二章 赤の国 その一
緑の髪の魔女は旅立った。ものぐさな彼女の旅路は、きっとひどく適当なものになるのだろう。だが、ここで一度物語は彼女から離れる。
さぁ、時の砂時計を、ひっくり返そうではないか。
◇◆◇
彼女は怒っていた。
なぜ自分はこんなところにいるのか。自分はどこから来たのだろうか。そもそも自分は誰なのか。
彼女は理不尽が大の嫌いであった。だから、答える者のいない疑問がこれほどに存在することに、これ以上なく怒っていた。
きっと眉を吊り上げて眺める周囲には、ゆったりとした上下一繋ぎの服を着た人々がいる。その向こうにはレンガ造りの建築物が立ち並び、やはり彼女にとっては見覚えのない街並みであった。
募るばかりの苛立ちを足先を上下させて誤魔化そうとすれば、足裏には砂のざらざらした感触。照り付ける日差しは容赦なく、黒一色の衣服に身を包んだ彼女を蒸し焼きにする。
紅い長髪に覆われた首筋を、一滴の汗が伝い落ちる。それは音もなく、彼女の中の何かをぷつんと切った。
――半瞬の後、彼女は隣を通り過ぎようとする男に襲い掛かっていた。
彼女は豹を思わせるしなやかさで男にとびかかる。
突然の攻撃。男は上半身に組み付いてきた少女を引きはがそうとするが、もう遅い。
「ぎゃああ!」
少女の親指と人差し指が、彼の目に突き立っていた。
男がいくら爪を立てようと、ローブが邪魔して意味をなさない。男がいくらあがこうと、がっちりと組みついた少女は離れない。
血涙を流す彼の周りには、足を止めた通行人の人だかりができている。
しかし、彼を助けようとするものはない。
やがて、彼の血の涙は止まる。血が流れ尽きたのでも、ましてや回復したわけでもない。
傷口が塞がれたのだ。彼女の指先に猛る炎が、彼の眼窩を嘗め尽くしているのだ。
彼はついに、あまりの激痛で立っていることすらおぼつかなくなる。自分とは比べもつかないほどに小柄な少女とともに倒れ、地面を転げまわるその姿は、まさに無様なものと言えよう。
やがて炎は侵食する。鼻を焼き、口を焼き、髪を焼く。最初は肉の焼けるいい香りであったのだが、髪の焦げるにおいなどが混ざったそれは、もはや悪臭だ。
その悪臭を最も近くで嗅ぎながらも、少女の口元は醜く釣り上げられていた。瞳はぎらぎらとして、燃えゆく顔面を映している。
少しずつ、少しずつ、彼の動きは小さくなり、そして、止まった。
顔は真っ黒に焼け焦げていて、もはや誰であったか判別することはできないほどだ。
少女はすっくと立ちあがり、未だその手に燻る火を払う。おもむろに土まみれのローブを脱ぎ捨て、一糸まとわぬ姿になった彼女は、男の衣服を剥いだ。
もはや説明するまでもなく、彼女の目的は衣服であった。ついでに内に溜まった憤りを発散したに過ぎず、男には何の恨みもない。
むしろ、彼女は感謝してさえいた。彼との戦いの中で、彼女は自分の内にある力を知ることができた。加えて、その力への疑問には、なんと答えが返ってきたのである。
そんな内心を感じさせることなく、彼女は淡々と戦利品を身に着けていく。長すぎた裾は、彼が腰にさしていた短刀で切り捨てた。そして同様に、うっとうしい長髪を乱雑に後ろで束ね、切り落とす。
風に舞った頭髪は光を反射し、飛び散る鮮血を連想させた。
短刀を男同様に腰にさし、やっと顔をあげた少女に対して、あっけにとられていた民衆が反応を見せる。
それは、非難でもなく、罵声でもなく、歓声。
人々は称えたのだ。女でありながら、幼くありながら、大人の男を倒した赤い瞳の少女を。
そこには、突如現れた少女への不信感も、人を殺したことへの咎めもない。強さこそすべて、彼らの心根にある心情が、透けて見えるようだった。
少女は無数の声に打たれながら、笑みを零す。
ここでは、自分の怒りを発露させてもかまわないのだ。否、求められるのだ。
そう感じた彼女に、笑う以外の選択肢などなかった。笑顔が似合うはずの幼い顔に、似合わぬ笑みを浮かべる以外の選択肢など。
ここは、トレスタ。力なきものを淘汰する、戦争の国。




