精霊の記憶
遠くに、足音が聞こえた。
四天王かと、カイは刀を掴んで跳ね起きた。ほぼ同時に、ハルも神官剣を手に飛び起きていた。
と、無翼の兵士達が、二人の目の前を駆けていったが、全く二人には注意を払わなかった。
二人の目の前に巨大な宮殿が立っている。地面は、輝く大理石だった。
「なんだ? 何処だ?」
「皇子、見て下さい!」
ハルが慌てたようにカイの袖を引いた。
カイが振り返った崖下に素晴らしい半円の広場があった。そこから放射線状に伸びる、五本の美しい並木大通り。右手に横たわるのは、ゆったりと水を湛える、真っ青な湖だ。
「……さっきと同じ場所か?」
「ええ!」
「どうなっているんだ?」
その時、背後から、言い争いが聞えてきた。二人が振り返ると、数十名の人々が、兵士に連行されていくところだった。連行する側にも、される側にも翼は無い。すぐに一行は、宮殿内に消えていった。
カイとハルは顔を見合わせた。すぐに頷きあうと、一行を追って宮殿に向かった。
入り口で、運悪く中から走り出てきた兵士数人と鉢合わせ、二人は驚いて足を止めた。が、兵士たちは、なんと二人の身体をすり抜けて走り去ってしまう。二人に気付いた様子もなかった。
ハルが「……もしかして僕たちは、この都の過去の幻を見ているのかもしれませんね」と呟いた。
ならば、と、カイはハルを促して、堂々と宮殿に入っていった。
激しい言い争いが、大広間から聞こえてくる。
広間に入ると、中央の玉座に、まだ年若い男が座っていた。水色の宝石がついた冠を被っている。その前に、初老の五人の男たちが、横柄な態度で立っていた。
先程連行された人々が、兵士たちに囲まれ壁際に立たされている。数人の子供、赤ん坊を抱える女性。その中に、四つか五つになる少女がいた。黒い大きな目を凝らして、じっと玉座の男を見守っている。
『何事じゃ! 余興にしては度が過ぎる』と、玉座の男が声を荒げた。
『余興ではない。今日こそは陛下の同意を頂きに上がった』と、横柄な態度で、白髪の男が答えた。
『断る。何度も言っていよう。我々は神を冒涜するようなことに手を出してはならぬ』
『まだそのようなことを。夢物語と現実とを混同されては困ると、こちらも何度も申し上げたはず。我等に刑罰を下す神など、我等の心の中より他には存在しないのです。信仰は信仰、現実は現実。そろそろ目をお覚ましになったほうがよい。神代の時代など、疾うの昔に終わっているのだ』
『……そうかもしれぬ。しかし、それでも、都の伝統は蔑ろにすべきではない。それは、祖先から伝えられた智恵なのじゃ。一時の便宜に合わぬからと、おいそれと捨てるようなものではない。いや、余の命ある限り、そのようなものに許可は与えぬ』
『賛同頂けんとは、残念ですな。……しかし、陛下には、もう一つ残念なことを知らせなければならん。我々が事を行うにあたり、もうあなたの許可は必要ではない』
『……何と?』
『先程、議会で王制の廃止が可決された』
『余の知らぬ間に議会を召集したのか?』
『いかにも』
『誰の……』
『議長の私の権限においてだ。すでにあなたは、この都で何の影響力も持ってはいなかった。それを公的に認めたに過ぎない。これから、この都は民のものとなりますぞ。が、宗教を守るものとして王族の名は残す。これが、我々の、陛下や伝統への敬意である。でなければ、今、この時から、あなた方もただの一市民として生きて頂く所だ』
玉座の男は答えなかった。老人が鼻を鳴らして、付け加えた。
『王族も、我々と同じ血と肉で出来た、なんら特別ではない存在だということを、悟られることですな』
玉座の男は、慌てるでもなく、ゆっくりと口を開いた。『……それが余の民の望みか?』
白髪男は、苛立ちを隠さずに返した。『それが市民の決定だ。さあ、一族の方々と、神殿へ下がりなさい。そこがあなたの新しい住居となる。そこで姉君や巫たちと共に、古代の夢に生きればよい』
王は、一つ大きな溜息を吐いた。それからゆっくりと玉座から立ち上がった。そして、壁際に佇む人々の輪に加わると、無言のまま広間を去った……。
突然、カイの視界が歪んだ。目眩がして、カイは思わず目を閉じた。
次に目を開いたとき、カイは、湖を見下ろす美しい部屋の片隅に立っていた。隣で、ハルが困惑した顔で辺りを見回している。
室内では、先程の王が、赤ん坊を抱えた美しい女性に付き従われ、中央の椅子に座していた。灰のように白い顔をしている。大きな黒い瞳の少女が、女性の腕にしがみつくようにして立っていた。
部屋には、他に数十人が居て、中央に座る王を見ていた。その中に、木乃伊の少女のものと同じ、紅い衣服を纏い、炎色の宝石が飾られた冠を被った、威厳ある姿の女性がいた。その後ろに、青衣の巫女が数人付き従っていた。
そこは、神殿の一室と思しき場所だった。
『……羽根のことじゃ』と、王が、疲れきった表情で言った。『実用化すると言うのを、撥ね付け続けてきたが、ついに辛抱しきれなくなったのじゃ。我々は、空に属するものではないというに。……しかし、余が頑なに拒み続けたのは、神の領域へ足を踏み入れることへの禁忌の念からだけではない。どこかに越えてはならぬ一線を引いておかねば、我々の欲は止まることが無い。こうなると、都の行く末が心配でならぬ。一度、禁忌を破ってしまえば、次を破るは易いものじゃ……』
王は、深い溜息をつき、人々の顔を見回した。
『せめてこの神殿の中だけでも、祖先より受け継いだ生活を守りたい。我々に賛同する市民も全て受け容れよう。また、そなたたちの中で、去りたいものがあれば、行くが良い』
数分の沈黙の後で、数名が、静かに立ち去った。
『では、ここに残った皆は、余と心を同じにするもの……』
王は微笑んだ。それから、ゆっくりと音も無く椅子から崩れ落ちた。
赤ん坊を抱く傍らの女性が悲鳴を上げ、人々が慌てて駆け寄った。黒い瞳の少女が、泣き出した……
再び、霧がかかったように視界が歪んだ。それが晴れたときには、カイとハルは湖に張り出した露台の上に立っていた。
王が長椅子に横たわり、先程の美しい女性が付き添っている。王は痩せ衰え、青白い顔をしていた。大きな黒い瞳の少女は、六、七歳になっていて、三、四歳の小さな少年と戯れていた。
「……分かりましたよ、皇子」とハルが囁いた。
「何だ?」
「あの黒い目の女の子、あれが多分、今は精霊になっている、玉座に残された女性なんですよ。どうやってかは分かりませんが、僕たちは、今、あの人の記憶の中にいるんです」
「そうか……」
王が、弱々しく身体を起こした。
『……サレイ、イリュウ』
名を呼ばれたらしい二人の子供は、王に駆け寄った。
『側にお座り』
王妃と思しき美しい女性が、枕を幾つか王の身体の下に差しこみ、それから椅子を二つ、長椅子の両脇に置いた。子供たちが椅子によじ登り、王の胸にもたれかかった。
『お前たちは、この都の始まりの神話を、もう習ったか?』
子供たちの頭を撫でながら、王が尋ねた。
『いいえ、お父さま』
『そうか、ならば、余が話してつかわそう』
王が微笑みながら言葉を続けた。
『……我等の祖先は、放浪の民であった。詳しいことは語られぬが、己が愚行により、土地を失い、流浪の民となったのだと言われている。長い、長い間、祖先は旅を続け、やがてこの砂漠に迷い込んだ。水もなく、人々は乾き、ついに死を待つばかりとなった時、美しい翼を持つ神が、祖先の前に現れた。神は祖先を哀れみ、犠牲を一つ捧げるならば、願いを一つ叶えてくれよう、と宣った。時の王は、年老いた賢王であったが、答えて曰く「民に安住の地を下さるのなら、この命を捧げましょう」。神は土地を約束した。老王は民に向かい、次のように語った。「己が分をわきまえ、与えられる土地と共に生きるが良い。己が持つものを尊び、己が持たぬものに耐えよ。くれぐれも、欲望は絶望の母と知れ。さすれば汝らは永いときを栄えるであろう」
『語り終えると、王は自ら首を掻き切って、民の為に身を捧げた。屍からは驚くほど大量の血が流れ、それを、有翼の神が水に変えた。王の身体から流れ出た水は、やがて砂漠の窪みを満たし、それが、この湖になったという。湖ができると、有翼の神は祖先に木の苗を与えた。それから、「王の言葉を忘れてはならぬ。それを忘れた時、汝らは滅びよう」と言葉を残し神は飛び去った。その去った方角に山々があり、それがその後、三日三晩、赤く燃え続けたという』
王は、一度言葉を切って、遠くの山並みを指し示した。
『それが、我らが、今、神の住処と呼んでいるあの山々じゃ。祖先は、有翼の神を畏れ敬い、湖の上に神殿を建てた。老王の娘が神官となり、以来、王の娘が巫を務めることとなった。祖先は湖の辺に都を建て、老王の息子が都を治めた。そうして、長い間、我々は、有翼の神と、神の属する空を崇め、老王の箴言を守って生きてきたのじゃ』
王は、子供たちの顔を見て、寂しげに微笑んだ。
『しかし、長い安穏な日々の中で、いつしか我々は、敬いという心を失った。今では、人々は、この神話をただの夢物語と思っておる。神に我々を縛る力などないものと思っておる。……そして、それが正しいのかもしれぬ。これは、我らの祖先が作り出した夢物語であって、我らがどのような罪を犯そうとも、其れを罰する神などないのかもしれぬ。しかし、覚えておくが良い。神話というものには、わずかなりとも真実が隠されているもの。ただ、それが何かがはっきりとは分からぬだけじゃ。祖先が長い間恐れ敬ってきたものには、恐れ敬うだけの訳がある。例え、その訳が何かは分からなくとも……』
そこまで言うと、王は不意に苦しそうに言葉を止めた。王妃が心配げに立ち上がったが、それを制し、王は目を閉じてゆっくりと呼吸を整えた。それから、再び目を開くと、少年の顔を見て言った。
『イリュウ。余が死ねば、次はお前が王じゃ。この戒めを、人々に伝えるのがお前の役目。たとえ、耳を貸すものがおらずともじゃ。我等の存在は空には属さぬ。故に空に畏敬の念が生まれる。しかし、我等の歌は自由に空を飛び、その歌と共に、我等の心も空を翔けよう。それが、土に足を置く、我等の生きかたなのじゃ。限られた自由にこそ、真の自由がある。其れを人々に思い出させよ』
王は、少女を見て、そっとその頭に手を置いた。それから、静かな声で続けた。
『……そして、サレイ。お前は、いずれ伯母上の後を継ぎ、巫女になる。辛い役目になるかもしれぬが、弟を、きっと助けよ』
少女は、真剣な表情で頷いた。王は、安心したように微笑んだ。それから、深く長く息を吐き、ゆっくりと目を閉じた。
『お父さま?』
少女の問いかけに返事は無かった。駆け寄った王妃の顔が青ざめ、きつく結ばれた唇が震え始めた。
『……お父さま……』
少女の囁きと共に、再び霧がカイとハルの視界を覆い隠した。そして、次に見えたのは、砂漠の景色だった。
遠くの山々を仰ぎ見るように、人々が砂の大地に並び、その中で長い茶色の髪の少女が、幼い弟の手をしっかりと握って立っていた。青衣の巫女に囲まれた赤衣の巫女頭が、白い灰を空に撒いた。灰は風に乗り、澄んだ青空に舞い上がって行き、少女がそれを目で追いながら、隣に立つ少年に小声で告げた。
『これからは、お前が王よ、イリュウ。それが、どんな意味であっても』
それから流れるように場面が変わり、カイとハルは十年近い月日を駆け抜けた。
二人は、姉弟の、湖畔での穏やかな日々を見た。弟は弦楽器を奏で、姉がそれに合わせて歌う。時折、無骨な蝙蝠羽をつけた人々が、神殿の上空を飛び交うのが見えたが、湖畔の神殿内で繰り広げられていたのは、静かな、幸せな日々だった。
気がつくと、カイとハルは神殿のファサードの、階段の上に立っていた。
二人の目の前で、人々が言い争っていた。数人の蝙蝠羽の男達と、それに向き合うように立つ無翼の人々だ。
無翼の人々の中に、黒い瞳の少女――サレイがいた。すでに精霊の姿と変わらないくらいの年齢になっていた。
人々の先頭には、カイやハルと同年代の少年が立っていた。肩の辺りで切りそろえた茶色の髪。水色の宝石が飾られた冠を被っている。紅衣の巫女頭が少年王の横に立ち、蝙蝠羽の男たちと対峙していた。
『湖は神殿に属する神聖なもの。我々の許可無く犯すことはなりませぬ』
四人いる蝙蝠羽の男の一人が、ぞんざいな態度で返した。
『しかしですな、水は市民皆のもの。何度も説明したが、水が足りんのだ。湖底にどうやら地下水を汲み上げる古い管があるが、この管が細すぎる。これを、もっと太い管と取り替えると言っているだけだ。湖を壊そうというのではない、もっと有益に使おうと言っているのです。ご理解頂きたい』
『あなたがたの言う意味は解ります。しかし、もしこの湖の水源が、細い管だというのなら、それがこの湖のあるべき姿なのでしょう。湖の恵みに限りがあるのなら、我々が、その限りに暮らしを合わせていくのが道理。それが、わたくしどもの意見です』
四人の男は、呆れたような薄笑いを浮かべて、顔を見合わせた。
『何にせよ、あなた方の許可を貰いに来たのではない。我々の計画を知らせに来たまで。工事中の騒音を、少々我慢して頂きたい』
『……今までも、何度も申し上げました。そして、これからも何度でも申し上げます。我々は、この湖の恵みにより生きている』
巫女頭が、穏やかな声で諭すように言った。少年王が言葉を継いだ。
『あなた方は、我々が感謝すべきものを、冒涜しようとしているのだ』
静かな声だった。ふと、どこかで聞いたことのある声だとカイは思った。
しかし、蝙蝠羽の男たちは、肩をすくめると、挨拶もせずに飛び去ってしまった。
湖畔には、黒い蜘蛛のような巨大な機械が、異様な姿を晒していた。
無翼の人々は、深い溜息を吐くと、神殿内に戻って行った。姉弟だけが、その場に残り、無骨な機械が、不快な音を立てて湖に入っていくのを眺めていた。
『……僕にもっと力があれば』と、弟が言った。
『いいえ、私たちは、私たちにできることをやったわ』と、姉が答えた。
カイとハルは、真水族の汲水管が引き抜かれ、湖畔に無造作に投げ出されるのを見た。
「……自分たちで壊してしまったんですね」と、ハルが呟いた。
カイは、無言で頷いた。
瞬間の暗転の後、カイとハルは、湖を見下ろす神殿の一室にいた。その窓から見える湖が、半分以上干上がっていた。
王の母が中央の椅子に座り、その傍らに付き添うようにサレイが立っていた。
サレイは、炎色の宝石のついた冠を被り、紅い巫女の服を着ていた。背後には数人の若い巫女が控えている。
女性たちの前に、やつれた顔の無翼の男が五人、跪いていた。
『そなたの言葉の意味、分かりかねます』王の母が、真っ青な顔で言った。
『建国神話にございますれば……』
言い難そうに答えた男の顔に、カイは見覚えがあった。前王を王座から追い遣った、白髪の男に瓜二つだった。
『神話は分かります。分からぬことは、それとわたくしの息子との関わりじゃ』
『……ご子息は、この都の、王にございます』
『わたくしの記憶では、前王に、王が特別な存在ではないとお教えしたのは、そなたの父じゃ。前王がそうであるなら、わたくしの息子も同様です』
『我々は、市民の為に、何かをしなければならないのです』
『ならば、そなたらの技術者に、湖を元通りにさせればよいこと』
『全力を尽くしている……ただ、どういう訳か、湖の水源が見つからないのだ! このまま水が絶えるのではと、市民は、不安に苛まれ始めている。そして、これは王の箴言を破ったからだという噂が、都中に蔓延しているのです。中には、都を監視する有翼の神を見たというものまで出て来る始末。……今、都を救う手段として、最も実しやかに囁かれていることが何か、ご存知のはずだ』
『ご自分がなさればよい。あなたが、この都の支配者です』
『王の血でなければ、なりませぬ』
王の母が、怒りに震えた。しかし、無言のまま立ち上がると、歩き出した。
サレイが『……ついておいでなさい』と低い声で言った。
王の母とその娘、数人の巫女たちは、部屋を出て長い回廊を歩いた。五人の男たちがそれに続き、その後をカイとハルが追った。
列柱廊を抜け、やがて一行は、広い露台に出た。
少年王が、欄干に腰掛けて、弦楽器を弾いていた。侵入者に気付くと手を止めて顔を上げた。サレイが駆け寄り、弟王の手を取った。王の母が巫女を従えて王の前に立ち、五人の男たちはその後に跪いた。
『イリュウ、』
王の母は、抑揚の無い声で言った。
『お前は王ですから、死ななければなりません』
少年王は、驚いた顔をしたが、取り乱す様子は無かった。ちらと五人の男を見ると、自らの母に視線を戻した。『湖の為に、ですか、母上? 神話のように?』
『そのようです』
少年王は、暫くの間黙りこんだ。それから、跪く男たちを見た。
『もし、嫌だといったら?』
『……申し上げ難いことですが、先程、議会で……』
少年王は静かに遮った。
『では、僕には、あとどのくらい時間が残されていますか?』
カイが、「こんな奴等の言いなりになることは無い!」と叫んだ。
「……僕たちの声は、聞こえませんよ、皇子」と、ハルが呟いた。
しかし、カイの叫びが聞こえたかのように、サレイが、じっと二人を見た。
そして、その深い黒い瞳が、再びカイとハルに目眩を起こさせて、二人は、次の記憶の中へと運ばれていった。
王の母が、寝台に横たわっていた。痩せた姿で、ひどく憔悴している。
白装束に身を包んだ若い王が、その枕元に座って、母の手をしっかりと握っていた。その横にサレイが立っていた。
『母上、神の住処へ行って参ります』
少年王が、静かな口調で言った。
王の母は、目を閉じて、ゆっくりと首を横に振った。
『湖が元に戻れば、ご病気も直ぐに良くなりましょう』
王の母は答えず、かすかに微笑を浮かべた。閉ざされた瞳から、涙が溢れだした。
少年王はそれ以上何も言わず、静かに立ちあがると、一礼をして、部屋を出た。
サレイが、母の耳元で『直ぐに戻ります』と囁いて、弟の後を追った。
カイとハルもそれに続いた。
姉弟は無言で長い廊下を歩き、神殿のファサードから出たところで、立ちどまった。湖の向こうの広場には、蝙蝠羽を山と積んだ台車が、列をなしていた。
弟が、姉の手を取って言った。
『お別れです、姉上』
『……ええ、あなたが戻ってくるまでね』
それから姉弟は、声も無く泣いた。しばらくしてから、しっかりとした声で弟が言った。
『全てが終わったら、戻ってきます』
『ええ、全てが終わったら』
姉は弟を抱きしめた。
それから、少年王は、静かに小舟に乗り神殿を去った。姉は、弟が視界から消えた後も、長い間、その場を動かなかった。
カイは拳をきつく握り、ハルは唇を強く噛み、少女の次の記憶へと移る間、どちらも何も言わなかった。
二人は、宮殿の広間に戻っていた。
サレイが玉座に座っていたが、その姿は痩せこけ、閉ざされた両目は、既に落ち窪んでいた。げっそりと衰えた姿は、どこか聖人のように崇高なものに見えた。
玉座の前には、何百という人々が跪いていた。
『女王陛下』と、一人の男が口を開いた。『我々はこの地を去らねばなりませぬ』
『好きにするが良い。この地は、もはやそなたたちのものではない』
玉座の女王は、低い、掠れた声で答えた。
『どうぞ、我々と共にお越し下さい』
『なにゆえじゃ?』
『我等をお導き頂きたい』
『わたくしに、そのような力は無い』
『陛下の存在が、民の心を勇気付けるのです』
『それはわたくしの役目ではない。誰か別のものをお選びなさい。わたくしは、ここで王のお帰りを待つ』
『王は、お戻りにはなられませぬ』
『ならば、王の御霊のお力により、湖が元に戻るまでここに居よう』
『元には、戻りませぬ』
『神話を、信じぬか』
『信じませぬ』
『ならば、何故、殺した』
『……』
『王の血が、湖を癒すと信じたからではないのか?』
『……』
『しかし、そのようなことは起こらなかった』
『……』
『起こるはずがなかったのじゃ。王は、神通力など無い、生身の人間であった。わたくしも同じ。ただの女に過ぎぬ。……我らが具えていた、都を救う唯一の力は、そなたたちが王を殺す遥か昔に消え去っていた。もはや我らは、そなたたちと何一つ変わらぬもの。そなたたちは、ただ我らの一族に生まれたと言う理由だけで、何の力も無いわたくしの弟を殺したのじゃ』
『……』
『我らの力が何であったか、分かるか?』
『……』
『其れは、戒めじゃ。そなたたちが聞くことを拒み続けた、我らの言葉じゃ。……さあ、最後まで、そなたたちの選んだ道を行くが良い。わたくしは、わたくしの道を行く。わたくしは、最後の巫女として、都と共に滅びよう』
誰も何も言わず、誰も動かなかった。
『……さらばじゃ』
サレイが低い声で言い、二度とは口を開かなかった。
視界が急激に滲み、吐き気を催すほどの景色の歪みに、カイとハルは目を閉じた。
数秒の後、ゆっくりと目を開けた二人は、もとの廃墟に戻っていた。
市街地の跡を見下ろす崖の手前、眠りに落ちたその場所に、遠くの玉座と向かい合うように立っていた。
「……夢か?」とカイが呟いた。
「僕が見たものとまったく同じものを、皇子も見たのなら、単なる夢ではないですよ」
二人は、言葉もなく、遠くの瓦礫の中にある玉座を見つめた。
やがて、ハルが低い声で「……皇子」と言った。
「何だ」
「僕の為に翼を探していたんでしょう?」
「……知っていたのか」
「当たり前です。他に皇子が翼を欲しがる理由なんてありません」
「……まあな」
「もう、翼の墓場なんかに行くのは、止めましょう」
「……いいのか?」
「ええ。あんなもの、例え見つけたとしても、触る気にもなりません」
「……そうか」
「それにね、皇子」
「……何だ」
「僕、本当に、もういいんです。正直なところ、一度だけ皇子と飛武術をやってみたかったけれど、でもそれ以外は、本当に僕は僕で満足なんですよ。立派な神官になろうと決めているんです。誰に押し付けられたわけでもなく、ただ仕方なく諦めたわけでもなく、僕がそう決めたんです。嘘はついていませんよ」
ハルは、屈託の無い笑みを見せた。
「だから、もう帰りましょう。僕は、皇子と一緒に時間が過ごせると思ったから、この旅を始めることにしたんです。もう充分に楽しんだし、旅の目的はもう達成されていますよ。国のことも気になりますから」
「……そうだな」
その時、突風が吹き、砂埃の向こうに精霊が現れた。
二人は顔を見合わせ、それから再び精霊を見た。
ハルが、そっと声をかけた。「……あれは、あなたの記憶ですか?」
『……あれは、私の夢』
「どうして、俺たちに見せたんだ?」
『あの醜い羽がどこにあるのかを、知りたいのだろうと思ったのです』
「いや。俺たちは、旅の途中でここに迷い込んだだけだ。直ぐに去る」
「もし、あなたの眠りの邪魔をしたのなら、謝ります」
『……そう』
「邪魔をしたお詫びに、僕たちに何かできる事はありませんか?」
すると、少し躊躇した後で、精霊は『……ならば、歌を一緒に』と言った。
精霊の後を追いながら、この世の終わりのような顔をして、カイがハルを小突いた。「おい、俺は、歌なんか歌えんぞ!」
「僕だって歌えません!」
「お前はそれ程悪くない!」
「良くも無いんです!」
「俺よりはマシだ! 覚えていないのか?」
ハルは、う、と言葉に詰まった。「……確かにそうですね。というか、皇子のあれ、歌でしたか?」
二人とも、素晴らしい剣士で、勉強もよく出来たが、音楽や歌の稽古で素晴らしかったことは一度もなかった。
「畜生、こんな時、ピコがいれば!」
そうこうしているうちに、三人は、城跡のある丘から下り、湖畔の神殿跡の露台に戻った。
精霊は、瓦礫の山に腰を下ろして歌いだした。カイとハルは、別の瓦礫の横に胡座をかいて、歌に耳を傾けた。
一曲を歌い切ると、精霊は二人に、何故一緒に歌わないのかと尋ねた。二人が得意ではないと答えると、精霊は驚いた顔をした。
『でも、あなたがたは、翼族でしょう?』
今度は二人が驚いた。「翼族を知っているんですか!」
『ええ……』
精霊の説明したところによると、カイたちの前にここを訪れた若者二人が、翼族という種族が存在することを語ったらしかった。そして、翼族が、音楽と芸術の民なのだと言ったという。カイが「……そんな迷惑な話は聞いたことがないぞ」と唸った。
『でも、本当に、見事な歌い手でした。あなた方からは、あの人たちと同じ空気を感じます。だから、てっきりあなた方もそうなのだと』
「いや、確かに俺たちは翼族だが、歌は、俺の場合、上手いとか上手くないの問題じゃない。聞けば分かる」
そう言って、カイはやけくそになって一曲歌った。戦いの前に歌う歌で、カイが唯一歌えるものだが、見事なくらい調子外れで、音程がずれ、その上、拍子が無かった。
聞きながら、ハルが、気まずそうに鼻の頭を掻いた。
カイが歌い終わると、精霊は驚いたように、これほど珍しい歌い手に出会ったことが無いと言った。
「だから言っただろう。好きで音痴なわけじゃない」仏頂面でカイが言う。
『……教えてあげましょう』
「俺のこれは筋金入りだぞ。歌の師匠は、みんな諦めた」
精霊はクスリと笑い、ハルを見た。『あなたは?』
「僕も、得意ではないですよ」
そう言って、ハルはか細い声で、自信なさげに冬祭りの歌を歌った。
『あなたは、奇麗な声で歌う』
「皇子のおかげですね!あれの後なら、誰の歌でも美しく聞こえます」
「……俺の歌の価値が分かったか」
カイが仏頂面で呟くと、精霊が声を上げて笑った。楽しげな笑い声で、カイとハルは、何とはなしにホッとした。
「僕は、演奏する方がマシなんです。確か、ピコが竜に貰った……」
ハルがそう言って、口笛を吹き、ファラドを呼んだ。直ぐにファラドが、長持を運んで飛んできた。ハルは、長持を開け、中から小さな弦楽器を取り出した。調弦し、「何とか、弾けそうです」と微笑むと、翼族の古い調べを弾き始めた。
賢者族は、誰もが、笛、太鼓、弦の何れかを弾く事が出来るが、ハルは幼い頃から、弦の稽古をしている。
精霊は静かに音色に聞き入っていたが、やがて音に合わせて歌いだした。そして美しい即興曲を作り出した。
二人がどちらからとも無く演奏を止めたとき、精霊は、ポツリと呟いた。『あなたの奏でる音は、私の弟の音によく似ている』
その後、随分長い時を、三人は、歌って過ごした。精霊は、根気強くカイに教え続け、カイは、生まれて初めて、歌らしく歌を歌うことが出来た。
時はあっという間に過ぎ、精霊が立ち上がったとき、すでに辺りは暗くなっていた。
『長く引き止めすぎました。でも、弟が去ってから、これほど楽しい時を過ごしたことはない。ありがとう……』
「俺こそ、歌を教えて貰った。礼を言う」
『あなたからは、とても強い力を感じます。とても強い。私に、あなたの半分でも力があれば、今、このような場所になどいなかった』
精霊は、寂しげに微笑んで、それからハルを見た。
『あなたは、なんて穏やかに音を奏でるのでしょう。湖のように……私の弟のように。顔を見てみたかったけれど……』
「……目は、どうされたんですか?」
『弟が去った後も枯れ続ける湖を見ているに忍びなく、母の亡骸と共に葬ったのです』
「そうだったんですか……」
『でも、おかげであなたを弟と思って時を過ごすことができました。とても懐かしかった』
「そうですか。よかった」と、ハルは微笑み、ふと真顔になって続けた。「最後に一つ。僕たちの前にここを訪れた者たちについて、少し話して貰えませんか?」
『あなたたちとは、似ているようで、似ていない。あの二人は、とても不幸でした。だから、私と共に歌い、悲しみを分けあった』
「不幸、だったんですか?」
『……一人は矛盾と痛みを抱えて、もう一人は、手を差し伸べる術を知らなかった』
ハルが、眉を顰めて「二人の名前を、覚えていますか?」と言った。
精霊は、ゆっくりと首を横に振った。同時に風が吹き、その姿は砂埃の奥に消えた。
辺りは急に静まり返った。少しして、ハルが口を開いた。
「……不幸、か。誰だったんだろう」
「結局、分からずじまいだったな」
「きっと、本当に翼が欲しかったんでしょうね」
「ああ」
「もう、不幸じゃなくなっているといいですけど」
「そうだな」
それから、二人は、竜たちの恵みで夕食を取った。
出発は明朝早くにすることに決めた。身体を休め、明日は暑くなる前に一気に砂漠を飛ばなければならなかった。
二人が、瓦礫に腰を下ろして乾燥果物などを齧っていると、遠くから再び精霊の歌声が聞えてきた。
「サレイは、いつまでここにいるんだ?」
「さあ、弟の魂が戻るまででしょうか」
「弟の魂は、どうして戻ってこないんだ?」
「さあ……」
夕飯が済むと、二人は、ファラドに寄り添って眠りについた。
それは、丁度カイがうとうととし始めた時だった。突然、誰かの叫び声がした。
……どうして俺たち……だ? 俺な……だ……?
声の主が泣き崩れ、嗚咽が辺りに響き渡った。ハルの声だ、とカイは思った。
起き上がろうと必死で足掻いたが、身体がやけに重かった。暗闇に引き込まれていくような眠気に、カイは逆らうことができなかった。
廃墟には、サレイの憂いに満ちた歌声が響き渡っていた。
……ああ、渦中より、なおも辛いは
ただ水際に佇むことよ
情けなや、あの苦しみが、
決して、我がものにならぬとは……




