出発
夏至の日がきた。皇覧大会の決勝が行われ、カイとハルの夏の休暇も最終日となる。
いつもよりも早くに神殿にやってきたカイは、まっすぐに神殿の書庫へと向かった。梟卿の書庫に、もう見るところはなかった。
ハルに翼を与える術など、そう簡単にあるはずがない。分かってはいたが、カイの心はもやもやとしたままだ。このまま、何となくこの休暇を終わらせたくなかった。きっと「何か」があるはずだ。それが何なのは分からないまま、とにかくカイはその「何か」を探し続けている。今日中に、神殿の書庫で、その「何か」を見つけ出さなければならない。
神殿はやけに静かだった。神官たちは、昼前に行われる皇覧大会決勝の準備のために出払っている。
書庫にたどり着き扉を開けると、いつもの香の匂いが鼻をついた。
その瞬間だ。カイは奇妙な眩暈に襲われた。驚いて立ち止まり思わず目を閉じる。と、突然、頭の中に鮮やかな映像が浮かんできた。
ハルが、下を向き、真っ青な顔をして神殿内を歩いている。冬至祭の時の衰えた姿だ。フラフラと何処かを目指して歩いていたハルが、不意にカイの方を見た。ぎらぎらとした目がカイを見据える。その表情があまりにいつものハルとは違う。
ハルが手に握り締めていたものを、ぐっとカイのほうに突き出した。薄い紅色の石盤だ。間を置かずに、掠れた声が聞こえてきた。
『……失われた翼は今も翼の墓場に眠る……』
再び強い眩暈がカイを襲い、すぐに去った。次の瞬間、カイは、弾かれたように走り出していた。
カイは、書庫の奥の小部屋にある神庫の前にたどり着くと、急ぎ扉を開けた。中には黒い小箱がいくつも納められている。その一つの上に、薄紅色の石盤が置かれていた。
カイは迷うことなくその石盤を手に取った。手のひらよりも少し大きいくらいの、その薄い石の板は、以前手に取った時よりもずっと冷たく、重く感じられた。
石盤の表には、廃墟の景色のような模様が浮かび上がっている。カイは石盤を裏返した。そこには、文字が刻まれていた。
失われた翼は今も
翼の墓場に眠る
西門より真西へ五日
砂の中に現れる
枯れた廃墟
無翼の人々の都なり
すぐに石盤を握りなおし、神庫の扉を急いで閉じると、カイは神殿の長い廊下へと飛び出した。
* * *
ハルは壁際に置かれた大きな勉強机の前に座って、分厚い本を読んでいたが、勢いよく扉が開かれると、驚いたように顔をあげた。
「あれ、皇子? 今朝は随分早いですね」
「ハル! 行くぞ!」
「行くって……どこへです?」
「翼の墓場だ!」
「はあ?」
カイは、持っていた薄紅色の石盤を突き出した。ハルは、怪訝そうにそれを受け取った。
「なんですか、これ」
「智賢卿が、昔、砂漠には、賢者族に似た人々の国があったと言っていたな?」
「言っていましたね。西方の地理の時間でしたっけ」
「そいつらは、高度な技術を持っていた。そうだな?」
「ええ、確かにそう習いました」
「それから、大昔の冒険家の七不思議のことを覚えているか、砂漠の奇妙な民のことだ」
「ええ、ロイ卿の旅行記にある、蝙蝠羽の民のことですね」
「立派な都が突然滅びて、その廃墟の近くに、切りとられた翼だけが山積みになって残っていた」
「……ええ」
「翼の墓場だ」
「……なんとなく、言いたいことの意味が分かってきましたよ」
「砂漠の中の二つの国。賢者族に似た人々の国と、蝙蝠羽の翼族の都。同じ国だな」
ハルは、無言のままカイを見た。カイは続けた。
「翼の墓場に眠っているのは、無翼の民が作り出した翼だ」
「……でも、皇子、もしその仮説が正しいとしても、翼の墓場はもう残っていませんよ」
「何でだ!」
「事が古すぎます。ロイ卿の旅記自体がニ千年近く前に書かれたと言われるんですから」
「でも、この石盤はそんなに古くは見えない!」
ハルは薄紅色の石盤を眺め頷いた。
「鉱物の古さは見た目ではわかりにくいですが……確かに古代のもの、という印象ではないですね。でも僕は内容よりも、この石盤がどこから来たのかに興味があります。今まで一度も見たことが無いし、話にも聞いたことが無い」
「賢者族の誰かが持ち込んだに決まっている」
「……まあ、そうですね」
「もう誰かが翼の墓場を見つけたと思うか?」
「そんな話は聞いたことがないです」と、ハルはきっぱりと言い切った。「もし本当に一族の誰かが、この石盤を神殿に持ち込んだのだとしても、多分研究か情報収集が目的です。蔵書倉の古地図なんかもそうですよ。単に史料という扱いです」
「なら、俺たちが翼の墓場の第一発見者だ」
「……まさか本気で行くつもりですか?」
「当たり前だ」
「無理です! 大体、どの西門のことなのかすら書かれていません! 西方の砂漠はとにかく広いんです。どこから探し始めればいいかも分らないんですから!」
「だから真水族を最初に訪ねる」
ハルは一瞬言葉を失う。「……真水族ですか。なるほどね。でも、」
「ともかく俺は行く。今朝は神殿に人気がない。間違いなく誰にも気付かれずに抜け出せる。ハルも来い」
ハルは開いた口が塞がらなかった。
* * *
賢者の塔と呼ばれる塔型台地の頂には、円柱型の巨大な一枚岩が一つ、地面から突き出る形で立っている。その岩の天辺からは、絶えることなく清水が湧き出している。神殿は、これを囲むように建てられ、そこは、翼族の国で最も神聖な場所とされている。現在、一般に神殿の大滝と呼ばれているが、正式の名を契約の滝岩と言い、遠い昔に真水族から賢者族に贈られたものだ。
その岩が、地下の真水族の国へと繋がっていることは、皇家鷲族の直系と、賢者の一族にしか知られていない。
* * *
カイが旅行道具をしっかり腰に巻きつけて、城から神殿のハルの部屋に戻った時、まだハルは竹で編まれた籠に、衣服や薬草類を詰めているところだった。
勉強机の上には、すでに風呂敷できちんと包まれた籠が一つおいてある。ハルは食料だと言った。
「梟卿に手紙は残してきましたか?」
「ああ」
「何て書きました?」
「『成人を機に、ハルを連れて外の世界を見てくることにした。一、二ヶ月で戻るから、心配するな。留守の間、うまく誤魔化しておいてくれ』」
「乱暴ですが、まあ、妥当な線です」
すぐに、ハルも準備を終えて、竹篭に蓋をした。大風呂敷でそれを包むと、斜めに背負って、胸の前でしっかりと風呂敷の端を結んだ。カイを見て、ニコっと笑うと、「じゃあ、行きましょう」と言った。
神殿内は予想に反せず無人だった。昼前には、皇覧大会の決勝が始まる。昨年と同じ、鷹卿とコンドル卿の対戦だ。その一戦を目前に控え、神殿に来る物好きな翼族などいるはずがなかった。
「ファラドは置いていきます。大滝の入り口はそんなに広くないですし。旅の間、僕は歩くことになるけど」
「いざとなったら運んでやる」
「もし草原に出ることになったら、何か乗るものを探さないと」
「草原に、役に立ちそうな動物の一頭や二頭はいる。捕まえて調教すればいい。そんなに大変なことじゃない」
「そうですね……」と、言いかけて、ハルが突然立ちどまった。
「どうした?」
ハルは唇に指を当ててカイを制し、耳を欹てた。微かに足音がした。
ハルは「こっちです」と短く叫ぶと、後方の壁に掛けてある大きな絵画の前まで戻った。ハルが額の下に手を滑らせると、カチッという小さな音がして、絵画が引き戸のように開いた。その奥に、小さな隠し部屋があった。
「入って下さい、早く!」
カイは部屋に飛び込んだ。ハルも続いて飛び込んで、同時に素早く絵画を閉じた。真っ暗になった小部屋に、絵画の真ん中にある小さな穴から、線のような細い光が差し込んだ。
「こういう隠れ場所は、ありがたいことに、神殿のいたるところにあるんです。ここから、外が見えますよ」と、ハルは光穴を指さして言った。
カイはその穴から外を見た。少しして、背の高い男が二人、目の前を通り過ぎていった。顔は見えなかったが、どうやら鷹翼とコンドル翼の男だった。そう告げると、ハルは納得調子で答えた。
「なら、鷹卿とコンドル卿の家人です。試合前に使う清めの水を、大滝から取ってきたんじゃないかな。大滝で鉢合わせなくてよかったですね!」
まったく誰にも見られずに国を抜けださなければ、すぐに後を追われて連れ戻されてしまう。それでは意味がないのだ。
大滝のある中央庭園は静かだった。ザアアア、という水の落ちる音以外は何も聞こえてこない。人影もまったくない。カイとハルが誰にも気づかれずに国を抜けだすのに、これ程恰好の場所はなかった。
しかも、真水族は博識で予知能力がある民だ。たった一枚の石盤と曖昧な知識だけで探索の旅に出かける二人が最初に訪ねるのに、これ以上適した人々もいなかった。もしも水の国で目ぼしい情報が得られなければ、諦めて国に戻ってくる。ハルが、カイの強引な計画に最終的に同意した時、出した条件だった。
庭園の中ほどに、白木で出来た宝物殿が立っている。華麗な飾り彫りの扉がついた高床式の宝物殿には、翼族の宝である神剣が納められている。その建物の奥に大滝がある。
二人は、さっと宝物殿の脇を抜けて、大滝の前に立った。
大滝と呼ばれる円柱岩の周りは、澄み切った池になっていた。ザアアアという音が聞こえてくるが、ほとんど水飛沫が立っておらず、ただ透明な水が灰銀色の岸壁を嘗めるように流れ落ちて、池の中に吸い込まれていく。
池には、岸辺から滝に向かって木の桟橋がかけてあり、そこに立てば、滝の水が直に汲めるようになっている。
流れ落ちる水の奥にすぐ岩肌が見えるが、実はこれは幻影で、桟橋から一歩踏み出せば、水の国へ続く洞窟に入ることが出来るようになっている。
二人は、桟橋へと歩いていって、その先端に立った。目の前には水の流れる岩肌がある。
「どうすればいいんだ、ハル?」
「どうって、ただ飛び込めばいいんです」
「そうか。よし、行くぞ!」
が、二人が岩壁に踏み込もうとした時、後ろから奇妙な甲高い声がした。
「……あらあ、そこで何してるの?」
カイとハルは飛び上がって振り返った。
と、珍しい青髪の痩せぎすの男が、宝物殿の外廊下に座ってこちらを見ている。
男は、華やかな、鳥で言うところの上尾筒にあたる飾り羽のついた孔雀翼と、その翼に負けないくらい派手やかな着物を着ている。どうやらそれまで欄干の陰に寝そべっていたらしいが、物音ひとつ立てず気配もなく、前を通り過ぎた時には、二人はまったく男に気づかなかった。
男はなおざりに言葉を続けた。
「ほら、あの野蛮な、なんていったかしら? そう、皇覧大会! あれはどうなったのよ。あんた達、あれを狂喜して見てなきゃならない時間じゃないの?」
孔雀翼の男は、かったるそうに欠伸を一つして、「それにしてもうっかりね。眠っちまうつもりなんてなかったのよ」と続けた。
それから一度大きく背伸びをして、派手な衣装を熱心に手で掃い始めた。
カイは憮然としてハルの耳元で囁いた。「……おい、なんでこの男はこんな時間にこんな所にいるんだ?」
「知りません! でも誰かは知っています」
「誰だ?」
「宮廷役者の一人ですよ」
「宮廷役者だと?」
カイは男を振り返り、おぼろげながら、あんな姿形の青髪の男が、宮廷儀式などで踊っていたのを思いだした。再びハルの耳元で囁く。
「その役者が、こんな時間にこんな所で何をしているんだ?」
「だから、知りません!」
「……アタシねえ、」という声がして、二人は男に目を戻した。
男は慎重に自らの飾り羽の様子を確かめながら、二人を見もせずに喋り続けた。
「今朝はチット早くに起きたのよねえ。でも朝型の体質じゃないの。だから、つい、寝込んじまったわ。きっと約束だってすっぽかしたに違いない」
と、そこで一本の飾り羽に目を止めると「アラ、やだ! ここが少し曲がってるじゃないの!」と、血相を変えて形を整える。それから、ヨシ、と満足そうに頷いて「まあ、どんなことがあっても、アタシの羽が美しいことには変わりはありませんけどね!」と誇らしげに笑った。「でも、あんたたちが起こしてくれて大助かり。床なんぞで寝るもんじゃないわ。これ以上寝ていたら、きっと目も当てられない惨劇だったわ!」
べらべらと一人で喋りつづけ、羽をもう数回大切そうに摩ってから、男はやっと二人に目を戻した。
と、急に真面目な顔になって立ち上がると、宝物殿の階段を下りだした。
「で、何してるのよ! こんなところで遊んだら神官さまに怒られるわよ! 子供の遊び場じゃないのよ!」
カイが仏頂面で「その神官さまと来ているだろうが」と答えた。
青髪の男は、「あらあ?」と呟くと、初めて真剣な目つきでカイとハルを見た。そしてすぐにきゃらきゃらと笑った。
「誰かと思ったら、皇太子殿下と継承君猊下じゃないの。大変失礼いたしましたことねえ! ご無礼を働く気なんか、からっきしなかったんだわ。ただちょっと不注意なのよねえ、アタシ」
男は再び甲高く笑った。
「で、そのチビッコ宮様がたが、いったい何していらっしゃるの。大滝で水遊び?」
カイとハルは顔を見合わせた。直ぐにヒソヒソ話を始める。
「この男、どうする、ハル?」
「まあ、連れて行くしかないでしょうね」
「面倒だな!」
「でも、それが一番安全ですから」
カイは舌を鳴らした。「仕方ない、さらうぞ」
「ええ、賢明な判断です」
二人は孔雀族の宮廷役者に目を戻した。孔雀男は、きょとんと二人を見ている。二人が無言のまま近寄ると、男は、不安そうに口を開いた。
「……もしかして、アタシは見てはいけないものを見たのかしら」
カイとハルは、真面目な顔をして頷いた。
男は口に手を当てて「……アラ、大粗相!」と劇的に言った。それから少し後ずさりつつ、「それで、アタシをどうなさるおつもり?」と言った。
「ちょっとした逃走に加担してもらう」と命令口調でカイ。
「たった一ヶ月くらいのものですから」としれっとハル。
「逃走! 加担! 一ヶ月!」孔雀男は慄いた顔で叫んだ。「せっかく、ええ、せっかくご招待頂きましたけれどね、そんな物騒な旅のお供は無理よ。悪いけど、ご辞退申し上げるわ」
「残念ですが、これは招待ではないんです」と残念そうにハル。
カイが、「命令だ!」と被せるように言い放ち、二人は、逃げようと踵を返した孔雀男の両腕をそれぞれ引っつかんで、大滝へと引きずっていった。
「イヤよ!!」
痩せぎすの孔雀翼の男は最初激しく抵抗したが、すぐに諦めて泣き叫ぶことに専念した。二人の少年は幼い頃からあらゆる武術の訓練をうけている。役者の力では逃げられるはずもなかった。
「ねえ、アタシは、逃亡生活には向かないのよ! 野蛮な生活の中では、さすがのアタシも役立たずになるのよ! そりゃあ、もう悲劇よ! 連れて行ったら、あんたたちが後悔するわよ。大体どこから逃走するのよ。まさか岩にぶつかってあの世に逃走するつもり? まっぴらごめんよ。アタシは死ぬなら毒薬と決めているのよ!」
男は金切り声を上げた。「ちょっと! 聞いてるの?」
が、二人は聞く耳すら持っていなかった。桟橋の先端まで来ると、一度立ち止まって岩肌を見た。
「ただ飛込めばいいんだな」
「ええ」
「じゃ、行くか!」
「そうですね」
二人は、宮廷役者を引きずったまま滝の中へと踏み込んだ。
「嫌アアアアアアア……!」
男の叫び声が、無人の神殿に響き渡った。
が、少ししてその声が消え去ると、神殿の大滝は、何事もなかったかのように再び静まり返った。