旅の道連れ
水の国への入り口は、美しい鍾乳洞だった。空気はひんやりと澄み切って、水の流れるザアアアッという音が厳かに響き渡っている。
折り重なった縦襞状の、白いなめらかな岩肌は、柔らかく青い光を放っており、その光が反射し合って、空間全体でゆらゆらと揺れている。よく見ると、岩肌の表面は水で覆われているのだが、その水がなんと下から上へと向かって流れている。最後には天井の岩へと吸い込まれていく、この水が大滝の源泉だった。
カイが、思わず口笛を吹いた。
「……さすがにただの洞窟じゃなかったか」
「ですね!」
ハルも感歎の声をあげた。
三人が立っているのは、白銀に塗られた美しい桟橋で、それが、螺旋状に底へ向かう真っ白な階段に続いている。
カイはゆっくりと空間を見回してから、「歩きだな」と言った。飛ぶには、空間が狭すぎた。
「そうですね」
二人は桟橋の欄干から少し身を乗り出して、下を見た。底が見えない。ただ白い階段が岩壁に沿って延々と下へと続いている。
「長く歩くことになりそうだ」
「ですね」
ハルは頷き、隣でポカンと辺りを見回す背の高い宮廷役者を見た。
「名はなんと言います?」
「……ヒノヒコよ」
「では、ヒノヒコ、すいませんが、こういうことです。今から水の国に行くので、大人しく付いてきて下さい」
しばらく、ポカンとしていた宮廷役者だったが、徐々に状況を理解したようで、じっと階段を見下ろしてから、口を開いた。
「……ねえ、宮様方、この階段、下るのにどのくらいかかるのかしら?」
ハルは少し考え込んで、「そうですね、底につくまで、十時間から十二時間といったところか、もしかすると、もう少しかかるかもしれません」と答えた。
「じゅ、十二時間ですって?」
宮廷役者……ヒノヒコは、慄いてハルを見た。それから、掴みかからんばかりの勢いで、「今すぐにアタシを逃がしてくれなきゃダメ! そんなに長い時間この硬い階段を下り続けるなんて無理! 明らかに不可能よ!」と食ってかかった。
ハルが穏やかに微笑んで、「どうして」と返す。
「二つほど正統な理由があるわ! まず、これをご覧になって!」
ヒノヒコは、右足を突き出して、金糸の鼻緒に派手な装飾のついた朱塗りの高下駄を見せた。
「これじゃ、どう考えたって階段なんか歩けっこないじゃないの!」
「……確かに、ちょっと無理そうかな」
ハルは、困ったように笑った。
「それから二番目の理由は、イエ、二番目っていってもね、こっちの理由の方がずうっと大切なんでございますけどね、アタシの足は……あら、それ、何かしら?」
ヒノヒコは興味深そうに、ハルが竹篭の中から取り出した、しっかりとした白木綿の組紐で編まれた奇麗な鞋と、白足袋に目を止めた。
「旅用の履物ですよ。裏に革がはってあるので、軽くて丈夫です。どうぞ」
「あらあ、この足袋、素敵ねえ! さすが、宮様の持つものは違うわ!」
ヒノヒコはすぐさま楽しげになって、早速足袋に足を押し込んだ。鞋をいそいそとつっかけて緒を結わえると、立ち上がって辺りを飛びまわる。
「まあ、なんて柔らかい履き心地!」
「色も形も似合うみたいですよ」
「あら、そう?」
「ええ、本当に」
「仕方がないわ、アタシは役者ですものね! どんな衣装でも似合わせられないはずがない。でも、お褒めに預かり光栄よ、正直な宮様! さ、愛らしい宮様坊ちゃまたち、用意万端。水の国へ、いざ行かん!」
ヒノヒコは、輝かんばかりの笑顔を見せ、早速、足取りも軽く階段へと向かった。その後ろ姿を見送りつつ、ハルは苦笑しながらカイに言った。
「なんとなく、あしらい方のコツは分かった気がします」
黙って二人のやり取りを見ていたカイは、無言で頷き、地面に投げ捨てられた派手な高下駄を拾い上げた。
「……実用品か?」
「まあ、一応は」
ハルは苦笑しながら言った。
「厄介者を拾った」
「そのうち慣れますから」
それから、陽気な孔雀族の役者を追って、二人も階段を下り始めた。
五、六時間も経った頃、ヒノヒコは少年達から大分離れた後ろを、のろのろと歩いていた。時々立ちどまっては注意深く脹脛の辺りを摩ったりしている。
ついには、完全に立ちどまって泣き叫んだ。
「アタシの足が!」
カイとハルは歩く足を止めて振り返った。
ヒノヒコは階段に座り込み、再び惨めな声を上げた。
「アタシ、の、足が!」
カイが、不機嫌そうにチッと舌を鳴らし、ハルは「足がどうしました」と尋ねた。
「どうしたって、見れば分かるはずよ!」
そう答えて、ヒノヒコは脹脛を丁寧に揉み始めた。
「ああ、なるほど。ちょっと待って。良く効く軟膏がありますから」ハルは納得顔でそう言いながら、懐から小さな木箱を取り出した。それから、ヒノヒコの方に戻り「どうぞ。塗れば痛みは直に治まります」と言って木箱を差し出した。
「あら、やっぱりお優しいのねえ、宮様は。でもねえ、痛みがどうこうという問題じゃないのよ」
「じゃ、どうしたんです?」
「崩れの問題よ! こんなふうにずっと階段を下り続けていたら、アタシの足の形が、崩れっちまうわ!」ヒノヒコは、ぶるっと身を震わせた。「おお、嫌だ! 考えたくもない!」
「……はあ、足の、形の崩れ、ですか?」
ハルは目をぱちくりとさせた。
「なるほどね、分かりました。……いや、分かったかなあ?」
カイが、下方からイライラと叫んだ。
「どうしたってんだ?」
「体型の崩れよ、東宮坊ちゃま! く、ず、れ! 耐えられやしないわ!」ヒノヒコは叫び返し、尚も丁寧に足の筋肉を揉み解している。すぐに、何事かに気付いて悲鳴を上げた。「イヤだ! ここの筋が、妙に張っちまってるわ! アタシのこの美しい左足の均衡には致命的だわ!」
「誰がお前の左足なんぞを気にするんだ?」
カイが階段を上ってきながら悪態を吐いた。
「誰って、翼族の人々全てだわ!」ヒノヒコは足の筋を確かめる手を休めずに真剣に答える。「この類稀なる美貌を保つのが、アタシのささやかな義務ですもの。ああ、ここも!」その顔は引きつり、恐怖に満ちている。「やっぱりこんな旅、最初っから無理だったのよ! こんな鞋なんかで騙されて、なんて馬鹿だったの!」
「……もしかして、それが階段を下りたがらなかった理由ですか?」と訝しげにハルが問う。
「その通りよ! アタシの美を守る、これ以上重要で正統な理由があって?」
ポカンとするハルを尻目に、ヒノヒコはしくしくと泣き出した。
「こうなるって事は、分かってたのよ、分かっていたんだわ! でも、もう遅い、手遅れ! アタシは、この腹立たしい梯子とか階段のやつの為に、輝かしい美を犠牲にしちまったの!」ヒノヒコは、憎々しげに白い階段を睨みつけた。「しかも、空間がどんどん広がってるから、階段のやつめ、どんどん長く……」
「うるさい! メソメソ文句を言うな!」カイがイライラと遮った。「まったく、女の腐ったような奴だな!」
ヒノヒコは目を見開いた。
「なんと仰って? 女の腐ったの? 女の腐ったの? そう仰って?」
「ああ。それがどうした。」
「なんて! 失礼な! ことを! アタシは尊厳ある紳士なのよ! ただ気風が自由奔放なのよ! そんなこともお分かりにならないの!」
「……何か仰いましたか、奥様?」
カイは慇懃に返した。
「お、奥様ですって? し、失礼な、失礼な!」
「これ以上ないほどぴったりだ。名前もヒノヒコじゃもったいないだろう。ピッコあたりで十分だ」
ヒノヒコは怒りで真紫になった。
「……この無礼千万なガキが次の皇帝だなんて、アタシの次の主君だなんて信じられやしない!」
「俺が即位したら直ぐに国から叩き出してやる。そうすれば俺の臣下にならなくて済むだろ」
ヒノヒコは怒りにブルブルと震えながら、金切り声を上げた。
「この、この、横柄な、野蛮な、クソ皇子! とっとと地獄に落ちっちまうがいいわ!」
「うるさいやつだ」と呟いてから、カイは言い返そうと口を開いた。
が、その時、
「ちょっと休みましょうか? 食事にしましょう」
と、ハルが穏やかな声で遮った。
数分後、ヒノヒコは階段に腰を下ろし、ニコニコしながら、ハルが用意した握り飯と干し肉を食べていた。
「やっぱり、賢者の一族は違うわ。そんなにお若いのにもう素晴らしい人格者でいらっしゃるんですもの。継承君だったら、何百人いらしてもアタシは喜んで臣下になるというものよ。まあ、質素なお食事ですけどね。それに、お酒なんかあったりするともっと素敵なんですけれどね。でも、こうやってお食事を用意していただけただけで結構だわ。贅沢なんぞ言うものじゃないわ」
カイもハルもまったく聞いていなかったが、ヒノヒコは気にする様子もなく、楽しげに一人できゃらきゃら笑い続けている。二人は陽気な宮廷役者を、一人喋るがまま放っておいた。
「……さっきヒノヒコが言っていたことは正しいですよ、皇子」
干し肉を齧りながらハル。
「ずいぶん空間が広くなりましたね。形も複雑になってきましたし……賢者の塔から、地下に入ったんでしょう」
それまで、ほぼまっすぐな縦穴だった空間には、ずいぶん複雑な凸凹が増えた。階段も所々張りだす岩を避けるように作られているから、より複雑になってきている。
「これだと、底まで、予想以上に時間がかかりそうですね」
「どのくらい来た?」
「まあ、半分くらいでしょうか」
ハルは、欄干から、ちらと下を見た。
「ちょっと見えにくいですが、ずっと下に小さく光るものがあるでしょう? 多分あれが、底です」
カイは、フーン、と鼻を鳴らして考え込んだ。が、直ぐに握り飯の最後の一欠片を口に放り込むと、立ち上がって、「行くぞ」と言った。ハルは頷いて、食物の入った竹篭を片付け始めた。
ヒノヒコは、「まだ休み足りないわ」と文句を言ったが、カイに尻を蹴られて渋々立ち上がった。すると、それを待っていたように、カイが、ハルの二つの竹篭と自分の旅行袋を、ぽいとヒノヒコに投げて渡した。
「あら、なあに?」
「お前が運べ」
「……なんですって?」
答えず、そのままクルリとハルの方を向いたカイは、「掴まってろ!」と叫んでひょいとハルを抱きかかえると、欄干から飛び下りた。ハルは短く驚きの声を上げ、慌ててカイの肩に掴まった。カイの白翼の翼が空中で広がり、所々出っ張った岩肌を蹴って上手く方向を変えながら、岸壁にぶつからないように器用に降下していく。
ヒノヒコは、しばらく白鷲翼を眺めていたが、少ししてから、「……飛ぶのがお上手ねえ。それに、不世出の大暴君になる素質も十分でいらっしゃるわ」とぶつぶつ呟いた。
空間は、下に向かうほど、神秘的な空気を増してきた。
鍾乳洞の底は銀の水を湛えた棚田のような形をしていた。水は地底から湧き出ては棚田を昇るように上へ上へと流れ、岩壁から岩肌を伝ってさらに上へと流れていく。空気は冷たく澄み、水音はより厳かに辺りに響きわたっていた。底には桟橋が架かっている。階段はそこに繋がっていた。
カイは、桟橋に着地すると、ハルを降ろした。
「……さすがにあっという間でしたね」
「ああ」
「でも、飛び下りる前にそうと言って下さい!」
カイは肩をすくめた。「言ったら反対したろ」
「もちろんしましたね。危険ですから」ハルはさらりと言ってから、にっこりと笑った。「ま、いいです。終わりよければ全て良し。今更文句は言いません」
カイはもう一度肩をすくめた。「で、ここからどうするんだ?」
「地底湖があるはずですが……多分これじゃないです」ハルは棚田のような銀色の池々を眺めて言った。「とりあえず、このまま桟橋を行きましょう」
「わかった」
しかし、揃って歩き出したところで、ハルが急に足を止めた。
「どうした?」
ハルはカイを見て言った。「僕たち、ヒノヒコのことを忘れてます」
「……ああ、ピコか」と、カイは苦虫を噛み潰したように呟いた。「思い出したくなかったな」
「でも、荷物が」
「そうだった」とカイは舌打ちをした。それから上を見上げて吐き捨てた。「なんで降りてこないんだ?」
「さあ。もしかして、途中で休んでいるのかもしれません」
「休んでるだと?」
カイは眉を吊り上げて、翼を広げ羽撃かせると、直ぐ戻る、と叫んで上空へと舞い上がった。ハルは心配そうにカイの姿を見送った。
やがて、上空から小さな悲鳴が聞こえ、直ぐに仏頂面のカイが、泣き面の宮廷役者を引っ張るようにして戻ってきた。
「ねえ、ちょっと聞いて頂戴、お優しい継承君!」
桟橋に下り立つや否や、膝から崩れ落ちるようにして座り込み、ヒノヒコはハルに訴えた。
「アタシはね、ちょっとお昼寝をしていただけなのよ! なのに、このクソ皇子ときたら、アタシの首に切っ先を突きつけやがったの! 真剣よ! 切っ先よ! 悪寒がして目を覚ましたら、この繊細な首が切られる寸前! 恐ろしかったったらないわ!」ヒノヒコはぶるっと震えた。「鬼の仕業よ、あれは! まっとうな翼族のすることじゃないわ!」
怒り狂ったカイが、薄茶色の目をぎらぎらさせて、ヒノヒコの首に切っ先を突きつけている様を想像するのは難しい事では無い。半分本気だったな、皇子、と思いながら、ハルは「まあまあ、本気じゃないんですから」と宥めたが、ヒノヒコは躍起になって返してきた。
「いいえ、あれは絶対に本気よ! 本気でアタシを殺そうとしてたのよ!」
「どうして分かった? 殺気は消したのに」
カイが、旅行袋を腰に巻きつけつつ、冷たく言い放った。
「んまあ! ねえ、お聞きになったでしょ、継承君?」
ヒノヒコは立ち上がって、カイに食ってかかった。
「分からないもんですか! この、横柄な、野蛮な、信じられないクソ皇子! 殺されかかっている時に殺意が感じとれないバカがいるとでも思ってらっしゃるの? 大体ね、どうすれば、アタシのような無垢な生き物の、純粋な眠りを妨げようなんて気が起こるの!」
「むしろ、お前のような無垢な生き物には、どうすればこの状況で純粋な眠りを貪ろうなんて気が起こるんだ?」
カイは嫌味たっぷりにそう返したが、ヒノヒコは自信満々に叫んだ。
「もちろん、お肌の為に必要だからよ! アタシは何時だって午後にお昼寝をするの! 良い睡眠が良いお肌を作る。誰もが知ってることじゃない! アタシは実践を忘れたことがないわ!」
ヒノヒコは誇らしげに鼻を鳴らした。それから、急に何か大切なことを思い出したように、慌てて懐を探り出した。取り出されたのは、小さな手鏡だ。ヒノヒコは居ずまいを正して座りなおすと、さらに大量の小瓶を懐から取り出して、目の前に並べ始めた。それから熱心に鏡に見入って、小瓶の中の何がしかを顔に塗ったくり始めた。
カイは、無表情にヒノヒコを眺めていたが、そのうち深い溜息を吐いて、床に落ちたハルの竹篭を無造作に拾い上げた。二つのうちの一つを、ハルに投げる。
「おい、行くぞ!」
ハルも呆気にとられてヒノヒコを見ていたが、竹篭を受け取ると気を取り直したように、ええ、と頷き、カイと共に歩き出した。
カイが一度立ちどまって、「おい、何でもいいが、用が済んだら追って来いよ」とぶっきらぼうに言うと、ヒノヒコは忙しそうに顔を叩きながら、「分かったわ!」と答えた。