賢者族の防御術
翌日、カイは朝早くに神殿を訪れた。
ハルに連れられてやってきたのは、書斎のような小部屋だ。壁一面が本で埋まる中、入って突き当たりに木の格子のついた大きな窓があり、その前に大きな机が置いてある。机には、色白の、端正な顔立ちの男が座って本を読んでいた。二人が部屋に入ると、男は視線をあげて微笑んだ。三十代半ばくらいで、真っ直ぐな黒髪を後ろで束ねている。智賢卿と呼ばれる、教育を司る要職に就いている人物だ。ハルの教育係で、叔父でもある。何度か顔を見たことはあるが、これまでカイは話をしたことがなかった。
「……ようこそおいで下さいました、殿下」と、ハルによく似た顔が、穏やかに口を開いた。
「二週間、教授頂く事になった。よろしくお願いします」
カイがそう言って頭を下げると、智賢卿は静かに、嬉しそうに笑った。
「こちらこそ、殿下のおいでを心待ちにしていました。……そうだね、ハル?」と、智賢卿は優しげにハルを見る。「ええ、叔父上」と、ハルも静かに微笑みを返した。
それを見て、ふと(そうか、ハルは近頃、この人に似てきているのかもしれん)とカイは思った。
「さあ、では、今日の講義を始めましょうか」
智賢卿は柔らかい声で言い、カイに椅子を勧めた。
* * *
智賢卿の講義は、穏やかな、落ち着いた雰囲気の中で進められていく。
大きな地図が取り出され、机の上に広げられた。「何でも自由にお書き止めなさい」と白紙と筆が手渡された。「私の話の、どの部分をどう受け止めるかは殿下次第。ただしご自身の頭をお使い頂かねばなりませぬ」と、智賢卿は微笑んだ。
巨大な本を開かせて俺に暗唱させるだけの梟族の学者どもとは天と地ほども違うと、初っ端からカイは思った。
その日の内容は、国外の地理についてだ。智賢卿の語り口もカイを飽かさなかったが、翼族の国の外の話は、強くカイの心を捉えた。
地下にある、水の国のこと。そこに住む真水族は、博識で予知能力があり、癒しの才がある。とても用心深く、あまり他国の民とは交流を持たないという。
「……真水族の王国は、我が国のほぼ真下から、東側にかけての地下に位置する。我が国では、いたるところに地下水が湧き出ているが、この地下水は、真水族より供給されています。引き換えに、我々は、水の国の安全を保障する立場にある。外敵から守るだけでなく、我が国の自然を壊さぬことも我々の勤めなのです。翼族の領土の汚染荒廃は、地下にある水の国に、直に影響を与えますゆえ。戦国期の終わり、我々翼族は、真水族とそういう契約を結び、この地に国を築いた。……ハル、中央庭園の宝物殿奥にある大滝の、正式名称を知っているね?」
「はい、契約の滝岩です」
「そう。滝の水源は水の都から直に供給されている。真水族との協定は第二賢者の家の管轄だが、お前もある程度のことは知っておいた方がいい。真水族と翼族の間の、規定と契約に関する本を、何冊か読んでおきなさい。書庫の一七番棚の辺りにある。文献の表を後で渡そう」
次に卿はカイを見た。
「儀式や清めにも、この大滝の水が使われます。殿下の成人の儀式の際も大滝に来られましたね。我が国の暮らしに、真水族の水は欠かせません。昆虫翅の農民は勿論のこと、その作物を食べて生きている翼族の民全員が、真水族の恩恵により生かされているといっても過言ではない。何しろ、地下水の供給がなければ、この辺りは、元々は干上がった乾燥地帯。農業を営むのは困難です。真水族の供給が始まるまで、多くの部族は、狩で得た肉と、野生の木の実を食べて生き長らえていたのです。真水族は自国を守るために、ここ一体を乾いた土地に保ち、他の生物を寄せ付けないようにしていた。ですから彼らとの良好な関係が、我が国にとって非常に重要であることをお心にお留め置き下さい。……例えば、世に名高い翼族の酒も、真水族の協力なしに作ることはできないのです」
「へえ、そうなのか?」
「はい。あの独特の甘みを出すには、特に純度の高い軟水が必要で、真水族からこの神殿を通して酒蔵に下げ渡されています」
「成る程なあ……」と、カイは納得顔で頷いた。翼族の酒は、ギギの家で何度が口にしたことがある。
「道理で悪酔いしないはずだ」
ハルが慌てて肘でカイを突付き、カイもしまったと顔を顰める。
「さて」と智賢卿が言った。「私は聞かなかったことに致しましょう。悪酔いはおろか、まだ酒の味そのものをご存知ではない御年のはずですからね、殿下は」
智賢卿はクスクスと笑い、カイとハルは、決まり悪げに目を見合わせた。
それから、講義は別の隣国の話へと進んだ。
国の東方は、広大な海だ。海洋族と呼ばれる半魚の民が、自由に群れを成して暮らしている。海洋族は、荒々しく流動的で、翼族の国では蛮族と認識されている。
南方の隣国、獣人の森。変獣民族の国と半獣民族の国からなる連合王国だ。
壮大な北方山脈を越えると雪族の国がある。雪族も人熊の変獣民族だ。
北方山脈の裾野には、禿鷲族の王国がある。禿鷲族は、翼族の国に属さず、北方の領土を支配下におさめ、独立を保っている。翼族の国とは、付かず離れずといったところで、互いに内政には干渉はしないという暗黙の了解がある。
その先の、西方地域が、最も強くカイの関心を引いた。
西に広がるのは大草原で、その広さは尋常ではない。
草原地帯の西北端には、古代から続く城壁都市群がある。場所は定かではないが、南部の何処かには古代竜の住む土地があるという。
草原地帯の更に西には、巨大な砂漠が延々西端山脈まで広がっている。山脈南端から続く半島に、砂族(有鱗の民)の国。
「そして、砂漠には、かつて、我々賢者族のような姿の人々も暮らしていたとも伝えられています」
「へえ、じゃあ、呪力のある民か。賢者族の祖ですか?」
「いや、そうではありません。我々賢者族は、無翼とはいえ翼族の変種。我々の持つ呪力も、元々翼族に備わる優れた六感が進化したものに過ぎぬ。が、どうやら、この民は、そういった野生の力を持ち合わせていなかったようです。その代わり、砂漠に都を栄えさせるだけの、何らかの高度な技術を持っていたと考えられている」
「高度な技術?」
「はい」
「どんな技術だ?」
「残念ながら、我々とは多分に異なる、という以外、詳しくは分かりませぬ。この砂漠の民に関する記述はあまり残されてはいないのです。翼族の古い伝承記に、砂漠に流れ着いた異色の民に関する件があり、彼らは、『容姿、我等に似るも翼を持たず、赤子のように脆弱、呪術をも解さず、五感まことに鈍し』となっている。それから、諸城壁都市からもたらされた史料の中に、野生の力を持たぬ異質の民についての記録があり、彼らが巧妙な技を用いて砂漠に都を栄えさせた事が記されています。野生の力を持たぬがゆえに、高度な科学技術を発展させざるを得なかったのでしょう」
「その種族の子孫はまだ砂漠のどこかにいるのか?」
「いいえ、どうやら都と共に滅び去ったようです」
「どうして滅びたんだ?」
「それは、謎なのですよ、殿下」
そう答えて、智賢卿は、静かに微笑んだ。もう質問は終わり、と言う意味だった。
* * *
「……智賢卿の講義は、面白い」と、カイが羨ましげに呟いた。
朝の講義の後でハルの部屋に戻り、二人は次の武術の稽古が始まるのを待っている。
「ええ、いつも興味深いことを教えてくれます」と武術着姿のハルが答えた。
久しぶりの、見慣れた武術着姿が、どこかカイに安心感を与えている。そのせいか、二人の会話もどこか気安い。
「卿は、爺の学者どもよりも、数十倍いい。……運のいい奴め」
「梟族だって素晴らしい教育者たちなんですよ。叔父とは種類が違うだけです」ハルは笑いながら言って、それからふと付け加えた。「でも、まあ、確かに僕は運が良いですね。叔父上がいなきゃ、耐えられたかどうか」
「何に耐えるって?」
「講義ですよ、勿論」と、ハルは、さらりと答えた。「それにね、叔父は、凄腕の剣士でもあるんです」
「へえ」
「賢者族の中では五本の指に入る腕前ですね」
「見かけによらないもんだな。……ああ、まあ、俺の叔父上も同じか。姿を見ただけじゃ、飛武術家には見えない」
「白鳥卿?」
「母上に瓜二つだからな」
ハルは声をあげて笑った。「あれは対戦相手もやり難いですよね。后妃に刀を振り上げている気分になるんだから!」
「それも叔父上の策略の一つかもしれんな!」カイも大声を上げて笑った。それから、久しぶりに上機嫌で続けた。「じゃあ次も智賢卿だな?」
「いえ稽古を見てくれるのはオミ卿です。僕たちの中では一番の腕前の剣士ですよ」
「そうか。まあ、ともかく楽しみだ!」そう言って、カイはにんまりとした。新しい剣術というだけで心は躍る。
が、ハルが意外なほど淡白に「でも、あまり期待しちゃ駄目ですよ」と言った。
「……どういう意味だ?」
「飛武術館や決闘市場のようなわけにはいきませんから」
「賢者族の稽古だろ? だからどうだってんだ?」
すると、ハルは困ったように、「今年に入ってから、皇子はずっと高位の大烏剣士たちと飛武術を練習してきているでしょ。それに比べたら多分物足りない、ということです」と言って微笑んだ。
* * *
防御術と呼ばれる武術の稽古は、神殿の内広場の一つで行われた。
ハルに連れられ、カイが内広場に着いた時、既に十名を超える賢者族の面々が、武術着姿で、広場に集まっていた。低い声で会話をしながら、其々に準備運動などをしている。少し離れた場所に、四、五人の懸巣翼の剣士もいた。
内広場に漂う穏やかな空気は、カイがよく訪れるゴオ卿の飛武術館の活気や、決闘市場の熱気とは随分異なる。そういえば、カイは、ハルがハル以外の賢者族と武術をしている姿を見たことがなかった。異質なものに初めて触れる、不思議な高揚感がカイを包んだ。
師範のオミ卿は、三十代半ばの、身体つきのがっしりとした神官だった。真っ直ぐな黒髪を後ろできっちりと結んでいるが、賢者の一族は、総じて似たような容姿をしている。ハルが、ずいぶん親しげに嬉しそうにオミ卿と話をしているのも、カイには物珍しかった。ハルの顔をした、知らない人物を見ているような気にすらなった。
オミ卿の指示の下、百聞は一見に如かずと、早々に稽古が始められ、カイは取りあえず見学をすることになった。
剣術の基本稽古を終えると、オミ卿が「防御術には十七の基本型があり、これを学んで頂きますが、まずその応用をお見せしましょう」と言った。
早速賢者族の剣士四人と懸巣族の剣士四人が木刀を持って中央に進み出る。それ以外の者たちは、八人を囲むように下がった。ハルも見学中のカイの横にやって来て腰を下ろした。
「あれは、賢者族の四天王といってもいい四人です。口髭がガル卿、特に色が白いのがラキ卿、一番背が高いのがヤヒコ卿、丸刈りがクナギ卿。勿論、オミ卿が一番上手いですが、あの四人の地稽古も見ものですよ」
その四剣士たちは、背中合わせに立って構えた。同時に、懸巣翼の剣士たちが空に舞い上がる。すぐに一人の懸巣剣士が仕掛け、地稽古が始まった。
懸巣翼の剣士たちが絶え間なく攻撃をしかけるのを、賢者族の四剣士たちは、一体となったように苦もなく交わしていく。空に八の字を描くように流れる剣の捌きは独特で、このような剣の技を、カイは今までに見たことがなかった。
「凄いな!」呟くと、「見ものだって言ったでしょ」とハルが得意そうに返した。
元々が剣術好きのカイだから、美しい剣技を見るとつい我を忘れる。昔の調子で、「あれなら地上技だけで皇覧大会でもいいところまで勝ち抜けるな!」と、興奮気味に言った。
ハルは苦笑して「ええ、まあ、多分ね、ある程度のところまでは」と淡白に答えた。
カイはせっかくの気分をそがれ、仏頂面をしてハルを見た。「ある程度なんてもんじゃない。今までに出たことがあるやつはいないのか」
「いるわけがないじゃないですか」
「なんで誰も出ないんだ?」
「出られないからですよ、もちろん」
「皇覧大会なら、誰でも出られるだろう」
「……皇子、忘れていませんか? 僕たちは神官なんですよ」
「それがどうした」
「神官は、勝負試合に出ることを許されていないでしょ」
「そうなのか?」
「知らなかったんですか?」
「知らん」
「……そうでしたか。梟卿がとっくに教えたと思っていました。でも、まあ、そういうことです。神官は本来闘争禁止ですから、僕らの剣は諸刃とも砥がれてもいませんよ」
そのわりに肉は平気で食べますけどね、というハルの軽口を無視して、カイが続けた。
「お前も、出られないのか?」
「当然、そういうことになります」
「……神官なんぞ辞めてしまえ」
顔を顰めてカイが言うと、ハルは「皇子らしいですねえ」と笑った。
「でも、辞めたところで何も変わりませんよ。僕らの一族は、飛武術からは距離を置いたほうが利口なんです。武術好きなら特にね」
カイが、「分からん」と眉を寄せると、ハルは困ったように「だって、所詮、僕たちには、翼がないんですから」と付け加えた。
* * *
皇覧大会がいよいよ本選に入った。人々の話題は、四天王のことで持ちきりだった。
四天王は、押しも押されもせぬ翼族最強の大スターたちで、人々の間では、とにかく史上最高の飛武術家集団と認識されている。なにしろ、其々が、翼族四大部族の長の後取りということも、その人気を後押ししている。
白鳥卿。白鳥族の公爵の子息で、カイの母方の叔父に当たる。
隼卿。隼族の公爵の跡継ぎで、四天王唯一の女性剣士だ。
鷹卿。翼族最大の一族、鷹族の公爵子息で、昨年度の皇覧大会の覇者だ。
コンドル卿。コンドル族の公爵の長男で、一昨年前に皇覧大会を制している。
ここ数年の皇覧大会の四強も、この四人で占められている。
* * *
その日、カイは防御術の稽古を終えると、神殿から城に戻った。昼に神官の集いがあって、ハルはそれに出なければならなかったから、カイは城で梟卿と昼餉を共にすることになっていた。
大広間を抜け食堂へ向かう途中の中庭に、皇覧大会の参加者のために、特別に練習場が設けられている。
カイが、中庭を囲む回廊を通りかかると、丁度、練習場に四天王が集っていた。午後に、それぞれ皇家鷲族闘技場での第一試合に臨むのだ。
カイは、立ち止まり、ぼんやりと四人を眺めた。
技の確認をしているのか、鷹卿とコンドル卿が、剣を重ねては動きを止め、その都度真剣に話し込んでいる。隼卿が白鳥卿の「形」を見ている。時折、笑いが起こった。
私生活でも近しく、互いに切磋琢磨しあう仲間なのだと評判の四天王だ。その四人に憧れる翼族の少年剣士たちは多い。昨年までカイも例外ではなかったが、今は、複雑な気持ちで四人を見ていた。羨ましさと、悔しさと、悲しさが入り混じったような気持ちだった。
『……そういえば、昔、皇子と僕も、四天王みたいになるんだろうな、なんて言われていたことがありましたっけね』
最初の防御術の稽古の後で、ハルがそう呟いた。稽古終わりの体操代わりにと、カイが懸巣翼の剣士たちと空中での互角稽古を終えたときのことだった。カイの飛武術を見るのは初めてだったハルが、やけに感心して『皇子、そのうち四天王から杯を奪えますよ』と言った。そのあとに、ポツリと漏らした言葉だった。
その瞬間、カイはなぜか突然、ハルに翼が無いことを理解した。
無論、ハルに翼が無いことなど物心着いたころから承知だが、要は実感として分かっていなかった。翼がなくても、日常生活では乗り鳥がいるし、昨年まではカイも武術で翼を使うことを禁じられていた。二人の立場はほぼ同じだった。
が、翼が無ければ飛武術は出来ない。
その認識は、カイにとっては衝撃だった。カイは、ハルの剣術好きをよく知っている。共に育ち、共に稽古をしてきたのだから当たり前だ。どれほど飛武術をやってみたかったのかも知っている。翼族の少年剣士なら、誰でもそうだ。そして、ハルは仲間内の誰よりも剣術が上手かった。不意に、これが、ハルが昨年の冬祭りを境にどこか変わってしまった理由だとカイは悟った。
以来、防御術の稽古では、カイは空中での稽古を一度もしていない。ハルは、そのカイの気遣いに気づかない振りをしている。そんなふうにして、一週間が過ぎていた。
カイの視線の先で、四天王がそれぞれ対になって、空中での互角稽古を始めた。が、白鳥卿がカイに気づいて、他の剣士に合図をした。すぐに四人はカイの前に降り立って片膝を着いた。
その姿をぼんやりと眺めていたカイだったが、四人が慇懃に挨拶をする声で、ハッと我に返った。思わず舌打ちをして「挨拶はいらん」と言い捨てると、その場から駆け出した。
残された四天王は、顔を見合わせ「我らは殿下のご不興を買っているようだな」「いえ、反抗期のようなものでしょう」「中々に胆力がおありになるとは聞いているが」「まあ、今の御年ならば生意気くらいが丁度良かろう」などと言いあうと、何事もなかったかのように再び稽古を始めた。
その日の昼餉の最中、同席した梟卿に、「爺、翼というものは作れないものか」と、カイは尋ねた。
梟卿は、表情を変えずに「翼族の翼は、天より与えられし恵み。我々の手でどうにか出来るものではありませぬ」と答えた。そして、黙り込んだカイに釘をさした。
「若様、継承君には継承君のご事情がおありになる。くれぐれもお口出しはなさらぬよう」
しかし、カイは、何とかしてハルの翼を作る方法は無いものかと、考えることを止められなかった。
普段は自ら進んで書庫に行くことなど無いが、連夜、こっそり梟卿の書庫に通って、闇雲に本を読み漁った。しかし、からくり技術、農耕機械などに関する書物はあるが、翼を作る話などは何処にもない。
当然と言えば当然だ。翼族には翼があるのが常識だ。翼に支障があれば、乗り鳥がある。