一章 緑の国 その五
自分のうちに過ごす生命に恵みをもたらす森の、絶対守護の力。
彼女が突如現れた光の壁に対して反射的に疑問を持った時、答えはすでに彼女の頭の中にあった。森の木々を操る力など、森を司どる彼女にとっては氷山の一角に過ぎなかったのだ。
「え……?」
彼女を包む優しい光に目を見張る少年を、慌てて飛び出してきた女性がかっさらっていく。彼をかばうように背中を丸めているものの、緑の髪の少女には危害を加える意志など毛頭なかった。
家の中から様子をうかがっていた人々も、それを知る由はない。そこらの窓からは魔女だ、魔女だ、という呟きが漏れていて、中には悲鳴を上げるものなどもいた。
人気もないのに、声だけがさわさわと響く無機質な道を、少女は再び歩き出した。彼女の動くに合わせて、彼女を卵に包むようになった光が動く。彼女は突然頭に浮かんだ答えをうのみにし、もはや疑問など皆無であった。面倒な周囲を遮断してくれる、彼女にとって肝要なのはその一点のみだ。
うすぼんやりと輝く彼女の前に、立ちはだかる者はもういない。
彼女の後ろに建った灰色のお城が、その頂上に同じ色の輝きが灯り始めたことに、気づくものもいなかった。
それ以降、彼女の森が燃えることはなかった。
しばらくして、彼女は再び、都市を訪れていた。寒さも厳しくなって、彼女は最初に来ていた黒のローブを着ていた。
あれ以来、彼女が道を歩けば波の引くように人が消える。戸が閉まる。
彼女が都市を訪れるたびにその傾向は強まって、おかげで彼女はすっかり困っていた。どこも、ものを売ってくれないし、それ以前にバスケットの中身を買ってくれないのだ。来訪の理由は相も変わらず食料であるから、彼女はほとほと困り果てていた。
今日もまた、街の中をぶらぶらとしていくだけ。なぜだか知らないが、ときたま彼女の心を乾いた風が吹き抜ける。その時通りかかった家の窓が開いていたなら、必ず人の死体があった。
生きるのも面倒になった人々のなれの果て。ぶらぶらと揺れるもの、口角から泡を吹くもの、カーペットを赤く染めるもの……。そのどれもが、彼女にとっては物だった。
それらを目にする頻度も、彼女は増えたように感じていた。それにつれて、どこからか差し込む緑の光がちらつく。
結局何を得るでもなく、彼女は帰路に着いた。彼女もひきこもるようになるまでに、そう時間はないように思えた。
けれども、そうはならないのが世の面白さ。
彼女は一人、街を歩く。以前にいた彼女を避ける人々はおらず、そもそも歩いている人がいない。
彼女は以前と変わらぬバスケットを提げていて、しかし、向かう先は以前とは違う。
「これ、もらっていくわ」
店先に並んだ干し肉のいくつかを手に取って、彼女は露天商の店主に声をかける。彼女もわざわざ彼の顔を見上げたりしないが、店主さえも彼女を視界に入れない。自分の売り物が買われていくのに、確認しない。
反応のないのはいつものことと、彼女は肉のあったところに持ってきたバスケットを置いて、踵を返してしまう。もちろん、貨幣の普及したこの都市で物々交換などされないのだが、彼は依然として布を張っただけの屋根の一点を見つめている。その頬は、遠目にもわかるほどにこけていた。
別に彼に感化されたとか、そういうわけではないが、店を離れた彼女は彼が見ようとしていたものに目を向ける。
そこでは、一本の若木が美しく、かつ妖しく、緑の光を放っていた。
彼女はまぶしさに眉を顰めるばかりだが、他の者は違う。先ほどの店主のように、その場に立ち尽くしたまま目を奪われていた。
そう、彼女の歩く道に歩く者はいない。いるのは、朝であろうと晩であろうと、そこに立ち続ける人々だ。彼らの口からは、柱時計か何かのように一定の間隔で、美しいという呟きが零れ落ちる。
その姿は、確かに美しかった。お城に絡みつくように伸びた根っこたちは、力強く、たくましい。空高くピンと伸ばされた枝たちは、未来に向かってゆく若者のような印象を与える。その身を包む葉っぱは冬の初めだというのに鮮やかな緑をしていて、蛍火のような、それでいて月のように都市を照らす光を持っていた。
その土台とされてしまった城はと言えば、だんだんと自身の鼠色を失い、茶色の樹皮をまとい始めていた。城はもう城としての機能を捨て始めていて、支配する側から支配される側へと、より怠惰な方へと移ろうとしていた。
少女はそんな城に羨ましそうな視線を送りながら、自分の家へと帰っていった。
――そして、時は訪れる。
突然のことであった。いや、内側で徐々に進んでいたことが急に見えるようになったから、だから突然に見えただけかもしれない。
ちょうど家にいた彼女は、ツタのカーテンをすり抜けた緑の輝きによって眠りから引きずり出された。重い瞼をごしごしとこすって、一応原因を確認しようとする少女。
彼女の目に移ったのは、いつのまにやら大きくなった若木、もう十分に大樹と呼べるそれだ。もはやそれは、城よりもはるかに大きい。その幹が少しずつエメラルドの輝きに染まり始めていて、強烈な閃光はそこから発せられていた。
彼女はあまりの光の強さに、視線を下に向ける。そして瞳に映ったものは、都市をのたうつ木の根の群れであった。何を求めているのか、ぐねぐねと未だに動き回り、もはや都市が覆われるまでに一刻の猶予もない。その根もまた、緑に染まり始めている。
眠りの余韻が消えて、彼女の意識がはっきりするころにはもう、穏やかな輝きに落ち着いた緑一色の大樹と化していた。
美しかった、ただひたすらに。
大樹は都市を埋め尽くしただけでは飽き足らず、蜘蛛の巣のように空にまで根を張って、天空に浮かんでいるかのようだ。
都市はもはや都市でなく、天空樹の栄養源の一つになり下がっていた。疑うまでもなく、そこに暮らす人々もまた命を落としたことだろう。
法を守ることを忘れて彼女を苛み、治安を回復することなど考えずただ家に籠り、果てには命すら投げ出すようになっていた彼ら。もはや誰もがその心臓さえも動かさないのだ。
私も死ねれば、どんなに楽だったろう。
彼女にはそのくらいの感想しかない。別に彼女にとって都市の人々など森に敷き詰められた枯葉に過ぎないし、都市を一つ滅ぼした大樹など、等しく興味の対象ではない。彼女の心には、いつかと同じ乾いた風が吹き抜けるばかりだ。
「カミサマ」
彼女は一人、呟いた。
「あなたって、めんどくさいわ……」
これでは、食料に困ってしまう。非常に面倒だった。
彼女であってもこんな面倒を押し付けられれば文句も言いたくなるようで、これが神の御業である確信など彼女にない。こんな適当なことをするのは神様くらいのものだろうと、そういう投げやりな理屈である。
彼女はぞんざいに頭をかきながら考える。何がしたいのかよくはわからないが、根っこである以上栄養を求めて都市を蹂躙しているに違いない。だとすれば、空にぴんと張られた、頭上の根っこの行方も分かろうというものだ。
きっとこの周辺の都市も同じように被害を受けるに違いない。だとすれば、ここが復興するめどなど、肉を入手できるようになるめどなど立ちはしない。
彼女はしばらくその場で考え込み、やがて結論した。
「……仕方ないわね」
彼女は家に入り、残った干し肉を取る。手に取ってしばらく固まったのち、地面から太い木の枝をはやして身長くらいの杖を作り、先端に肉をつるして肩にかけた。
家は主の旅立ちの意志を感じ取り、その身を地面の中へとうずめてゆく。
そう、彼女は旅立つのだ。食料に困らない、安住の地を探しに。
「はぁ……、本当に、面倒だわ」
ため息を吐きつながら、彼女の足取りはひどく重い。




