛下が彼の保護者となる人間を探してくれたのだ。
彼を引き取った男爵には、それなりの見返りもあったのだと言う。
彼と引き離されることには、不安があった。
私の知らないところで彼が不幸になるのでは、ということが何より恐ろしかった。
その一方で、少なくとも私の傍にいなければ、彼が未来でたどるような悲惨な事態は避けられるという安堵もあった。
だから、私は不安そうな顔をする彼に、幸せになって、と告げて送り出したのだ。
ヴィオレット、という名はその時彼に与えたものだ。
彼には、名前がなかった。
物心つく前に伯爵の屋敷に売られた彼は、ずっと伯爵からは『私のお姫様』と呼ばれていたのだそうだ。
確かに、■■■も彼の名前を知らなかった。
■■■の知る彼は喉を潰され名乗ることすらできなかったし、あのカーネリア・ディズ・エネッタは彼を名前で呼ぶことはなかった。
だからずっと、■■■は、名前すら知らない推しの幸せを祈り続けていたのだ。
今、目の前にいる彼には名前がある。
―――ヴィオレット。
菫色の、紫の眼の色からとった名前。
私が、彼に与えた。
後に、ヴィオレットというのが一般的には女性の名前であることを知って慌てて改名を勧めたものの、今のところ彼にそのつもりはないらしい。
ヴィオレット・ストゥ・オットーこそが、今の彼の名前だ。
次期オットー男爵を継ぐ御令息として、華やかな社交界でもその名を聞くことが増えてきた話題のイケメンだ。
「カーネリア、馬車が迎えに来た」
「そう。今行くわ」
私はすっと立ち上がると机の脇に用意してあったトランクを手に取る。
いや、取ろうとした。
実際には私が手に取るより先に、彼が軽々と抱え上げてしまう。
「俺が運ぶよ」
「ありがとう、ヴィオレット」
お礼を言いつつも、そんなこともうしなくても良いのに、とも思ってしまう。
今の彼は、カーネリア・ディズ・エネッタの使用人ではないのだ。
女性の荷物を持つ、ぐらい男性としては当たり前のマナーであるのかもしれないが、そんな風に思ってしまうのは選ばなかった方の未来の記憶を持つが故の罪悪感のせいだろうか。
「……あの人たちは?」
先導するように歩き始めたヴィオレットが、声を落として問う。
そうやって低く落とした声音には、少しだけかつての潰された声音の面影があってドキリと心臓が跳ねる。
■■■が何度も聞いて、幸せにしてやりたいと願った声音。
カーネリア・ディズ・エネッタが潰し、奪ってしまった声。
ときめきと罪悪感の混ざり合うような酷く複雑な心地だ。
ちなみに、彼の言うあの人たち、というのは私の両親のことだ。
私は曖昧に微笑み、軽く首を傾げて見せる。
あの二人ならどこで何をしているのやら。
ダブル不倫で愛人のもとを訪ねている、ということもあるだろうし、自室で何か趣味に耽っているのかもしれない。
彼がオットー男爵に引き取られたのと同じタイミングで、私はこの家に戻ってきた。
両親が私を伯爵に売ったのは事実だが、地位のある男性に嫁ぐことが娘の幸せだと思った、より良い教育を受けられると思った、なんて言われれば陛下としてもそれ以上は追及することが出来なかったし、追及できない以上理由もなく一人娘である私を王城にとどめておくことも出来なかった。
家に戻ってきた私の生活は、それまでのものとそう変わらなかった。
相変わらず両親の興味は私にはなかったし、使用人たちも他人行儀なままだった。
両親は伯爵の元から逃げ出した私に対して、責めるようなことすらしなかった。
伯爵の代わりに、王家から口止め料を含む慰謝料を貰うことが出来たからだろう。
少しばかり名目は変わったものの、目的である金さえ手に入れば彼らにとって私が家にいるかいないか、というのは些細な問題だったのだ。
そんな空虚な日々に耐えられたのは、■■■の記憶があったからかもしれない。
私に流れこんだ■■■の記憶の大半は『夕闇の淵で乙女は祈る』というゲームの記憶だ。
私の辿るかもしれなかった未来。
もう一人のカーネリア・ディズ・エネッタの物語。
その記憶に纏わる大部分は、「ヴィオレットを幸せにしたい」という強い意志によるものなのだけれども――…その他にも漠然と、■■■の人生観のようなものが伝わってきた。
―――日々がしんどくても推しが尊いから生きていける。
真理だった。
そんなわけで、私は両親に構われないでいる間、見事にオタ活にハマった。
愛情や関心こそ注がれはしなかったものの、両親は不自由なくお金だけは出してくれたもので、それを良いことに私は興味を惹かれるままにたくさんの書物を揃えた。
読書は良いものだ。
私の世界をたくさんの物語が広げてくれた。
素敵なキャラクターの活躍に胸をときめかせ、物語の中の登場人物でしかないはずのキャラクターに真剣に胸を焦がすような想いを抱いた。
侯爵令嬢としての私は、孤独だ。
王家絡みの醜聞ということもあって、伯爵の件についての詳しい情報は伏せられてはいたものの、ある程度の有力貴族の間では私のことはすっかり知られてしまっている。
だから、表立って私と交流しようというものは少ない。
けれど、身分を隠した読書クラブにおいて私には同志が多くいた。
好きな作品についてを手紙で語り合い、読書クラブで出している冊子に熱の籠った感想文を投稿し、さらにその感想文に対する感想が返ってきたりなど。
だから、私は■■■が知るカーネリア・ディズ・エネッタほどは孤独ではなかったと思う。
おかげで、というべきなのか。
私自身もまた、両親に対する関心が薄い。
ロクでもない親だとは思う。
だが憎いか、と言われるとそれほどでもないのだ。
彼らに愛されたいとも思わなければ、彼らを殺したいほど憎いとも思わない。
彼らが死んだとしても私はきっと悲しまないだろうし、きっと嬉しいとすら思わないような気がしている。
それぐらい、両親というのは私にとっては遠い人たちだった。
が、ヴィオレットはそんな私の両親に対してあまり良い感情を抱いていないようだった。
「……一人娘の巣立ちだっていうのに、見送りすらしないのか」
「そういう人たちなのよ」
彼の憤りはとても真っ当で。
それがなんだか、彼が真っ当な家庭で育った証のようでなんだか嬉しくなる。
彼を引き取った男爵夫妻はきっと真っ当に良い人たちだったのだろう。
私と、ヴィオレットは今年で16歳になった。
晴れて王立の全寮制学院に入学する年だ。
貴族の令嬢のほとんどはこの学院に進学したのち、在学中に男子生徒と交流を深め、婚約を交わし、卒業と同時に結婚することが多い。
そのために娘を持つ貴族階級の家では進学のための旅立ちを、巣立ちとして華やかに、盛大に祝う習慣があるのだ。
うちでは当然のごとくスルーされたが。
まあ、いいのだ。
何せ私は結婚できる気がしていない。
きっと卒業したらこの家に戻るだろうし、そのあとは修道院にでも入れられるのが関の山だ。
だが、それでもある程度安定した生活を送ることが出来るのならば問題ない。
「いきましょう、ヴィオレット」
「ああ」
屋敷の前には、馬車が待っている。
王立エルシトール学院にやってきてから、数日が過ぎた。
今のところは、酷く平和だ。
特に誰と揉めることもなく、卒なく過ごせている――つもりだ。
だが、まだ油断はできない。
ここは、王立エルシトール学院。
■■■が知る『夕闇の淵で乙女は祈る』のメイン舞台だ。
カーネリア・ディズ・エネッタはそこで第一王子を篭絡しようと目論む中でヒロインに出会う。
そして後はひたすら隙あらばヒロインを殺そうと試みる。
なので。
もしも、■■■の記憶が私の妄想でないのならば、きっと出会うとは思っていた。
「―――あ」
ヒロインは、■■■の記憶通り可愛らしさの中にもどこか凛とした芯の強さを感じさせるような少女だった。
薄い亜麻色の、光を弾くときらきらと陽の色に煌めく長い髪。
意思の強そうなくりっとした双眸は穏やかな湖畔を思わせるエメラルドグリーンだ。
そんな彼女のくるくると変わる表情や、明るい雰囲気は人を惹きつける魅力に溢れている。
ああ、あれが。
あの子が、カーネリア・ディズ・エネッタがあんなにも憎み、妬み、嫉み、殺そうとした子なのか。
不思議な感慨だった。
しばらく眺めていると、彼女が私の視線に気づいたように顔を上げる。
視線が、重なる。
目をそらさなかったのは、ちょっとした好奇心だった。
もしも彼女の方にも私と同じような記憶があったのならば、彼女にとって私は何よりも恐ろしい天敵だ。
だとしたら、その目に浮かぶのはどんな色なのだろう。
あの綺麗なエメラルドグリーンに、私はどんな風に映るのだろう。
ふ、と。
彼女の双眸が柔らかな笑みに細くなる。
彼女は、くしゃりと笑った。
悪意なんて知らないというような顔で。
無邪気に、見られていることに気づいて、視線の先にいた私に対して、懐こく、少しはにかみを含んだ様子で笑って見せた。
彼女は、何も知らない。
もしかしたら起こりえたあの悪夢のような未来を、彼女は知らない。
が。
彼女の隣で顔面蒼白になって何かもうそういう生き物なのかな? と思わざるを得ない勢いでガタガタ震え始めた方はこれ、知ってるやつだ。
「少し、お話があるのだけれども――お時間をいただけるかしら?」
「ひゃい」
―――すでに涙目だった。
というわけで、場所を変えてサロンにて。
人払いをしてもらったおかげで、周囲に他の人間の気配はない。
私の目の前には、今にも卒倒しそうな顔色でカタカタ震えている小柄な少女が一人。
彼女もまた、■■■の知る人物だ。
『夕闇の淵で乙女は祈る』における、ヒロインの親友。
確か実家が商会を営んでいる関係で、さまざまな噂話やら情報に敏い、いわゆるサポートキャラだ。
攻略対象の好感度の具合を教えてくれたり、攻略のヒントをくれたりする。
肩のあたりで黒髪を切り揃えた、どことなく小動物を彷彿とする可愛らしい少女だ。
そんな彼女が、目の前で怯え、竦み、震えている姿など、あんまりにも可哀そうで庇護欲をそそる。
「紅茶でも如何かしら。ここの紅茶、なかなか美味しいの」
「ひえ」
かぼそい断末魔めいた声と同時に、彼女の顔色がますます悪くなった。
……って。
そういえば『夕闇の淵で乙女は祈る』のルートの幾つかでは、カーネリア・ディズ・エネッタは彼女をヒロインに味方する邪魔者として始末しているのだった。
確かその中には毒殺もあったような。
「…………」
「…………」
今更毒なんて入ってないから安心して頂戴、なんて言っても信じてもらえないだろうし、ますます怖がらせてしまうだけのような気がする。
困った。
でもまあ。
逆にいうと、これだけ怯えているということは彼女は私を知っている。
悪逆非道をなし、彼女と彼女の親友をとことんまでに追い詰めるカーネリア・ディズ・エネッタを。
「あのね、私、最近好きな物語があって」
「…………」
「一緒にお話出来る相手を探していて」
「…………」
「あなたなら、お話できるかしら、と思ったの」
「…………」
そろり、と彼女の視線が持ち上がる。
涙で潤んだ濃い青の双眸には、怯えの色に少し疑念が混じり始めている。
この人は一体何の話をしているのだろう、という顔だ。
「『夕闇の淵で乙女は祈る』という作品なのだけども」
「!?」
ぽかん、と彼女の目が丸くなる。
ほんのりと色づいた桜色の唇が、息をのんだ形のまま固まっている。
信じられない、といったように瞠られていた青の双眸をぱち、ぱち、とゆっくり瞬かせ……、一度の脱力。
ふにゃり、と全身から力が抜けかけ、そこからまた背筋がしゃんと伸びる。
私に向けられる青の双眸には、これがまだ何かの罠ではないかというような警戒の色が残っている。
私が、どういう人間なのかをまだ判断しかねているのだろう。
例えばもしも。
私が彼女の知るカーネリア・ディズ・エネッタのままの人柄で、『夕闇の淵で乙女は祈る』の知識を手に入れてしまったならば、ある意味鬼に金棒だ。
カーネリア・ディズ・エネッタは嬉々として知りえた情報を使って彼女の目論見を達成すべく暗躍することだろう。
そして、そんなカーネリア・ディズ・エネッタであるのなら。
間違いなく、他に同じような情報を持つ人間がいたのなら決して生かしてはおかない。
彼女もそれに気づいたからこそ、同じ記憶を持つ人間だからといって油断するわけにはいかないと警戒を新たにしたのだ。
少し、早まってしまった。
私が『夕闇の淵で乙女は祈る』の記憶を持っていることは証明できても、その記憶を悪用するつもりがない、ということをわかってもらうのは難しい。
彼女の反応からして、間違いなくカーネリア・ディズ・エネッタのことを知っているに違いないと思って咄嗟に声をかけてしまったが……関わらないようにしておいた方が正解だったのかもしれない。
「―――ごめんなさいね」
「……ぇ?」
「急にこんな風に声をかけて、怖がらせてしまったでしょう?」
「…………」
「貴方となら、共通の話題についてお話できるかもしれないと思って、つい声をかけてしまったの。それ以外の意図は何もないわ。貴方がこの場を去りたいと思うなら、そうして頂戴。今後貴方に不必要な接触はしないと約束するわ」
信じてもらえるかはわからない。
だが、そう言うしかない。
「…………」
「…………」
しばしの沈黙が続く。
次に口を開いたのは、彼女だった。
「カーネリア様の……」
はい。
「推しは誰ですか」
どこからどう見ても両家の子女といった風情の彼女の口から、「推し」なんて言葉が出てくるのはなかなかのパワーワードだった。
「攻略できない攻略対象よ」
現ヴィオレット・ストゥ・オットーである。
「わかります彼いいですよねあの儚げな感じとか守ってあげたくなるというか母性本能をくすぐるというか最後まで攻略できなかったですけどでもあれはあれで美しい形だったのかなとも思いますし出来れば彼が女の子だったら私の中の最推しでした」
圧倒的早口だった。
「…………」
「…………」
二人、見つめあう。
それから、ふ、と小さく噴き出すのは同時だった。
くつくつ、と喉を鳴らして二人で笑いあう。
「本当に、記憶があるんですね」
「ええ。貴方も、でしょう?」
「はー……、ええ、はい、そうなんです。いやあ、カーネリア様に声をかけられたときにはもうしんだ、と思いました……」
「でしょうね」
私が彼女でもそう思ったと思う。
それぐらい『夕闇の淵で乙女は祈る』におけるカーネリア・ディズ・エネッタは恐ろしい存在なのだ。
ヒロイン絶対殺すウーマンだったし。
そのためならいくらでも巻き添えを出したし、その巻き添えの多くには彼女が含まれていた。
「カーネリア様はいつ記憶が?」
「八つの時よ。ヴィオレット――…、攻略できない攻略対象に出会った瞬間、思い出したの。貴方は?」
「私は、つい先日です。あの子に出会った瞬間、まるで今まで閉じ込められていた記憶がフラッシュバックするかのように蘇って……」
「つい先日?」
「ええ」
どうやら、記憶が手に入る瞬間、というのは人によって違うものらしい。
――あ。
「もしかして……、あなたの推しって」
「カーネリア様の口から推しって単語出てくるのなかなかに破壊力がありますね」
「わかる」
思わずぽろっと口調が崩れ去った。
こほん、と小さく咳払い。
「あなたの推しって、ヒロインなの?」
「はい!」
元気の良い返事が返ってきた。
「女の子が恋愛対象として好きってわけじゃないんです。ただ、可愛くて素敵な女の子が素敵な恋愛をして素敵な男性と結ばれるのを見守っているのが性癖というか……」
「あー……」
わかる。
乙女ゲーには確かにそんな楽しみ方をする層がいた。
ヒロインに自分を重ねて攻略対象との恋愛にときめくのではなく。
ヒロインの守護者目線、というか。
全ルートを攻略しながら「誰が一番ヒロインちゃんに相応しいか」を吟味することを楽しむタイプのプレイヤーだ。
良かった。
そのタイプなら分かり合える。
これで同担拒否だとか、CP固定主義だったら分かり合えない可能性があった。
「その気持ち、わかる気がするわ」
「そうなんですか?」
「私もヴィオレットを推しているけれど――…ヴィオレットを自分だけのものにしたい、とは思わないもの。彼が幸せであればそれでいい、というか」
彼が私から離れて、誰か別の女性と結ばれたとしても。
彼が幸せそうに笑って、幸せな家庭を築いて、満たされた人生を送ってくれているのならそれで十分だ。
少し欲を出すのなら、完全な他人になるのではなく、その近況をさりげなく聞いたり見たりできる程度の距離感であればなお良い。
「推しの幸せを近くで見ていたい……」
「わかる」
彼女の敬語がログアウトした。
だが責められない。
先に私も同じことをやった。
私は、そっと彼女に向って手を差し出す。
彼女が、そっと私の手を握り返す。
熱い友情が爆誕した瞬間だった。
カーネリア・ディズ・エネッタという女性は、ヴィオレットにとっては掛け替えのない女神のような存在だ。
幼い頃、地獄のような場所からヴィオレットの手を引いて逃げ出してくれた。
誰も自分の名前を呼んでくれない狂った世界からヴィオレットを連れ出して、新しい名前をくれた。
青みがかった銀の髪に、神秘的な紫の瞳を持つヴィオレットの女神さま。
オットー男爵家に引き取られた後も、ヴィオレットは彼女を想い続けた。
彼女に会いに行けるようになってからは、定期的に訪ねるようにした。
そこで、彼女のおかれている環境を知った。
彼女の周囲には優しくないもので溢れていた。
驚くほどに無関心な両親と、それとは対照的に口さがなく彼女のことを伯爵にキズモノにされた侯爵令嬢だと噂する人々。
何度も、彼女はヴィオレットを助けてくれただけだと叫びかけた。
彼女は伯爵に触れられてすらいない。
彼女は、ヴィオレットを連れて逃げ出してくれたのだ。
本当に好奇の噂の的になるべきはヴィオレットの方だ。
けれど、世の中の好奇の眼差しはいつだってカーネリアの方に注がれた。
彼らは何故か伯爵の元から助けだされた元庶民の子であるヴィオレットに対してはとても同情的だったのだ。
違う、とヴィオレットが癇癪を起しそうになる度に、カーネリアは少しだけ困ったように眉尻を下げて、それでも優しそうに微笑んだ。
『いいのよ、ヴィオレット。いいの。貴方が幸せなら』
実際、彼女はあまりそういった社交界の噂話を気にしている様子はなかった。
長く、けぶるような銀の睫毛に縁どられた神秘的な紫の双眸にいつもどこか夢見るような甘い色を滲ませて、彼女は独りでも楚々と佇んでいた。
いつも、彼女が気に掛けるのはヴィオレットのことだ。
ヴィオレットがどうしているのか。
ヴィオレットが元気にしているのか、幸せにしているのか。
彼女はいつも細やかに気遣ってくれた。
だから、思ったのだ。
彼女を幸せにしたい、と。
ヴィオレットを養子にしてくれたのは男爵家。
将来的にヴィオレットはオットー男爵家の家督を継ぐことになる。
カーネリアの家は、侯爵家だ。
家柄としては釣り合いは取れていない。
だが、不幸中の幸い――というのはあまりにも身勝手だという自覚はある――なことに、カーネリアの両親は彼女に対して驚くほどに無関心を貫いている。
このまま誰も、カーネリアの魅力に気付かなければ。
このまま誰も、カーネリアがいかに優しく、気高く、美しい女性であるのかに気づかなければ。
ヴィオレットは、ヴィオレットの女神さまを手に入れることが出来るかもしれない。
「今度は俺が」
助けてみせる。
それは、ヴィオレット・ストゥ・オットーの心からの決意だ。
―――だが、ヴィオレットは知らない。
彼の女神さまたるカーネリアが今日も一人、自室で熱っぽく息を吐きだしながら、
「今日も推しが尊い……」
なぞと呟いていることなんて。
悪役令嬢は今日も推しの幸せを祈り続けている。
お読みいただきありがとうございました……!!