森の王
白亜の大神殿の裏手は、巨大な中庭になっていた。庭の中央に、樹齢千年を軽く超える巨木がある。これがこの神殿の神木だ。
獣人王の天幕は、この神木と大神殿の間に立ち並ぶ、巨大な三棟の、正確には天幕形木造建築のことを言う。神殿側から、大天幕、次が中天幕、奥の神木に最も近いのが小天幕。
大天幕は議場だ。ガランとしてだだっ広く、上座には黄金の王座が据えてある。
続く中天幕は、迎賓館で、豪華な絨毯敷き。丸い壁面は見事な綴織の壁掛で覆われている。一連の絵画模様は獣人族の歴史を表現したものらしい。
獣人王は大中の天幕を無言のまま通り抜け、最後の天幕に入った。カイも王に続いた。
小天幕は、獣人王の住居にあたる建物だ。他の二天幕よりも小ぶりの十六角形で、ずっと明るかった。円錐形の天上には白い布が張られている。壁の上部には、細い明かり取りの硝子板がはめ込まれている。壁の下方は大部分が棚になっていて、様々な種類の本や瓶で埋め尽くされていた。
中央に柱が4本立っているが、それらを起点に内部は大まかに五つに分かれている。入り口を入って直ぐの一角は大理石貼りで、入り口の両脇には、見事な装飾の長椅子が置かれている。正面反対側の一角も大理石張りだ。立派な机と椅子が置かれ、その奥に、厚い織物の壁掛が掛かった扉らしきものがある。
右手部分は天上から下がる紗で仕切られていて、その奥が王の寝室になっていた。左手部分は絨毯敷きで、刺繍の施された厚手の座布団が壁際に並び、肘掛、盃の乗った足打三方のような金色の台がおいてある。
柱に囲まれた中央部分はタイル敷きで、その中心に清水が湧き出る美しい泉がある。
王は真っ直ぐに泉に向かい、獣のように頭を無造作に泉に突っ込んで汗を流した。そもそも獣型にもなるものなのだから、奇妙なことでもないのだが、父帝にはまず見られない貴人らしからぬ振舞いで、カイは少々面食らった。
王は慣れた仕草で側に置いてある手拭を引っつかみ、濡れた腕や顔を拭き始めたが、カイの視線に気付き、苦笑しながら、「余は、森の外で育った田舎者。生まれながらに宮廷暮らしの皇太子どのとは違う。まあ、やってみるがよかろう。気分のいいものだ」と言った。
獣人王が手拭を投げてよこすと、言われるままカイもごく粗暴に水に頭を突っ込んで汗を流した。父帝はともかく、こういうことは、カイにとっては慣れたものだ。決闘市場に顔を出すようになる前から、守り番に連れられ城外の原野に遊びに行っていた。
獣人王は無表情にそれを眺めながら、絨毯の上に腰を下ろした。三方を引き寄せ、懐から飾り気のない硝子の小瓶を取り出して、盃に透明の液体を注いだ。
「こちらに。一杯差し上げよう」
カイが王の向かいに胡座をかくと、早速盃が差し出された。野生麦の火酒だという。花のような香の、強い蒸留酒だ。
カイが口にするのを躊躇っていると、獣人王は「森の純酒は害にはならぬ。それに、余は毒殺を好まぬ」と言って自分の盃を空けた。
カイも、覚悟を決めて透明の液体を飲み干した。強い酒だった。
カイが咽ると、獣人王は「まだ早かったか」と笑った。屈託のない笑いだった。それから、淡白に「さて、早速だが、何をご所望か?」と言った。
その獣人王の振舞いを見て、ピコの直感は正しいかもしれん、とカイは思った。思いながら口を拭い、懐から水王の手紙を取り出した。
「陛下のお智恵を拝借に伺いました。これは水王陛下からの書状です」
獣人王は、早速手紙に目を通した。
読み終えると、「……さすがに水王陛下はご存知じゃ。竜の平原への道を尋ねるのに、余ほど適した者はないであろうな。また、貴殿がなにやら余に幸運をもたらすと書かれてある。楽しみに待つとしよう」と呟き、手紙を懐にしまいつつ、カイを見て続けた。
「ところで、皇太子どのはなぜ竜をお訪ねかな?」
「翼の墓場と呼ばれる場所を探しています。古代竜たちが何かを知っているらしい」
「ほう、翼の墓場。聞いたこともないが」
「珍しい無翼の民により作られた場所のようです」
「そうか。まあ、若いうちは、存分に探求の旅をするのも良い。が、それにしても、十分な供もつけずに、皇帝陛下がよく旅の許可を出されたものだ」
「博識の供がついていますゆえ」
「神官どのか?」
「はい」
「ふむ、」獣人王は頷くと、それ以上は尋ねず、「承知した。すぐには無理だが、近日中に出発いたそう。余が途中まで案内してくれよう。草原までは、人豹族の公爵に送らせよう。なに、出発の位置を誤らねば、竜の平地を見つけるのはそう難しいことではない」と言った。
それから、再び火酒を自分の杯に注いだ。「それよりも、このように誰かと酒を飲むのも随分久しい。少々相手をしてくれ」
盃を傾ける獣人王は、どこか楽しげに見えた。狂人の様子など微塵も無く、やはり噂など当てにはならん、とカイは思った。
「……ところで、陛下は、オラフという人物をご存知ですか」
「知らぬ名だな。何者だ」
「獣人と翼族の混血で、鴎翼を持つ黒狼です。陛下の密書を草食種二公爵に届けた人物と聞き及びましたが、もしかして翼族の無頼者と関わりがあるのかもしれません」
「オラフと言う人物が誰であろうと、それはないであろうな」
「は?」
「無頼者は存在せぬ。余は出任せを申したまでじゃ」
「……出任せ?」
「いかにも。あの場を収めるためじゃ。大体、そのような無頼の輩は存在せぬし、余も命令など一切下してはおらぬ。下そうにも下せぬ。ここ数日の間、宮殿を抜け出しておった。つい先ほど草原から戻ったばかりじゃ。草原は余の故郷のようなものでな。病気を装って抜け出した。余が即位して以来のことであったが、ときには息抜きが必要じゃ」獣人王は、にやりと笑って付け加えた。「皇太子どのと同じであろう」
「……ご存知でしたか」
「他に考えようもない」
「恐れ入りました」と、カイは頭を下げた。
「では、誰が命令を?」
「さあ……誰か、余を陥れたがっているものであろうな。残念ながら、森は今、少々荒れておる。何時頃、森に入られたかは知らぬが、皇太子どのも既に何かと耳にしているのではないか」
「……はあ、神隠しが多発しているとか」とカイは口を濁した。
すると、獣人王は苦笑して、「気を使わずともよい。余が殺していると囁かれていような? 父より受け継いだ狂人の血ゆえに。他にも、いろいろ言われていると聞く」
「根も葉もない噂……」
「いや、そうでもない。余の父は確かに狂っていたし、実に九千人近くを殺している。また、余が父を殺したのも本当のこと。母が、事を内密に処理してな、前王は急病で身罷ったことになっている。その母も既にこの世にはなく、真実を知るものはないはずなのだが」
さらりと言う王に、カイは驚いて言葉を失った。
「いずれにせよ、余は狂ってはおらんし、殺しも好きではない。……今のところは」
「……今のところは?」
「先のことは誰にも分からぬということじゃ。余の父とて最初から狂っていたわけではない」
獣人王が語ったところによると、森の前々王は、身罷る前に、人虎族領公爵とその子息、つまり前王と現王の二人を同時に後継者に指名したという。
現王は当時まだ少年に過ぎなかった為、父公爵が王位についたが、この父王は、自分と同格の王位継承権を持つ息子を畏れ憎んだ。狂い始めたのはそれからのことだったらしい。そして、万に近い獣人を虐殺した。
現王が心身ともに成年を迎えた時、前王は、ついには我が子を直接手にかけようと試み、逆に、息子の牙で命を落とした。それが、前王急逝の真相だという。
現王が即位してから、森の情勢は安定していたが、今年に入ってから再び騒がしくなり始めた。
まず、五公爵の内の二人、古参の官僚でもあった人虎族領公爵と人豹族領公爵が惨殺された。続いて王の名のもとに、数名の高位肉食種獣人貴族たちが処刑されたが、これは王自身のまったく関わらないことだった。
王はすぐさまこの一連の殺人事件の捜索を命じたが、今までのところ何の手掛かりも掴めておらず、追い討ちをかけるように、森に「神隠し」騒ぎがおこったという。
「この度のことも、同じ者の仕業であろう。どうやら催眠術のようなものを使うらしい。混血の男とやらも、いずれその者に操られたのであろう」
「その曲者の目的は何なのですか」
「さて、余に恨みを抱いておるのかもしれぬし、何か野望があるのかもしれぬ」
「偽の密書には、陛下の蝋や印が使われていたと聞きました。宮廷内のものが係わっているのに違いありません」
「まあ、そうであろうな。余の側近か。余が若すぎると以前より不満を抱いている古参の宮廷人たちが、小姓の一人を使ったか」
「信用できるもの以外を、皆、陛下のお側から下がらせてみてはいかがです」
すると、獣人王は声を上げて愉快そうに笑った。
「そんなことをしては、余の政務を手伝うものが一人もいなくなってしまう」
カイは驚いて、「一人も、ですか?」と尋ねた。
王は、あっさりと「いかにも」と答えた。「余は余以外のものを信じてはおらぬ。腹の奥で何を考えていようと、使えるものは使わねばならぬ。森の王は、そのようでなければ勤まらぬ。なに、いずれ決着はつこう。曲者が先に目的を達成するか、その前に余が奴らを捕らえるか、それだけのこと」
少しの間、沈黙があった。カイが、躊躇いがちに口を開いた。
「……陛下は、本当に誰も信頼されぬのですか」
「せぬな。興味もない」
「宮廷人というものは、それほど信用するに足らぬのものなのですか?」
「ふむ……」獣人の王は、一度言葉を切ってカイの目を見た。それから続けた。「これはな、皇太子殿。周りの者がどうというよりも、余の心の問題でな。森を治める者は、功利に徹するがよい、と余は教えられた。それを実践しているまでじゃ。森の王とは孤独なものじゃ。また、そうであるほうがよい。心の闇に囚われずにすむ。森に住むもの全ての生活が、余の決断に左右される。君主になるとは、つまりは巨大な責任を有するということ。ほんの些細な愚行が、莫大な被害を生む。国を動かす力とは、そういうものじゃ。心の闇などに惑わされていては、その重責を果たすことなどできぬ。少なくともこの森ではそれが真実。……実際、今の人虎族領公爵は、余の実の兄じゃが、その血の繋がりすらも余には特別な意味をなさぬ」
そう言って、王は、火酒を飲み干し、盃を置いた。
「貴殿もいずれ帝となられるのであったな。ならば、面白いものをご覧に入れよう」
獣人王は立ち上がり、天幕の奥にある小さな入り口に向かった。厚い壁掛を押しのけて中に入り、カイもその後に続いた。
入った先には祭壇があった。その、祭壇に祀られたものを見て、カイは思わず息を呑んだ。
巨大な水槽と、その中に佇む銀毛の大狼だ。
「真水族の棺桶だ。遺体を腐らせることなく保存できる。この部屋は、前々王の病室であった。父がこのように作り変え、余もそのままに置いている」
銀狼の青い目は、冷たい光を湛えていた。カイの背筋にぞっと寒気が走った。
「五百年という歳月を生き抜かれたお方だ。死して尚、恐ろしいお姿をされている。そうではないか?」
カイは無言のまま頷いた。
「銀毛の狼はもう存在せぬ。陛下が最後の生き残りであらせられた。……なにしろ、ご自身で、一族を滅ぼされたのだからな」
「え?」
「自らの民への不信と、何時裏切られるともしれぬ、その恐怖に耐えかねて、な」
カイは言葉を失った。
「……身罷られる前に、余はここで陛下にお会いした。まだ貴殿よりも年若い少年の頃であったが、今でも、つい先ほどのことのように思い出せるわ。陛下は、今、立っておられるその場所に、獣の姿のまま臥しておられた。して、余に、獣人の森の王とはなんぞや、とお尋ねになった。余が分かりませぬとお答えすると、それは生涯の孤独なりと仰せられた。それから、ご自身の暗い過去をお話し下さったのだ。心友や忠臣と信じたものの嫉みや裏切り、そして陛下ご自身の疑心が更なる疑心を生み、次から次へと近しいものたちを殺すに至った、その経緯を、な。長く生きられたお方ゆえ、若い世代の我々は、誰も陛下のそのような過去を知らぬままであったが。『わしと、そなたの父から学べ。孤高のみが、森の王に安らぎを与え、森に安泰を齎すのじゃ』と、それが、陛下の最期の御言葉であった」
獣人王は、一度言葉を切ってカイを見た。
「即位の後、余自身も心というものの脆さ、恐ろしさを、身をもって知った。余には、幼い頃より共に育ち、心を許しあった友がいてな。実の兄よりも、このものを疑うことなど天地が反ってもあるまいと信じたものだったが、宮廷に入って後、余が最初に疑心を抱いたのは、これに対してであった。毎夜のようにこれが余を裏切り、また、余がこれを殺す夢を見た。心というのは奇妙なものでな、情の深さが、そのまま疑いの深さになる。情が不安を、不安が疑心を呼ぶのだ。父が正気を失い、常軌を逸する虐殺に走ったのも、この疑心ゆえだ。その狂気を目の当たりにしておったゆえ、余は、亡き陛下のご助言をたちどころに実行に移すことに決めたのだ。正気を失い、余自身の手で、友を殺してしまう前に。余が后を娶らぬのもそのせいじゃ。森の王が世襲ではないのも、事によるとそういう理由から来ているのかもしれぬ」
それから再び水槽に目を移すと、王はポツリと呟いた。
「……余は、余の父は捨石ではなかったかと思う。父はもとより王の器ではなかった。陛下は、余をご自身の後継者に育て上げる為、国の為、全ての布石を打たれてから逝かれたのであろう。素晴らしい王であらせられたが……なんとも恐ろしいお方であった」
王の天幕を辞して、今夜の宿となる天幕に向かう途中で、カイは一人の獣人に会った。案内役の小姓が、「閣下」と頭を下げた。背の高い、長い黒髪の男が、頭を下げてカイの前に跪いた。
「人豹族領公爵にございます」
カイはギクリとした。たった今耳にした、獣人王がかつて友と呼んだという人物の名だったからだ。カイは居心地悪げに視線をずらして、「……陛下が、貴公をお待ちのようであった」と言った。
「恐れ入ります」
無表情のまま立ち去る公爵の後ろ姿は、ひっそりと、家臣然としている。カイには、王とこの人物がかつて心を許しあう仲だったということが、どうしても信じられなかった。
同時に、今年になってからのスタンとクランの急激な変わりようと、二人に対する自らの心の変わりようを思い出した。と、冬祭りの時の、ハルの『放っておいてください』という冷たい響きが蘇る。カイは腹の奥のどこかが奇妙に震え始めるのを感じた。
案内された天幕では、ハルとピコが待っていた。
「皇子!」
「あら、殿下!」
カイが天幕に入ると、すぐに二人の声が飛んだ。ハルが立ち上がってカイを出迎えた。
「皇子、どうでした?」
カイは、なぜかハルの目を見ることができず、絡まった下げ緒を外すのに苦心するふりをして、下を向いた。
「何も問題ない。陛下が、近日中に草原まで案内して下さる。お前、肩は?」
「平気です。浅い傷だし、薬草も医者の腕もよかったし」
「そうか」
言いながらハルの脇を抜け、カイはピコの横に腰を下ろした。天幕には円卓が置かれ、餐の用意がされていた。
刀を外した時に、柄にかけてあったハルの守り袋が床に落ちた。カイは素早くそれを拾って、ハルに投げた。
「返しておくぞ」
食事をしながら、カイは獣人の森で起きていることを、簡単に二人に説明した。
「……じゃあ、悪い時期に森に迷いこんだってわけなのねえ。竜の平原のほうが千倍マシ。アラ、でもアタシが、竜の平原に行くのを嬉しがるなんてちょっとした珍事じゃなくって?」
やけに真面目なピコの下らない呟きに、ハルは声をたてて笑った。カイも笑ってみせたが、心からというには程遠い、乾いた笑いだった。
その晩のことだ。奇妙な物音で、カイは目を覚ました。
物音は、隣接する、ハルの眠る天幕から聞こえてきた。起き上がって隣を覗くと、黒い人影が、ハルに覆い被さって、その首を掻き切ろうとしている。
カイは、止めろと人影に飛び掛った。
人影がクルリとカイを振り返った。一瞬、獣人王の顔だと思ったが、すぐにカイは、それが自分の顔だと気づいた。ぞっとした。恐怖に歪んだ表情、疑いに満ちた目。
どこかから囁き声が聞えてきた。
(……いずれ裏切られるのなら、俺が先に殺してやる……)
ギクリとした。恐る恐る見下ろした両手が、真っ赤に染まっている。ハルの血だ。
「嘘だアアアアアアアア……!」
これは夢だ、と思いながらカイは悲鳴を上げ続けた。しかしどうしても目覚めることが出来なかった。時がその瞬間で止まってしまったかのようだった。