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翼族  作者: Gustatolasse
15/32

裏切りの裏側

 眠りを妨げられてから数時間後、カイは牢獄塔の屋根の上にいた。


 夜空は晴れ渡っていた。翼を畳み一息つくと、翼族の国とは異なる、夜の森の独特の匂いがカイの鼻をついた。見下ろした森の木々は、月明かりに照らされ、風に波打ちながらざわざわと揺れている。土と樹木の匂いが、湿気った夜風に乗って、塔の上にまで運ばれてくる。

 昼に牢獄から抜け出した時には、強い日差しの下、緊迫した空気が森中を包んでいると感じたものだったが、今、月光に照らされる黒い森は、それ自体が巨大なひとつの生き物で、夜気の中じっと息を潜めているように見える。

 カイは、深呼吸をひとつして、煙突から牢内に入った。


 囚われの公爵は、薄暗い牢内で、目を覆う革の半面を被せられたまま、出窓に腰かけていた。下を向き、物思いに耽っているようにも見えたが、カイの気配を感じ取ると、静かに顔を上げた。

「……翼族の、皇太子殿下」と、柔らかな低音が言った。

「分かったか」

「この森で、他の誰も、そのような場所からは入ってこられますまい」

「確かにな」

 公爵は、立ち上がり跪いて深く頭を垂れた。

「この度のご無礼、平にご容赦……」

「もういい。もう観念したと聞いた」

「恐れ入りましてございます」

 公爵は再びゆっくりと頭を下げた。


 少ししてから顔を上げると、公爵は静かに続けた。

「……して、このようなところまで、如何なる御用にございましょう」

「うん、本当のことを、語っていないそうだな」

「……は?」

「それを聞きに来た」

「……愚妹が、お耳を汚しましたか」

「詳しい事は知らん。俺が聞いたこととは、違う事情があるとだけ言われた」

「……そうでございましたか」

「話してもらうぞ。どうして俺を巻き込んでまで、陛下を殺そうとしたのか」

 公爵は答えなかった。カイが続けた。

「利用されたのは、ふらりと森を訪ねてきた俺にも非がある。咎めるつもりはない。でも事の真相を偽られるのは不愉快だ。このままだと、俺は腹の底で、翼族も随分バカにされたものだと思ったまま森を出ることになる」

 公爵は、それでも無言のままだった。カイはさらに続けた。

「こういう些細な不信が、いずれ大事おおごとに結びつくと教えられている。陛下と俺との間に、今後、何かことが起こるとも思わんが、出来るなら森に対して、なんの遺恨も持たないまま出て行きたい。もし望むなら、他の誰にも言わんと誓うぞ。真相が何であっても、本当のことが分かれば、俺が納得できれば、それでいい」

 すると、もう一瞬の沈黙の後、黒豹の公爵は低い声で答えた。

「……ごもっともにございます。お若いとはいえ、さすがに一国の皇太子殿下。私とて、獣人と翼族との間に、禍根を残したかったわけではありませぬ。既に、この目も覚めましてございます。奇妙な熱に浮かされていたとはいえ、ご無礼を働いた、せめてもの罪滅ぼしに、殿下に、全てを明かしてから逝きましょう」


 公爵は、ゆっくりと立ち上がり、こちらへ、と出窓をカイに譲った。

 カイが腰を下ろすと、前に跪き、少しの間、考え込んだ。それから顔をあげ、カイに尋ねた。

「……殿下は、この森の、前王陛下の御所業についてはご存知でいらっしゃいましょうか」

「ああ、陛下より伺った」

「その以前、森が長い間、一人の偉大な王を戴いていたことも?」

「それも伺った」

「それでは話は早うございます。……全ての始まりは、そこにある」

 そう切り出して、公爵は静かに語り始めた。


「……殿下の御国にも、御国のじつかなった統治の仕方がございましょう。この国にもまた、この国に適したべ方がございます。この森は、五つの公国から成り、王がその五公国の上に君臨することで均衡を保っている。王の直轄領こそ森の心臓部。流通の要であり権力の中枢。富はこの直轄領で生み出され、五公国に均等に配分されている。この中枢に獣人王という存在を戴いていてこそ、五つの公国は、互いの利権を犯すことなく、緩やかな連合を保つことができている。獣人の森とは、そのように脆い均衡の上に成り立つもので、森の王とは、その楔のような存在なのでございます。

「二十年前、長い間、森を治めてこられた人狼族の老王陛下が身罷られた。そして、それまで保たれてきた森の均衡が崩れましてございます。……そもそも、それぞれの公国内とて、ただ公爵の下、安穏と統治されていたわけではございませぬ。公国内には隙あらば爵位を狙わんとする貴族たちがひしめき、また宮廷においては、その輩が、自らの利を確保しようとうごめいている。強大なお力でそれを封じ込まれてきた老王を失い、森は、たがが外れたように、急激に乱れた。

「そのような中で王位を継がれた前王陛下は、ご無礼ながら、混乱を押さえ込むだけの才覚も余力もお持ちではなかった。そして、ご自身の権威を守るため、陛下は『粛清』という手段に走られたのです。……しかし、真実はそう単純ではございませんでした。あれは前王陛下お一人の御所業ではなかった。あれほどまでの『粛清』が行われたのは、ひとえに前の人豹族領フェリン公爵の巧みな煽惑せんわくがあったからでございました」

「前公爵の? ……貴殿の、父君か?」

「……まさに」


 前人豹族領公爵ーー現公爵の父は、前王が人虎族領ティグリス公爵であった頃からの近しい友だったという。その友が王になると、前公爵は、旧友という立場を利用して、言葉巧みに王の心を操るようになった。そして、王の名の下に、実に万にも及ぶ宮廷の有力者たちとその一族を死に追いやったのだ。犠牲者の多くが前公爵の政敵だったが、他に、あまりにも多くの宮廷人や権力者たちが殺されたため、そのことだけに着目するものはなかった。

 前王はやがて正気を失い、完全に傀儡と成り果て、前公爵は前王の治世を、影の権力者として君臨し続けたという。

 これこそが、前王の「狂気の粛清」の真相だったのだと公爵は語った。


「……前王陛下の側近となるものが、些細なことで次々と粛清されていく中、父の身だけは常に安泰だった。私はまだ年若く、宮廷にもおりませぬでしたゆえ、この目で直接見たわけではありませんが、宮廷における父の立場は特異で、ただ父の言葉のみが、前王陛下の御耳に届いているかのようだったと聞き及んでおりまする。……我が公国内でも、父を脅かすものはなかった。誰もが、前王陛下の……父の粛清の犠牲となったからです。

「しかし、人々の目には、父は王の共謀者とは映っていなかった。むしろ父こそが、前王陛下の狂気をお諌めできる唯一の存在であったと、誰もが信じておりました。父は、誰にも気づかれることなく、宮廷を意のままに操っていた。私も、父の口から、父の言葉で、直接聞いたのでなければ、この話を信ずることはなかったでしょう」


 前公爵が、自身の内心にのみ留めてきた真実を、息子である現公爵に明かす遠因となったのが、前王の急逝だったという。すぐに、年若い現王が即位し、そこから、前公爵の「治世」が狂い始めたからだった。


 現王は、老王の遺言により直轄領の外で育てられ、即位の直前まで、宮廷とは無縁の世界で生きていた。前王は、自らと同等の王位継承権を持つ息子を恐れ冷遇し、その養育の全権を前公爵に託してあったが、前公爵は、年少であった現王を、自らの息子と共に自領の外れに隔離していたのだ。現王の処遇については、前公爵も、いずれ自らの利となるような形で手を打つことを考えていたようだったが、前公爵が動く前に、前王が動いてしまったという。


「……現王陛下が、成年となられた日でございました。その日、現王陛下はお一人でお父君に拝謁に行かれた。その時だけは、私は同行が許されなかった。前王陛下は、その機会をお見逃しにはならず、ご自身でご子息のお命を狙われたのです。そして、逆に現王陛下が父君のお命を奪うこととなった。その『事故』は王妃陛下の御手で内密に処理され、前王陛下は急病で亡くなられたと公表されました。そして現王陛下が直ちに父君の後を継ぎ即位された」


 前公爵も前王の死の詳細を明確には知らないままだったというが、真相は前公爵にとってはどうでも良いことだったらしい。前王であろうが新王であろうが、恐怖を煽ることで意のままに操ることができると前公爵は考えていたのだという。

 だが、新王は思い通りにはならず、しかも王の近習きんじゅとして育ったはずの息子の存在も前公爵の利にはならなかった。そうして、前公爵の「治世」は徐々に壊れ始めた。


 一度味わった、権力を操るという快楽は、そう簡単に忘れられるものではなかったらしい。服従を装いながらも、思うままにならない新王への不満は募るばかりで、前公爵はついに新しい王の暗殺を企てるに至った。その陰謀には、年若い王の存在を快く思っていなかった、古参の宮廷人も複数名加わっており、その中に、当時の人虎族領公爵だった、現王の叔父も含まれていた。次期の獣人王、つまり、前公爵の次の傀儡となるものとして選ばれた人物だった。


 王の暗殺は、あくまで疑いが持たれぬような形で実行されねばならず、巧妙に計画が練られた。大神殿の祭壇に掲げられている草食種ハルヴァン獣人の弓矢に細工が施され、神殿で催される式典中の「予期せぬ事故により」、王の首が貫かれることになっていたという。

 実行日は、銀狼の老王の没日、しかも没後二十年の式典の場と定められ、準備も着々と進められた。うまく事が運べば、全ては「老王の思し召し」とされるはずだった。


「……父が、その企てのことを私に打ち明けたのが、年の始めにございました。父は、私と王の心の繋がりなど、とっくに切れたものと考えたのでございましょう。前王陛下への父の行いも、陛下の狂気の真実も、その時、全て父の口より聞いたこと。そして、父は、私に、これからは父のように生きよ、王となるものなどは傀儡に過ぎぬ、その存在を陰で操るものこそが、真の支配者である、と諭した。

「父の告白は、この耳にも衝撃でございました。これが我が父の本性とは、にわかには信じがたかった。私は……父は、御心を病んでしまわれた前王陛下に、ずっと忠誠を尽くしてきたものと疑いもしませぬでしたゆえ。

「父の言葉が真実なのかどうかにも確信が持てぬまま、私は、流されるように父の計画に加担することとなった。……何をどうすればいいのか、まだその時、私にはわからなかった」


 公爵はそこで一度言葉を切った。それから、一つ大きく息を吐き、続けた。


「が、父の言葉は、考えれば考えるほど、疑う余地もない程に、事実を物語っているようにしか思えなかった。だから、私は、父の告白を真実と受け入れ、獣人に対して、せめてもの償いをすることに決めたのです。

「謀に手を貸すと見せかけ父を欺き、式典の日、私は、事故が起こらぬようにした。そして私の思惑通り、父はすぐに私を、決して人目にはつかぬ場所に呼び出した。そこで、父を手にかけました。己が父を殺めることになりましたが……父は、それだけのことをいたしましたゆえ。それから、父の陰謀に関わったものを、この手で、一人ずつ排除していった。それが、私があやめた宮廷人たちにございます」


 カイは眉を顰めた。

「ちょっと待て。暗殺を食い止めて、陰謀者を排除しておいて、どうして今度は自分で陛下のお命を狙うようになったんだ?」


 公爵は、すぐには、カイの問いかけに答えなかった。少しの間をおいてから、再びゆっくりと口を開いた。


「……私にもまた、父同様、誰にも語らず、ずっとこの胸に秘めてきた隠し事がございます」

「隠し事?」

「……私は、まだ年少の頃、銀狼の老王陛下が身罷られる前に、内密に呼び出され、病床の陛下に拝謁したことがあるのでございます。……その事は一切他言無用との、きつい御達しにございました。

「そして、その時、私は、獣人の王を頂点とした緩やかな連合という、森のあるべき『統べ方』というものを、老王陛下より教えられたのです。さらに陛下は、『権力というものに最も興味を示さぬものが、最も権力を有するに適す。権力に興味を示さぬものを、権力に繋ぎとめるは贖罪の自覚。贖罪の自覚とは、罪の意識の故に生ずる義務の心である』と仰せられた。『……そなたに余の眼を、そなたの父に余の舌を託す』と。

「当時私はまだ幼く、陛下の御言葉の意味はわかりませぬでしたが、なぜかそれは一字一句そのまま私の心の内に刻み込まれた。そして、年を経て、自らが宮廷に出仕するようになってから、その言葉が徐々に意味を成すようになってきた。やがて老王陛下は、私たち父子に『森の王』を監視する役目を託された、と理解してございます。

「なぜ父が前王陛下のお心を捉え続け、また人々を欺き果せる事が出来たのか。父の声、言葉は、尋常ではない力を持っていた。それこそが、老王陛下が父に託した「舌」の力だったのでございましょう。老王陛下より託された、その力を、父がどのような意図で、あのように使ったのか、それは、私にはわかりませぬ。

「父は、物静かだが誇り高い人物でした。ことによると、統治者としては前王陛下よりも優れているという自覚もあったやもしれませぬ。それを、ひたすら臣下として前王陛下にお仕えせねばならぬことは屈辱であったかもしれぬ。その屈辱を晴らすため、自尊心を満足させるためだけに、父は前王の御心を惑わせ、狂気へと追い遣ったのかもしれませぬ。……しかし、父と前王が行った狂気の粛清の故に、森が老王陛下亡き後の混乱を抜け、また均衡を取り戻したこともまた事実。……父も、ただ無為に獣人の血を流させたわけではないと、願うのみにございまする」


 公爵は、もう一度、言葉を切った。そして、ゆっくりと確認するように続けた。


「……ただ、現陛下への企てに関しては、弁解の余地はございませぬ。父は、すでに正気を失っておりました。前王陛下が亡くなられた時、すでに父の役目は終わっていたのかもしれませぬ。父の真実を知った時、次は私の番であると悟りました。私が、老王から託された力を使う時である、と。私にとって、考えるべきは、それをどのように使うか、でございました。

「最初は、父をはじめとする陰謀者たちを、どのようにして、陛下のご負担にならぬよう排除するか、そればかりを考えておりました。陛下に企てのことをお伝えするつもりは、そもそもございませぬでした。陛下は、元々、権力などにご興味のある御方ではない。宮廷に入られるまでは草原で過ごされ、その自由を愛される御方だ。陛下の御心は、いつでも草原に戻ることを切望しておいでなのです。ただ老王より御立場を託されたという責務の御気持から、その御心を押し殺して位につかれておいでなのです。宮廷がますます厭わしくなるような謀のことを、わざわざお伝えする意義を、私は見出せませぬでしたゆえ。

「そして、そうやって陰ながら陛下をお守りすること、そのことが、私が老陛下から託された力を使う道だと考えた。今件を上手く収めたとて、これが陛下に対する最後の企みとなるわけではない。また次の誰かが、陛下の御命を狙いましょう。そういう者たちを密かに排除し続けることが、私が老陛下から託された役目であるのだろう、と。

「……が、同時に、私には、全てが理不尽に思えてならなかった。陛下にとって、宮廷の権力などは取るに足らぬもの。ご自身のお心に従うことが出来るものなら、陛下はすぐにでも位を捨て、草原へと戻られることでしょう。しかし決してそうはなさらない。前王の粛清をご自身の罪であったかのように感じられておいでだからです。その罪を償うために、ご自分に与えられた責務を果たそうとされておいでだからです。まさに、銀狼の老王が仰せられた、『贖罪の自覚』が、陛下を王の位に縛り付けている。……すべては、老王陛下の打たれた布石のままに。

「そうして、自らを犠牲にされて責務を果たし、挙句の果てに、陛下が最も忌み嫌う権力の故に御命を狙われるのです。これほど道理にあわぬことがございましょうか。この、国というものに、移ろい易い心の民に、それ程の価値がありましょうか?」


 公爵はすっと息を吸った。それから、それを静かに吐き出すように言葉を続けた。

「……私には、どうしてもそうとは思えなかった」

 静かだが、その声は力強かった。


「老王陛下の御言葉は、森の王としては、正しいのかもしれませぬ。だが、私には、その為に、陛下ご自身の御心が殺されねばならぬことが正しいとは、どうしても思えなかった。だから私は、私に託された力を、陛下の御為に、老王陛下の打たれた布石に抗う為に使おうと決めた。

「……獣人王がいなければ森が統率できぬというならば、それもまた一つの森のあり方。五つの公国が騒乱を繰り返すことこそが、この森の道理なのでございましょう。民というものは強かなもの。いかなる世でも、何かしら喜びと不平とを見出し、それなりに、日々を生きてゆくことができる。これも、宮廷に入り、統べる立場から民を観察して悟ったこと。であるならば、陛下は一体何の為に犠牲になられているのか。そう、思えた。権力を求める者共がいるのなら、その者共に、権力の場を渡せば良い。例えそれが森に混乱を生み出したとしても、その混乱の中でさえ、民はどうにでも暮らして行けるものだ、と。

「私は、ただ陛下を、このくだらぬ騒乱の場から解放して差し上げたいと思った。その心に、ただ従うことにしたのです」


「……そういうことだったか」

 カイの言葉に、公爵はふと、自虐的な、寂しげな笑みを浮かべた。


「……父の企てを、私自身の企てに作り変えました。父の暗殺計画に関わったものは宮廷から速やかに排除せねばならなかった。それを利用することにしたのです。父の死も、人虎族領公爵の死も、人々の目を引くようにいたしました。他の謀反人たちも、前王陛下の御所業を思い出させるようなやり方で粛清した。それを陛下の仕業と見せかけて、狂人の噂を流布させれば、いずれ民が陛下を『解放』してくれよう、そして、いずれ機が熟すのを待とう、と。……森で殿下のお姿を見た時、その時が来たと思いました。

「あとは、老王陛下より託されたこの眼と、忠実な妹一人の手助けのみで、比較的容易に事を進めることが出来ました。通常、王の処刑は、森の蛇の毒により執行されまする。処刑執行人は、かつての陛下の守役が勤める手筈。使用する毒薬をすり替えさせるのは、易いことでした。実際に使う毒薬の効果は一過性のもの。陛下は仮死状態に陥られるが、お命に別状はない。その状態で廷外にお連れし、我が領地内の、草原に近い家屋へお運びする。かつて陛下が過ごされた場所へと。……皮肉なことに、父のおかげで、我が領地内は今も私の意のままになりまする。陛下が人知れず余生を送られることも、決して難しいことではない。私もいずれ宮廷を退き、陛下のもとに参るつもりでございました。そして、その折に、ことの経緯いきさつを全てお話し申し上げればよいと、そう考えておりました」

 公爵は、大切なものを懐かしむように、ぽつりと付け加えた。

「……また、かつてのような日々に戻った暁に」


「それを、俺が台無しにしたわけか」

「……過去とは、再び求めるべきものではないのでございましょう。愚かな試みであったと、既に悟りましてございます。浅はかにも、隣国の皇太子殿下を利用しようなどとした報い。私も父同様、正気を失っておりました。どうぞお許しを……」

 カイは再び頭を下げようとする公爵の言葉を遮った。

「いや、そんなことよりも、陛下にその真実を告げないのは何故だ?」

 公爵は答えなかった。カイが続けた。

「陛下が真実を知ったなら、到底貴公を処刑するとは思えん。全て陛下の御為にやったことだ」

「それが、私にはわかりませぬ」

「なぜだ?」

「……私は、ずっと、自らの心が恐ろしかった。……陛下が、お父君をお手にかけた日、あの日の出来事は脳裏に刻まれ、今でもこの肌に残っている。あの日から、すべてが変わってしまったのです。そして、陛下の御心は、既に私から離れている。それを思うにつけ、この心もいつ陛下から離れ、父のような浅ましい心に成り下がるともわからぬと不安になるのです。あの父とて、最初から黒い心を持っていた訳ではないと信じまする。突然に強大な権力を手にした、かつての友に臣下として接し、知らず知らずのうちに生じた嫉妬が、きっと少しずつ父の心を狂わせもしたのでしょう。それと似たことが、私の心に起こらぬと、一体誰が申せましょう?

「一度欺いてしまえば、次に欺くことは易い。現に、私はすでに自らの父を欺き果せているのです。先のことなどは、誰にも分かりませぬ。私は、それが恐ろしかった。だから、この心がいつか本当に陛下を裏切る前に、まだ裏切りが偽物であると分かる内に、陛下をこの森から解放して差し上げたかった。そして、私自身が、そういう心の不安から逃れ、もう一度草原の日々を過ごしたかった。陛下の御為ではない、私自身の安らぎの為に。

「今では、私には、どうやらこれが、真実であるように思えるのです。何と、身侭な望みであったことか。なれば、死もその恐怖との決別の手段。真実などという曖昧な嘘を申し立て浅ましく陛下に命乞いをするよりは、このまま潔く処刑されることを望みまする。

「……何よりも、陛下には陛下のお決めになった道がおありになる。銀狼の老王陛下のように、素晴らしい君主として長く森を治められることは疑いもない。私が、浅はかな考えで御身を案ずる必要もありませぬ、陛下は、獣人王として生きるに耐えうるだけの器も強さもお持ちなのです。そして、民には、森には、やはり陛下のような君主が必要なのでしょう。だからこそ、老王は陛下をご自身の真の後継者としてお選びになられた。私は、今回のことで、それを悟ってから逝くことができる。思い残すことは何もございませぬ」


 その時だった。太く深い声が、牢内に響きわたった。


「いや、決して先に逝かせるわけにはゆかぬ」


 驚いて身を強張らせる公爵に、カイがボソッと呟いた。

「……言っていなかったな。俺がお連れしていたんだ」


 二人の背後で、鍵を開く軋んだ金属音が続き、やがて重い鉄の扉が開いた。


                * * *


 数日後の晩、翼族の三人は、獣人の森最後の目的地にいた。

 人豹族領の最西端にポツンと立つ、一軒の木造の家屋だ。かつて獣人王と人豹族領公爵が、少年時代を共に過ごした場所だった。

 三人は、翌朝、ついに草原へ向けて旅立つことになっていた。


 ここまで案内を努めたのが、人豹族領公爵の妹だ。背の高い、穏やかな黒い瞳の美しい女性だった。

 翌朝、三人は準備を整え、公爵の妹に導かれて小屋から出た。すぐ脇に、森の中へと延びる小道がある。それを指し示しながら、公爵の妹が言った。

「この小道を抜けた先が草原への入り口にございます。ここから半時もかかりませぬ」

 それから、大きな皮の袋を二つ渡した。

「食料にございます。草原の旅には必要でございましょう。お持ちくださいませ」

「色々、世話になった。礼を言う」

 カイがそう言うと、黒い瞳が潤んだ。

「……御礼を言わねばなりませぬのは、わたくしの方にございます」

「陛下に、よろしく伝えてくれ」

「お言葉、確かにお預かりいたしました。……よい旅を、お祈りいたします」

 そう言って、深々と頭を下げる背の高い姿は、三人の翼族が森の中に消えてからも、長い間、その場を動かなかった。


 草原に向かって、曲がりくねった森の小道を歩きながら、ハルが不満そうな声で言った。

「……皇子?」

「なんだ」

「何か色々事情がありそうだから、今まで黙っていましたけど、僕、獣人の森での、肝心の部分の記憶がないんですよ」

「ずっと寝てたからな」

「説明してください」

 すると、ピコが口を挟んだ。「あらあ、あんな記憶ないほうがいいわよ。とっても恐ろしくて野蛮だったわ。アタシなんか、早く忘れようと必死なのよ、お肌の為にも!」

「そうだ、ハル。あんな記憶、ないほうが肌の為だ」

 カイが肩をすくめて軽口を叩くと、ハルが叫んだ。

「僕の場合は、知らない方が肌に悪いんですよ!」

「あら、じゃあ、話してあげて、殿下。不満もお肌の敵なのよ」

 ピコが、やけに真面目な調子で言った。




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