追ってくるのは誰だ?
森を抜けると、大草原が広がっていた。
抜けるように青い空。広大な草の大地。その合間に、白銀の雲が峰のように浮かんでいる。
カイは、その美しさに圧倒されて、声も出なかった。
その様子を見て、「やっぱり皇子は典型的な翼族ですねえ」とハルが笑った。「本来、空を翔けまわる自由を求めるのが、翼族なんです。だから開放的な原野にも心を引きつけられるんですよ。きっと、翼族が規則や仕来りを重んじるのは、その反動ですね」
すると、ピコがペラペラと口を挟んだ。
「欲望に枷をして身を律するのだわ。つまりね、長い間修養を積んで、その本性に打ち勝った結果、翼族は今のアタシたちのように洗練された高度な精神性を持つに至ったのよ。でも、原始的翼族は野性的自由が大好きなの。だから殿下は、未だにとっても原始的な翼族だということよ。進化をお忘れになったのよ。大変貴重で、すごいことだわ」
ピコはそう言ってきゃらきゃらと笑った。
カイは無言で聞いていたが、ハルのほうを向いて「……もしかして、ピコは、俺を馬鹿にしているか?」と言った。
「まあ、聞きようによれば。でも、本人は褒めているつもりだと思いますよ」
「まあいい」
「へえ! 丸くなりましたね、皇子!」
「森で随分世話になった。今回は大目に見てやる。……さて、」
カイは懐から、獣人王に貰った方位針を取り出した。南西方向を確認し、方位針をハルに手渡すと、「歩けるか?」と言った。
「大丈夫です。もうすっかり直りました」
「よし、じゃあ行くか!」
こうして、三人の草原の旅が始まった。
草原を歩くのは、想像していたしていたよりもずっと厳しかった。
太陽が照り付け、肌を焼く。空気はひどく乾いていて、汗も蒸発するほどだから、頻繁に水分を補給しなければならない。真水族の汲水管のおかげで、水に困らないことだけが救いだった。
ピコは、歩いている間中、お肌に悪いと嘆き悲しんだ。ハルも口数が減り、黙々と歩き続けた。
ただ、元々、暑さや鋭い日差しに強いカイには、草原の景色の中を歩くのは楽しかった。どこまでも続く草の平地。翼族の国の景色とは異なる荒々しさと、その果てしない広さに、暑さを忘れカイの心は躍った。
日が傾く頃、岩場を見つけ、三人は、そこで一夜を過ごすことにした。
カイとハルが火を焚いている間に、ピコは、岩場の間に器用に布を張り、立派な天幕小屋を作り上げた。急激に気温の下がり始めた草原で、これは、少年達にとってもありがたい。「寝所、これすなわち聖地よ。肉体を休める場所というものは、同時に精神をも安らかにせしめる場所でもあるべきなのよ。……っていうか、こうでもしなけりゃ、こんな所で寝れやしない」と本人は言った。
さらに、ピコは、限られた食材で驚くほど見事な夕食を拵えもした。驚く少年たちに、「食、これすなわち芸術よ。肉体を養う糧というものは、同時に精神をも豊かにせしめる糧でもあるべきなのよ。……っていうか、こうでもしなけりゃ、こんな所で食えやしない」と本人は言った。
夕食を終える頃には、草原は夜になっていた。
ハルが簡易灯に火を入れ、天幕の中で本を読み始めた。ピコはその横で、相も変わらず肌の手入れをしている。
カイは草原に出た。しばらく岩場の周囲をウロウロした後、高台に腰を下ろして夜の草原を眺めた。
夜風に吹かれながらカイが考えていたのは、獣人の森の王のことだった。
別れの朝、カイは小天幕で獣人王に会い、そこで火酒の瓶と方位針を渡された。
『小道を抜け、森を出たその地点より、ひたすら南西へ行けばよい。竜の平原まで、余の足で通常七日、急げば六日ほどであったと思う。空を行けばもう幾分早いのであろうな。途中、炎の模様が浮き出た赤い岩山がある。山が見えたら、注意して地面を見なければならぬ。それまで、原野の土は黒いが、竜の地の土は赤い。その境目が地の上に線を引いたように見える。くれぐれもその線を超えてはならぬ。必ず、そこで名乗りを上げよ。すぐに竜が現れる。竜が現れたら、この瓶を渡すがよい。火酒は竜の好物なのでな。余は久しく平原を訪れておらぬ。よろしく伝えてくれ』
それから王は、カイの肩に手を置いた。大きな、肉厚の、温かい掌だった。
『……今、この時に、皇太子どのが我が森を訪れたこと。これこそが、水王陛下が予見された、何事にも代えがたい幸運であった』
肩の手に力がこもり、王の目が、心なしか潤んだように見えた。
一連の事件の真相は伏せられたまま、王命により人豹族の公爵は赦免された。自領内での謹慎を命ぜられたが、王のもとへ戻ってくるのは、そう遠い先のことではないと、カイは信じている。たとえ、どんなに困難が多くとも、だ。
突風が吹いた。日が落ちた後の草原は寒い。
が、カイは動かなかった。まだ考え事をしていたのだ。人豹族の公爵とその父親と、スタンとクランと、そしてハルのことを考えていた。
再び風が吹いた。
冷たい風を頬に感じながら、成人するというのは、そう良いことじゃない、とカイは思った。夜の草原は暗く、不意にカイはぞっとした。周囲の闇が、ぐっと迫ってくるように感じた……。
「皇子? どこですか?」
カイがはっとして振り向くと、草原にぽつんとハルの簡易灯の燈が見えた。
「……ここだ!」
「大分寒くなってきましたし、もう天幕に戻ってください!」
カイは、もう一度、夜の草原に目を戻した。それから、強く頭を振ると、「今、行く!」と叫び、天幕に向かって飛び立った。
* * *
翌朝、カイが目を覚ました時、既に天幕にハルの姿はなかった。目を擦りながら外に出ると、ハルは高台に立って、注意深く辺りを見回している。カイは、伸びをしながら高台まで飛んだ。
「あ、おはようございます、皇子」
「早いな」
「見張られているような気がしたもんですから。夜中に、気になる羽音もありましたし」
「追っ手か? ついに見つかったかな」
「それならいいんですけど」
「よくないだろ。連れ戻される」
「いえ、もし後をつけているだけなら、連れ戻す気はないはずですから。むしろ警護の為で、本当にそうなら、僕らは皇帝陛下から正式に旅の許可を貰ったってことですよ」
「そうか。じゃあ、奴等がなにか仕掛けてくるまで、放っておけ」
カイは、数回羽ばたきをしてから翼を畳み、欠伸をしながら歩いて天幕に戻って行った。
ハルは、まだ不安げに辺りを見回していたが、少ししてから、諦めたようにカイを追った。
その日の朝食はカイが作った。
ぶった切った乾燥燻製肉と、乾麺麭を乱暴に割ったもの、それにリンゴ一個だ。その芸のない食事は、無理やり叩き起こされて、機嫌の悪いピコの機嫌を更に損ねた。
しかし、「皇子は、生まれてこのかた、一度も食事なんか作ったこと無いですから、これでも上出来なんですよ」と、小声で宥めるハルの言葉に、「そういや、そうねえ。こういうことで、逆に、殿下のお育ちの良さが証明されたってわけね」と、ピコは妙に納得して、「そういえば、アタシの旧友にも一人似たようなのがいたわ。威張ってばかりのくせに、妙に生活能力は低かったのよ」と、きゃらきゃらと笑った。それから、「ヘエ、これが皇子っていう生き物なのねえ」と、珍獣でも見るかのようにカイを突付きまわし、ついにはカイに殴り返された。
その日はさらに暑かった。
太陽がぎらぎらと照りつける。三人は、午前中を黙々と歩きつづけたが、太陽が頂点に上ったところで、ピコがついに悲鳴を上げた。
「もう一歩も歩けないわよ! いっそ、ここで死んじまいたいわよ!」
おいおいと泣き出すが、あまりの暑さに、さすがのカイも文句を言う気にはならない。仕方なく岩場の日陰を探し、そこで暑さが和らぐのを待つことにした。
ピコは、大量の水を飲み下し、「現実逃避には、眠りが一番なの」と、既に寝言のように呟いて、あっという間に眠りに落ちた。
ハルも疲れたように胡座をかき、目を閉じていた。
カイだけは、まだ体力が残っていて、刺すような太陽光を受けながら、岩場などを見て回っていたが、少しして日陰に戻ってくると、「ちょっと来い!」と、ハルを引きずるようにして草原に出た。そして、あれを見ろ、と言わんばかりに、草原の一方を指さした。
白いものがこちらに向かって飛んでくる。それが何かに気付いたとき、ハルが叫んだ。
「……ファラド!」
ややあって、ハルの白い乗り鳥が地上に下り立った。長い嘴をハルに擦り付ける。
「お前、どうしてここに?」
「ハルを追って、厩から逃げ出してきたな」
「厩の管理はそんなにずさんじゃないです。それに、ファラドは置いていくと書き残してきたのに」と、ハルは半信半疑に言った。
「じゃあ、誰かが送ってよこしたんだろう」
「……知らせも手紙も何も無しに?」ハルは、怪訝な顔で注意深く草原を見渡した。が、人影らしきものは見当たらない。
「気にするな」
「でも、」
「もし、本当に見張られてるとしたら密偵だ。きっと、父上の許可が下りて、警護の為に来ているんだ。そう言ったのはハルだろ?」
「そうですけど、」
「ファラドは、そいつらが連れてきたんだろ」
「そうですか……」
ハルは、もう一度、注意深く草原を見渡した。
「密偵なら見つけるのは無理だぞ」
カイがそっけなく言い放つ。
暫く草原を眺めてから、ハルは「そうですね」と呟いた。
それから、ファラドを岩場の近くに座らせて、二人は日陰に入った。
が、ハルの直感は正しかったのだ。
二人を追っていたのは、警護の密偵などではなかった。巧妙に草原の潅木の陰に身を潜めていたのは、一人の鴉翼の男だ。男は、紙片にさらさらと何事かを書き付けると、折り畳んで細長い油紙にしまい、懐から取り出した小鳥の足に括りつけた。そして、それを静かに空へと解き放った。