獣人の森で(一)
三人は、岸辺の厚い苔の上に座って、岩場に干した着物が乾くのを待った。暖かい日で、髪はすぐに乾き始めた。
獣人族の言葉は、翼族の言葉と似通っている。両国には交流も多く、水の国と比べカイは気楽さを感じていた。
「さて、どうする。ここはもう、獣人王の主森の中なんだったな」
「ええ、そう言っていましたね」
「……ねえ、王の主森って何かしら?」
ピコが不安げに口を挟む。
「獣人王の直轄領ですよ」
「直轄領? あら、何だかとっても安心安全な響き」
「ええ、治安は間違いなく良いはずです」と、ハルは苦笑しながら返した。
「あら、そう! 心配して損したわ!」ピコはきゃらきゃらと笑うと、早速、安心しきって足元の花などを摘み始めた。
「宮殿への行き方は分かるのか?」
「分かりません。でも、森の中を歩いていれば、獣人族の誰かに出くわしますから、その人に聞けばいいです。まあ、一寸訝しがられるかもしれませんけど、翼族が獣人国を訪ねるのは違法ではありませんから」
「空から探して行くか」
「いえ、それは止めたほうがいいです。この国で宮廷を空から訪ねるのは、非礼になります。翼族の国から直接訪ねるのならともかく、今回は非公式訪問ですから、森を抜けて、正門から堂々とこっそり行きましょう」
「森にも宿はあるのか?」
「そりゃあるでしょう。宮廷を囲むように大きな街があるそうですから、華やかなはずですよ」
「じゃあ、とりあえず今日は宿だな。宮殿を訪ねるのは明日でもいい」
翼族の国でも、森の食材は出回っている。カイの気に入りだ。
ハルが苦笑しながら「まあ、いいです。朝の方が訪ねやすいですし、公用銀貨も少し持ってきましたから」と言った。ただし、「よし」と喜びかけたカイに「くれぐれも目立たないように! 問題は起こさないで下さいよ。大体、白鷲の翼というだけで、翼族皇太子がお忍びで遊びに来ていますと宣伝しているようなものなんですから」と釘を刺すのを忘れなかった。
着物が乾くと、身支度を整え、カイは早速二人に、「森に入るぞ」と告げた。
ピコが、「もう少し休みましょうよ」と訴えたが、カイはまったく取り合わなかった。
「さて、どこから行くか」
カイは四方を見回した。鬱蒼と繁った森が、湖畔をぐるりと取り囲んでいる。
と、その時、森の中で何かが動いた。
「……おい、何だ、あれ」
カイが眉を顰めて指差した。
「どうしました、皇子?」
「何かしら、殿下?」
ハルもピコも、カイの指差す先を見た。
「あそこに何か……」
その時、確かに三人は、森の中に何か光るものを見たのだが、なぜか一瞬後にはそのことを忘れてしまった。
「何かありましたか?」
「何もないじゃないの」
「……気のせいだな」と、カイは、頭を振った。
それから、もう一度同じ場所を指差して「あそこから森に入るぞ」と言った。
そうして三人は平穏な湖を後にした。
実は、その時、湖だけではなくて、「平穏」そのものも後にしたのだったが、勿論、まだ誰もそのことには気付いていない。
* * *
日没が近づいても、三人は、まだ森の中を歩き回っていた。
獣人王の宮殿からさほど離れていないはずが、どういう訳か半日近く歩き回って、一人の獣人にも出くわさない。たまに灰色の野ウサギや黒いリスを離れた位置に見かけるものの、人の住む気配はなく、迷路に迷い込んだようだった。
最初のうちは「長い森歩きはアタシの美しい足の形を損ねるわ」と元気に不平を言っていたピコも、さすがに無気味になってきたらしく、今では無口に少年たちの後を追っている。少年たちも、無言で辺りの様子を探ったりしている。
やがてハルが訝しげに口を開いた。
「どうにも、同じ所をグルグルと回っている気がしてならないんですよね」
「ハルもか。俺もそう思う。……幻術か何かだと思うか?」
ハルは顔を顰めて、「そうとしか考えられないんですが、森の獣人がこんな幻術を使うとも聞きませんし……」と考え込んだ。が、直ぐに冷静な声で続けた。「いずれにしても、今日は野宿のようですね。完全に暗くなる前に、休めそうな所を見つけましょう」
野宿と聞いて、ピコがメソメソと泣き始めた。
その時だ。
「驚いたね! 白鷲の若さんだ!」
頭上から威勢のいい声が響き、すぐに木の上の暗がりから、白い歪な鴎形の翼をした、小柄な男が飛び下りてきた。黒い剛毛を後ろで束ねた、童顔で愛嬌のある顔……。カイは、驚きの声をあげた。
「オラフ!」
決闘市場で馴染みの賭け師だった。
「そうでさあ!」
「どうして獣人の森にいるんだ!」
「そりゃあ、お袋の家があるからだ」と、オラフは朗らかに答えた。母親が人狼の獣人族なのだという。
「半翼半獣だったのか!」
「そうさね、鴎羽の黒狼だ。決闘市場じゃ、俺が混血だって、みんな知ってるぜ。だから、俺の羽はいけねえってなあ。翼族の血が薄すぎるんだ。当たり前すぎて、もうあそこじゃ話題にもならねえ」オラフは笑って、少々歪んだ背の鴎翼を叩いた。それから人懐っこく笑って続けた。
「それより、若さんこそ、珍しいところにいるねえ?」
オラフに連れられ、数十分も歩くと、小さな集落に着いた。
昼間に比べ、やけに簡単に森を抜け出ることが出来たことを、ハルはしきりに訝しがったが、カイは「オラフに付いてきたからだ」と、まったく気に留めなかった。
四人は、集落に一軒だけあるという酒場に入った。店内では数人の男達が酒を飲んでいて、オラフに、「お仲間かい?」などと声をかけた。皆、翼族を見慣れている様子だった。
「ま、たまあに、あっちの賭け仲間を連れてくるんでね」
そう言ってオラフは笑った。
店の隅の卓に陣取り、林檎酒の大瓶、黒麺麭の大籠に、葡萄酢と香草に漬けた豚肉の塊を焼いたものを大皿で頼む。
林檎酒の杯を手に一息つくと、カイは早速オラフに「宮廷への行き方を知っているか」と尋ねた。
すると、オラフは顔を顰めて「道は知っているがね。森の王さんを訪ねるつもりなら止めといたほうがいいや。このところ、王さんには、悪い噂がある」と答えた。
「どんな噂だ?」
オラフは指で皆に顔を寄せるように合図をし、低い声で言った。
「……ここの王さんは狂っているっていうのさ」
「狂っている、ですって?」
驚いて大声を上げたピコを、オラフはシイイイッと小声で窘めた。
「でっけェ声を出すな、奇麗な兄ちゃん! 何処で誰が聞いているかしれねえ!」
それを聞いて、ピコは青くなった。「なんだか物騒な感じじゃなくって?」
「ああ、翼族の国とは、比べもんにならねえ。こっちは今、荒れてるぜ」
ハルが「前々王が亡くなってから暫くもめたのは聞いたことがあるけど、今もですか」と、意外そうに言った。
「ああ、でも今の王さんがおかしくなったのはごく最近のことですぜ」
「どういうことだ?」と、カイが怪訝そうに言った。
「数ヶ月前から、人攫いが出始めたのさ。はじめは、皆、神隠しだ、なんだと不思議がってるばっかりだったんだが、後になって何人かが死体になって出てきやがった。首を裂かれて、宮殿近くの森に捨てられていたそうだ。その致命傷の首の傷がどう見ても、肉食種変獣民族の噛み跡さ。それで王さんの噂が……あれ、ところで、若さんたちは獣人のことをよく知ってんのかい?」
知っている、と言いかけた少年二人をピコの甲高い声が遮った。
「まったく知らないわよ!」
「じゃあ、孔雀の兄ちゃんの為に説明するが、獣人族っていうのは、肉食種と草食種の二種族からなるんで。肉食種は身体の形が変わる変獣人、草食種は下半身が獣の半獣人だ。半獣人は大抵大人しいから問題をおこすことはまずねえが、変獣人の本質っていうのは凶暴でね。昔はどっちが強いか決める為だけに、しょっちゅう殺しあっていたものらしいぜ。近頃はそんなこともありゃしませんがね、ただ今回の噛み裂き殺人の犯人は特別さ。特別っていうのは、血筋のことだ。どうやら、凶暴な本質が色濃く出ちまう肉食種獣人もあるらしい。それで皆、一番怪しいのはどうやら王さんらしいと噂しだしたってわけよ!」
「どうして、そこで森の王が出てくるんだ?」カイが眉を顰めて尋ねる。
「だから、血筋、なんだよ、若さん」
いっそう声を低くして、オラフが語ったところによると、獣人の森の前王は、流血を好み、在位十三年の間に一万人近くを処刑、惨殺した狂人だったのだという。賢王と評判の現王だが、前狂王の実子であることもあり、その狂った血脈が、今になって現れ始めたのではないか、と言われているらしかった。
「で、人殺しの味が恋しくなって、夜な夜な森に出歩いちゃあ、人を噛み殺して宮殿に持ち帰っているってわけさ。何しろ、前の王さんを殺したのは、今の王さんだったって噂もあるくらいだ。気狂いは遺伝するっていうし、ま、肉食種の血の暴走ってぇとこでさ。王さんだけに、誰にも止められねえし、タチが悪い。これまでに『神隠し』にあった数は、百を越えるって言いますぜ。おかげで皆ピリピリしていやがる」
三人は、思いがけない話に声も出なかった。
「まあ、それでもとりあえず行ってみてぇと言うんなら、明日にでも案内するぜ」
オラフはひょいと肩をすくめてそう言った。
そこで、その話は終わった。
食事が済むと、オラフは、三人の為に二階の宿部屋を借りる手配をして、去っていった。
カイとハルは、簡素な木の寝台に腰掛けて話をしていた。すでに二人の間では、明日獣人王を訪ねることで話が落ち着いている。
ピコはすっかり開き直って、「殺人魔の宮殿だろうがねぐらだろうが、お伴すりゃいいんでしょ。こうなりゃ、やけよ、なるようになれというものよ!」などとぶつくさ言いつつ、肌の手入れに余念が無かった。
「寝る前に、獣人王についてもう少し詳しく教えてくれ、ハル。確か、現王は人虎族だったな?」
「ええ、そうです。獣人王は、長い間、一人の人狼の王だったんですが、この王は二十年ほど前に亡くなって、王位は前の人虎の王に、その後、今の王に受け継がれたんです」
「アラ、人狼から人虎? 獣人族の王位は血統で継承されるんじゃないの?」と、ピコが口を挟んだ。
「違うんですよ。元々、獣人の森は人虎族、人狼族、人豹族、半馬族、半鹿族の五つの公国からなる連合国なんです。その五公爵の上に立って森を統べるのが獣人王というわけです。王は部族を超越した絶対権力を持つ存在で、新王は前王の指名によって、全ての変獣民族の中から選ばれるそうです。だから、正しい能力を有すると判断されれば血筋はあまり関係ないようですよ。僕も、前王と現王の間に血の繋がりがあることを知りませんでした」
「だから、オラフが血筋をやけに強調していたのか」
「そうみたいですね」ハルが頷き、それから腑に落ちなさげに続けた。「……でも、現王の評判がそんなに落ちているなんて、驚きですよ。とにかく若いのに賢人で、この王が君臨している限り獣人の森は安泰だろうと聞いていましたから。皇子も見習って欲しいと、梟卿が羨ましがっていたくらいなんですよ。聞いているでしょ?」
カイは、「知らん。もう寝る」と、知らぬふりを決め込んだ。
* * *
その晩、眠っていたカイは、奇妙な感覚に起こされた。
室内では、ハルとピコが其々の寝台で死んだように眠っている。何も動くものはない。やけに月の明るい晩で、銀色の光が窓硝子を抜けて室内に差し込んでいた。
と、窓の外にカイは二つの緑の光を見た。カイの左手は咄嗟に枕もとの刀を掴んだ。
(……刀など、今は入用ではござりませぬ)
深く響く柔らかな低音が、カイに語りかけてきた。頭の中に直接響いてくるような声だった。
(翼族の皇太子殿下とお見受けいたしますが、正しゅうございましょうか?)
カイは無意識の内に頷いていた。
(……やはり。さあ、もうお眠りください、殿下。そして、次に目覚めた時、このことは全てお忘れになっている……)
緑の光が明るさを増し、妖しげに光った。
湖畔で一度、同じ妖光を見たことを、カイはその時思い出したのだが、次の瞬間には意識を失って寝台に倒れ込んでいた。
それから、窓の外の「それ」は、音も無く窓辺から遠ざかり、夜の森へと消えていった。
その、少し後のことだ。
馴染みの賭け仲間の家を出て家路についたばかりのオラフが、暗い木立の間から現れた、見知らぬ女に声をかけられていた。
女は、長い黒外套を纏い、黒い面で目を隠していた。
「……なんだい、おめえは?」
女は、問いには答えず「頼みごとがございます」と言った。低い、妙に響く声だった。
オラフは怪訝そうに女を見やり、「聞く義務はねえと思うがね?」と答えた。
すると、女は無言で袂から小さな布袋を取り出してオラフの手に握らせると、耳元で何事かを囁いた。オラフは袋の中身を確認し、フンと鼻を鳴らしてから、ニヤリと笑った。
「……よし、詳しい話を聞こうか」




