一章 緑の国 その一
見切り発車感は否めないですが、取り敢えずスタート
あるところに、一人の少女がいた。
『いた』であって、『生まれた』ではない。彼女は石造りの建物の間をこれまた石造りの道路がくねくねと貫く街並みの、露天商が立ち並ぶ活気づいた街並みの、その人ごみの中にいた。道行く人々の汗のにおいに、どこかの屋台で使われている香辛料の香りが滑り込む。そんな人ごみの中に、いつのまにやら、いた。
誰も彼女の出現に驚かない。彼女も自身の出現に驚かない。ただただ、彼女を奇異の視線が捉えるばかり。
彼女の風体は異質だったのだ。あまりに季節外れだったのだ。
道行く人の誰もが、木綿や麻などの素材に違いはあれど涼しげな恰好をしていた。彼女のように全身を布で覆っている者などいない。ましてや黒づくめの者など、おそらくこの国中を探したところでいないだろう。
彼女は黒いローブでその身を足先から首まで包み、頭には大きな黒い三角帽をかぶっていた。大人からはその顔はうかがい知れないが、子供ならば童顔にありったけの気怠さを塗りたくった様がよく見えただろう。反対のローブと帽子のつばの間からは、ふわりとした深緑の髪があふれ、猫背の上を滑り落ちて地面に届こうとしていた。
「暑い……」
彼女からこぼれた第一声。それは小さく、ただただ言葉通りの意味を持つばかり。彼女は太陽から逃げ出すように、重たい一歩を踏み出した。
彼女はどこへ行くべきか知っているような、しっかりとした足取りであった。歩くということ自体が初体験のように感じられるのに。
彼女の頭には確信があった。このまま進んでゆけば、どうにかなるという確信が。自分の名すら知らぬというのに。
視線の雨を潜り抜け、彼女の辿り着いたのは森の中。踏みしめれば葉っぱの悲鳴の聞こえるその地面に、木々の傘を潜り抜けた陽光が思い思いの模様を描いていた。
山の斜面にあるその森の中で振り向けば、後ろには先ほどまでいた町が彼女の視界に入ったことだろう。意外とその街の屋根はカラフルであるとか、街の真ん中にはひときわ大きな灰色のお城が自分と同じような帽子をかぶっているとか、そんなことに気づいたかもしれない。
けれど彼女の翡翠のような瞳には、森の木々しか映ってはいなかった。
彼女は何かを探すようにゆったりと視線を巡らせるが、結局は一番手近な木に歩み寄って、その幹を撫ぜる。がさがさとした木の幹の感触に、彼女は軽く顔をしかめる。
「ごちゃごちゃうるさいのは、あなたたち……?」
誰もいない森の中、彼女は語りかける。
——すると、緩慢に流れていた森の時が動き出した。
木々の葉はその身を擦り合わせて騒々しい音楽を奏ではじめ、そこらの土が血管が浮き出るように盛り上がる。果てにはひび割れた土の間から、その身を包む細かな毛を音を立てて引きちぎった、土まみれの触手が姿を現した。それは、普通ならば見ることの叶わぬ木の根っこであった。
やがて彼女の周りは、うねうねと立ち並ぶ太い木の根っこで占められる。
その中心に立つ少女は、ひとかけらの動揺だって見せはしない。ぞんざいに彼らを見渡して、言った。
「家を、作りなさい」
威厳の欠片もない少女らしい声色であったが、逆らうものはいない。根の集団はその身を寄せ合って、彼女が触れていた樹木をも取り込んでドーム状の家を編んだ。
「隙間が多いわよ」
彼女は出来上がった家の内部で、不平を漏らす。太い根っこが組み合わさっただけの無骨な家は、所々隙間があるのだ。
今度は彼女の触れていた木から細い枝がにょきにょきと伸びてきて、隙間まで進んで行ってはその身をもって隙間を埋める。幹を伝う蛇のようにツタが降りてきて、それがさらに細かい隙間を埋めていく。
「ちょっと、真っ暗じゃない」
もはや帽子も地べたにおいてくつろいでいるというのに、彼女の注文はとどまるところを知らない。
隙間の完全に埋まった家の中は、完全な暗闇で、出入り口すらなかった。森の木々はいそいそとその身を動かして、採光を試みる。
時折、その光が鋭く少女の目を刺して、ねちっこい恨み言が紡がれる。
彼女はそんな同居人の様子を眺めつつ、考えた。森の木々が動くこと、自分にはその声が聞こえるような気がすること、そして全くわからぬ自分の素性のことを考え、最後にこれからどうしようかと考えた。
ツタのカーテンがかかった出入り口と、枝のカーテンのかかった天窓ができるころには、彼女の思考には結論が出ていた。
誰にともなく、彼女はそれを呟く。
「あぁ……、めんどくさい」
多分のため息が含まれた、呟きであった。




