竜の平原
ファラドが加わったことで、旅は俄然楽になった。
全ての荷物は、ファラドが爪に引っ掛けて運んでくれるし、なにしろ全員が飛べるのだから、早い。
獣人王は、十分な食料を持たせてくれたが、それを食べきる前に竜の平原にたどり着いていたいと、カイとハルは考えていた。何しろ、これが底をついてしまえば狩でもして空腹を満たす術を考えなくてはならない。が、乾燥しきった草原に、食料になりそうな動物はあまり見かけなかった。
三人は、暑い日中を避けて、早朝と夕方に集中して飛ぶことにした。そのほうが、体力を消耗しなくてすむし、進む効率も良い。太陽の上る前に出発し、昼前には天幕を張って、休む。夕方、熱気が収まりだす頃、再び出発し、日没まで飛ぶ。
その繰り返しで、五日が経った。
草原の旅を始めてから六日目の早朝、まだ太陽が地平線から姿を現さないうちに、三人は出発した。
カイは、獣人王の急ぎ旅と同じような配分で進んでいると測っていたから、その日には、目印の赤い岩山にたどり着くはずだった。
やがて、斜め後方から太陽が顔を出し、朝日に照らされた地上の草々が黄金色に輝き始めた。草の海の中に、大小様々の岩が散らばっている。岩の群はやけに赤い。それを見て、きっと赤いのはこの辺りの岩の特徴で、ならば竜の大地も近いはずだ、とカイは思った。
しかし、行けども行けども、どういうわけか赤い岩山が見えてこない。そのうち、空気が徐々に熱を帯びてきて、昼前には竜の平原に着いていると考えていたカイは、徐々に不安になってきた。
「おい、ハル! 俺達は、ちゃんと南西に向かっているのか?」
「間違いありません。でも一度、地上に下りて確認したほうがいい……」
というハルの言葉を、ピコが遮った。
「ねえ、あれ、何かしら? 突然、あそこに現れたのよ」
ピコの指し示す先に、白、赤、青、緑の薄い雲のようなものが、ゆらゆらと空に浮いていた。
最初、陽炎のように、不確かな形に揺れ動いていたそれが、徐々に人の形となり、やがて空に漂う四人の男の姿になった。
「精霊か何かかしら?」
そうピコが呟いた時、突如、黒雲が湧き、空を覆った。同時に強風が吹き始めた。空気が、湿り気を帯び、重くなった。
その時だ。
三人の翼族の目の前で、信じられないような出来事が起こった。雷鳴が轟き、雷光が空を裂き、ほぼ同時に、四人の男がウオオオオッと膨れ上がったかと思うと、突如、巨大な四頭の竜に変わったのだ……!
三人は息を呑んだ。
竜は絡まりあうように、グルグルと身体を交錯させている。八つの目が爛々と輝き、翼族を凝視していた。シュウシュウという空気の漏れるような音は、竜たちの息吹だ……。
「……逃げろ!」
カイが叫んだ次の瞬間、赤い竜が飛び掛ってきた。
三人は、全速力でこれまでとは真逆の方向へと飛び始めた。竜たちは恐ろしい勢いで侵入者の後を追ってくる。その目は怒りに満ち、ギラギラと光っている。
雨が狂ったように降り出した。風は四方から吹き荒れ、ぶつかり合ったところで、螺旋状に縺れながら上空へと駆け上がっていく。雷鳴と雷光は途絶えることがなくなった。
シュウシュウという、竜の吐き出す音が、背後から追われているという恐ろしさを助長する。冷たい雨にずぶ濡れになり、背に竜の生温かかい息を感じながら、三人は、嵐の中を死に物狂いで飛び続けた。
追ってくる竜の気配から逃げ続け、もうどのくらい飛んだのかも分からなくなってきた頃、突如、三人は嵐を抜けた。
周囲には雨も風もなく、日が燦々と照っている。竜の息遣いも、もう背後には聞えてこない。咄嗟に振り返った三人が見たものは、草原にそそり立つ、巨大な透明の壁だった。
三人は、雲一つ無い晴れた空の下にいる。
が、まるで透明の壁が間に立っているように、ある一線から向こう側は荒れ狂う嵐の真っ只中なのだ。その嵐の縁で竜が身体をうねらせている。
「……竜の平原から出たみたいですね」と、ハルが言った。
地上に下り、息を整えながらカイは竜を眺めた。四頭の竜は、巨大な身体をうねらせて、牽制するようにこちらを見ている。
「自領地から侵入者を追い払ってしまえば良いようです」とファラドから飛び降りながらハルが言った。
「いつ、竜の平原に入った?」
憮然としたカイの問いかけに、ハルは少し考え込んでから答えた。
「……朝方に、草原が光を受けていた時があったでしょう。あの時だと思います。光って地上の色が見えにくいな、とは思っていたんです」
「赤い岩山はどうなっているんだ?」
「分かりません」
「完全に怒らせたな」
「そうですね」
「宥める方法はないか?」
「全く想像がつきません」
頼みの綱であるハルのそっけない返事にカイが頭を抱えた時、意外な声がした。
「……とっても非常にイヤイヤですけれどね、アタシが、試してみましょうか?」
カイは、クルリとピコの方を向いた。
「何か、方法を知ってるのか?」
「ええ、マア、知っているような、いないような」
「よし、なんでもいい。試せ」
「でも、上手く行くかどうか分からないわよ」
「構わん」
「分かったわ」
ピコは、ずぶ濡れの懐から、細長い木の横笛を取り出した。音が出ることを確認すると、ちらっと竜を見た。ブルッと身体を震わせ、「……突然、こっち側まで襲い掛かろうなんて気まぐれを起こしませんように!」と呟くと、翼を広げ、透明の壁のように見える嵐の際まで飛んでいった。そして、地上に下り立つと直ぐに、笛を吹き始めた。聞こえてきたのは、柔らかな、穏やかな調べだ。
「……これは、古い翼族の曲ですよ。よく儀式なんかで使われます」
「竜が、音楽なんか聞くのか?」
カイは訝しげな顔をしたが、驚いたことに、効果はすぐに現れた。竜たちは激しい動きを止め、音に聞き入るかのように静かに空に漂い始めたのだ。
暫くすると、雷鳴と雷光も止んだ。
やがてピコは演奏を止め、再び空に舞い上がった。ちなみに、孔雀族は、通常の翼の他に第二の飾り羽を持っている。孔雀鳥でいう雄鳥の上尾筒に当るものだが、孔雀翼族は、男女ともにこの羽がある。ピコは、空中で、その飾り羽を広げた。そして、雅に舞い始めた。
最初軽やかだった踊りは、やがて激しい踊りに変わった。続いてゆったりと流れるような舞があって、厳かで力強い舞になった。ピコは、その一連の動きを繰り返した。ハルが、「自然界の舞ですね。風、火、水、地、かな」と呟いた。
竜たちは、空に留まったまま、ピコの舞を見ている。
舞う孔雀翼の姿は陽光に照らされ、それを眺める四頭の竜の後ろで、黒い雲が急速に流れて行った。雲の割れ目に青空が見え始めた。
その景色は、異様で美しく、しかも荘厳なのだった。
「……おい、あれは色々利用価値のある厄介者だったな。拾っておいてよかった」と、カイが真面目な顔で言った。
「それは……」と、ハルが戸惑い口調で返した。「褒めているんですね、皇子?」
暫くすると、空が完全に晴れ渡った。ピコは舞うのを止め、竜に向かって礼をすると、カイとハルのもとに戻ってきた。
「素晴らしかったです! さすが宮廷付き!」
「本当に芸事が出来たんだな。疑って悪かった」
二人が口々に褒めたたえると、ピコは少し意外そうな顔をしてから、きゃらきゃらといつものように笑った。「アラ、たいした事ないわ! ちょっとしたアタシの十八番よ」
ピコが説明したところによると、その「十八番」は、翼族の伝承文学をもとにした、古い舞台劇の一幕だという。自然神への巡礼の旅を続ける御巫が、竜と出会い、その怒りを静める為に舞を捧げるという場面で、そこで踊られる舞も、ずっと昔から継承されてきたものらしい。
「こんなに上手くいくところを見ると、もしかしたら、史実だったかもしれないわね」とピコは締め括った。「で、これからどうするの、殿下?」
カイは竜を見た。四頭の竜は静かに空に漂って、翼族を眺めている。
「おい、ハル、竜に俺たちの言葉は通じるんだな?」
「ええ、大丈夫だと思います。古代から続くものたちは、大抵の言葉を解しますから」
「よし。ついて来い」
二人を従え、黒と赤の大地の境目に膝をついて、カイは、獣人王の火酒を捧げた。それから、丁寧に名乗り、非礼を詫びた。すると、竜たちは音もなく地上に下りてきた。黄金の八つの眼が、静かに翼族を見た。こうなると、古代竜たちには、畏怖の念を呼びおこすような、正に神獣といった威厳が漂い始める。
やがて、緑竜が静寂を破った。
「非礼を許す」
翼族の言葉だ。大地の底から響いてくるような声だった。
「入られよ」
三人が、畏まって境界をまたぐと、竜たちはふわりと空に舞い上がり、翼族の周りを、円を描くように飛び始めた。
途端、周囲の景色が陽炎のように歪み、それが再び晴れたときには、三人は、今までに見たことがないほど巨大で、壮麗な宮殿の前に立っていた。
それが、古代竜の住処だった。
巨大な竜たちの姿は、地上に下り立つと、空気に溶けるように小さくなっていった。数秒の後に、その場に立っていたのは、神々しい姿の四人の男だ。それぞれ、赤、白、緑、青のゆったりとした衣装を纏い、皆、黄金色の目をして、長い黒の髪を背に垂らしている。
巨大な宮殿の巨大な扉が音もなく開いた。入った先は古代神殿のような素晴らしい広間だ。大勢の召使が控えていた。
透通るような白い肌と、薄い茶の瞳をした召使達は、四種類に分かれている。火色の毛に真っ赤な衣装を纏ったもの。白銀の毛に白い衣装を纏ったもの。茶緑の毛に緑の衣装を纏ったもの。薄青の毛に青い衣装を纏ったもの。其々の竜に属する、空気、火、水、地、四要素の精霊たちだった。
四竜は、翼族たちを招きいれると、「暫くはゆるりと寛がれるが良い」、「我らの召使に、何でも命ぜられるがよろしかろう」、「然るべき時に、また会おう」、「使いを差し向けるゆえ」と口々に言い残して、宮殿の奥へと消えていった。
「……竜が、変獣人のような存在だとは、想像もしていなかったぞ」
「僕もしていませんでした。竜は野性の獣に近い存在だと思っていました。でも、どちらかと言うと、自然神の領域に入っている存在のようですね。驚きました」
「とにかく、なにしろ、美しいのはいいことだわ」と、ピコが真面目に的外れの発言をした時、緑色の召使が現れ、ファラドを中庭に、三人を中庭に面した小広間に案内した。
* * *
それからの数日を、三人は竜の宮殿で過ごした。ハルは近くに見つけた図書室から本を持ち出しては、小広間で読みあさった。ピコは度々竜に呼ばれていなくなったが、舞を披露しているのだという。よほど気に入られたようだった。
カイは、巨大な竜の宮殿を探索して回ったのだが、一度、赤竜と左宮で鉢合わせたことがあった。カイが礼を述べると、赤竜は無表情に喜び、カイを自室へと招待してくれた。
案内された赤竜の部屋は恐ろしいほど広かった。その一角が、実験所のようになっている。そこで、赤竜は、ある興味深い実験をカイに見せてくれた。
それは科学と錬金術に神通力の働きを混ぜたようなものだったが、物質の要素を変えるという粉を使った実験だ。石盤を床におき、赤い粉をかける。赤竜は指先から小さな雷光を作り、それで赤い粉に火を点けた。粉がぱっと燃え上がり、火が消えた後、石盤は純金にかわっていた。
すっかり感心したカイだったが、粉の効果は短時間で、数時間後にはもとに戻ってしまう、と無表情に残念そうに赤竜は言った。
その他にも、赤竜は色々な粉を見せてくれたが、カイの感心を引いたのは、透明粉だった。幾らか分けて貰えるかと頼むと、赤竜は無表情に快く承知し、親切に粉を布袋に詰めてくれた。
人型の竜は基本的に無表情なのであるらしかった。
赤竜の間を出て、カイが小広間に戻ると、ハルが窓辺で本を読んでいた。ピコは緑竜に貰ったという、丸い弦楽器を爪弾いている。
「あ、皇子。今日はどこに行ってきたんですか?」
「左宮だ。赤い竜に会ったぞ」
カイが出来事を掻い摘んで説明すると、
「へえ。で、その、透明粉、どうするんです?」
「爺が煩い時、こっそり逃げ出すのに使う」
カイが即答すると、ハルは笑い転げ、ピコは「皇子業も大変よねえ」と気の毒そうに言った。
* * *
五日目の昼過ぎ、緑の召使が呼びに来た。竜からの昼食への招待だった。
早速、広い宮殿内を延々と歩き、三人がたどり着いたのは、硝子張りの巨大な部屋だ。巨大な一枚硝子の向こうに美しい平原が見え、その景色がまるで絵のように見える。
部屋の真ん中に円卓が置かれ、四竜が既に座していた。
進められるまま、三人が席に着くと、白い召使たちが手際よく料理や茶を運んできた。すぐに円卓は、翼族が見たこともないような素晴らしい料理の数々で一杯になる。
緑竜の勧めで、皆、一斉に箸を取ったが、食べれば食べるほど、益々食欲が沸いてくるような旨さだ。カイなどは、これ以上、もう一口も入らないと言うところまで食い尽くして箸を置いたが、食後に振る舞われた濃い金色の茶が、はちきれそうな胃袋を不思議と軽くしてくれた。
食事が済むと、白磁の優美な急須と茶碗が用意され、香の良い、薄い金の茶が振る舞われた。
茶を一口すすったところで、白竜が口を開いた。
「さて、翼族どの、なにがお望みか」
カイは、早速、懐から薄紅色の石盤を取り出し、白竜に手渡した。
「翼の墓場と呼ばれる場所をご存知かどうか伺いたい。手がかりはこの石盤のみですが、この大地で採掘されるものと教えられました」
翼の墓場と聞いて、ピコが怪訝そうな顔をしたが、カイは無視を決めこんだ。
四竜は、顔を突き合わせて石盤を眺めると、あっさりと「この石盤は、鉱物の都に属する物」と答えた。
「鉱物の都?」と、ハルが驚いた声を上げた。
「いかにも」と、青竜が頷いた。
四竜が語ったところによると、竜の大地で採掘されるこの石盤は、薄く強く、記述をするのに向いていて、採掘されるとその多くが鉱物の都に届けられるのだと言う。
カイは、早速鉱物の都を訪ねることに決めた。
すると、竜たちは口々に言った。
「送ろう」
「鉱物の都に食するものはないが、」
「丁度よい大きさの長持がある」
「それに入れて我々のものを持っていくがよい」
ピコのおかげか、よほど気に入られているらしい。カイは、四竜の好意に礼を言い、改めて領地侵犯の非礼を詫びた。
すると竜たちは、あっけらかんと答えた。
「我々は、獣人王も、その客人の翼族も嫌いではない」
「それに、侵犯は、皇太子どのの非ではない」
「獣人王の指示は正しかった」
「火色の岩山は、確かに我らの領地の境界にあった」
白、青、緑の三竜は、一斉に赤い竜を見た。赤竜は、一人、黙り込んでいる。
「砕いたのは、火竜であった」
「昨年の初めの頃であった」
「雷を落としおったのだ。まさに、これの実験癖の弊害」
「獣人王は、それを知らぬ」
「しばらくここに来ていないゆえ」
すると、赤竜は飄々と答えた。
「赤よりも黄金の方が、岩山がすてきに見えようと思ったが、ちと雷を強くしすぎた」
翼族三人は、草原に大小の赤い岩々が飛び散っていたのを思い出し、唖然とするばかりだった。
* * *
翌朝、宮殿の外で、四竜が巨大な竜の姿で待っていた。
翼族が平原に立つと、竜は空に舞い上がり、旋回を始めた。周りの景色が陽炎のように歪み、それが晴れたときには、三人は荒野の中の大きな岩地の上に立っていた。
四頭の神獣が、上空にゆらゆらと浮いている。
「北へ向かうがよい。この岩場のそちら側は、既に鉱物の都に属する土地」
「ここが、我等が都に近付ける限界。我々の間には、古くからの決まり事がある」
「互いに互いの土地を侵さぬ決まり。侵入すれば決まりを破ることになる」
「気をつけて行かれよ。古い大地や都には、未だ不可思議な時空の歪みが存在するもの」
「まさに原始より続く大自然の神秘」
それから、翼族に別れを告げると、見事な身体をうねらせて、四竜は空高く舞い上がり雲間に消えた。