二章 赤の国 その四
季節は夏などとうに通り越して、涼やかな秋を迎えていた。燦然と輝く太陽が、トレスタの広場を照らしている。広場は半円状で、質素ながらも力強い装飾を施された建造物にその直径を接している。
現在広場には数多の人々が押し寄せて、老若男女の誰も彼もが建造物から突き出したバルコニーを見上げている。
やがて、一部で声が上がる。見えたのだ、風に揺らめく赤が。
どよめきは伝染し、あるものは喉が張り裂けんばかりに声をあげ、あるものは拝み、またあるものは涙する。行動は違えども、口にする言葉はただ一つ。
「「ザババ様!」」
それは現れた少女の二つ名。トレスタに伝わる戦の女神の名。名もなき彼女に与えられた、初めての名前であった。
「毎度毎度、うるせぇぞお前らぁ!」
文句を垂れる少女は、口調とは反面に笑みを浮かべて人々を見下ろした。何度目になるかわからない戦果報告、彼女はこの時間がお気に入りであった。
戦から戻ったばかりの彼女は、戦装束を脱いでいない。すでに多量の血で塗り固められたその鎧は、どれほどの血糊を付けていようと不安感を与えない。
耳に差した一輪の花を風に揺らし、彼女は自明の結果を高らかに叫ぶ。
「今度も、俺たちの勝ちだぁ!」
「「うぉぉぉぉ!」」
割れんばかり、という言葉は、今この時のためにあるのだろう。
それを受けた少女は、満面の笑みとともに拳を振り上げる。
「俺たちは無敵だ!」
彼女の声に、再びの喝采。
「ヤープですら俺たちには敵わない!」
少女の叫びの通り、もはやトレスタが相手取るのはピアンシェだけでない。ヤープもまた、トレスタの敵である。
何故、そんなにも敵を増やすのか。それは――
「理不尽な世界に、くそったれって唾吐きかけてやるぞぉ!」
「「おぉっ!」」
純粋に、怒りである。英雄たる少女の怒りは、もはや彼女個人の怒りではなかった。
彼女の怒りは変質していたのだ。自分の正体のわからぬ理不尽への怒りから、それ以上に理不尽限りない世界への怒りに。
変化がいつ起きたのか。それは少女自身にすらわからない。初陣で自分に一方的に屠られる敵兵を見て思ったのかもしれないし、こんなにも力強いトレスタなのに土地が痩せていることを知った時かもしれない。
結局いつのことであるにせよ、変わらないことが一つだけ。怒りを共有する者の出現が、変化を促した。この事実である。
一通り言うことを言って、彼女は壇上から降りる。小さな小さな声で、独り言ちながら。
「ザババか……、悪くないかもな」
それを聞きつけてちらりと視線をやった衛兵が、少女に腹を殴られる。
けれども彼は任務中。当然、彼女は鎧にしたたかに拳を打ち付けてしまう。少女の恨みがましい視線が衛兵に突き刺さった。
周囲でちらほらと漏れる笑いに、彼女は「けっ」とだけ残して、ずんずんと歩み去った。
その歩のはるか先、新たな戦場が待ち構えているのは、もはや言うまでもないだろう。
◇◆◇
黒煙立ち上る戦場で、同じく黒くなった人の山を眺めつつ少女は立っていた。先ほどまで燃え盛る炎に赤く照らされた街は、今では夕日に赤く照らされている。
熱気に逃げ出した寒さたちがこぞって帰ってくるものだから、彼女はすっかり日に焼けた腕をさすらずにはいられない。気を紛らわそうと口にする黒パンは、彼女の腹を満たすには程遠い。
「ザババ様!」
「うっせぇなぁ。隊長でいいって言ってんだろ」
かちゃかちゃと音を立て、部下の兵がやってくる。少女は首だけを回して彼を迎えた。彼の表情から答えはわかっているのだが、一応確認を取る。
「で、どうだった」
「はっ、残念ながら……」
「ちっ、どうなってんだ」
憎々しげな一言は、その矛先にないトレスタ兵すら縮み上がらせた。彼女はそれに気づき、手をひらひらと振って言う。
「あぁ、わりぃな。お前らのせいじゃねぇよ」
「お、恐れ入ります」
彼女が待っていた報告とは、街に蓄えられていた食料についてのものだ。現在、何においても重要な報告となっている。
トレスタは兵糧不足にあえいでいた。そこには二つの理由がある。
まず一つ、消費の増加。
少女の獅子奮迅の働きに背を押され、今ではヤープもトレスタの戦争相手となっている。何を隠そう、少女が立つこの地こそ、ヤープの領土である。戦線が広がっただけ必要な兵は増え、その分の食料も要求されていた。
「どうしたもんかなぁ」
彼女は空にため息を投げかける。
略奪が成功するならば、事態はここまで深刻ではなかっただろう。だが、侵攻すれどもすれどもこの街のようにたいした食料が得られないのが現状だ。
「ここのやつらはなんて言ってんだ」
「それが、知らないだの、面倒くさいだの、どうも最近になってとんと食料の輸送がないようです」
「兵も少なかったしな」
覇気というか、それ以前のやる気というか、そういった類のものが露ほども彼女には感じ取れなくなっていた。おかげで、軍の進みだけは恐ろしく早い。
ピアンシェは逆に目を血走らせていた。彼らは戦闘の後、そこに転がる死体を食うことさえして戦に臨んでいった。その有り余る食欲のせいか、トレスタが陥落せしめた場所にあった食物は食いつくされていたのだが。
「あのう……」
「なんだ?」
「やはり、トリューニヒトからの援助は回復しないのでしょうか」
「フェーンのやつらが関税を元通りにしない限り、あるいは俺たちがヤープかピアンシェを取らない限り、無理だって話だぜ」
彼女には難しい話であったが、それはトレスタの首脳部が頭を突っつき合わせて下した結論であり、また事実であった。今まで援助を受けていたトリューニヒトという国は、フェーンという中立国を挟んだ向かい側。交易ルートはフェーン、ピアンシェ、ヤープのいずれかを経由せねばならない。
「くそっ、フェーンは一体何を考えているんだ!」
拳をきつく握りしめ、兵士は不満を口にする。彼も、随分と痩せた。少女は自分の部隊をもらった時からの付き合いである彼の変化に、目ざとく気づいていた。
「まぁ落ち着け。最悪、俺がパパッとこの国を落としてやるから」
自分より背の高い彼の背を荒っぽくたたき、彼女はにやりと笑って見せる。
「――っ! はいっ!」
実のところ、彼女には自分一人ではそんなことはできないだろうという確信があった。けれどもそれと同時に、自分にできるのはこれだけだというのも知っていたのだ。
「伝令! 伝令!」
弛緩した二人の空気を、切迫した叫びが切り裂く。
「何があった!」
「空を……、空を見てください!」
駆け寄りながら、兵士は虚空を指さしていた。少女が目を凝らしても、石造りの建物のふちを鮮やかに光らせる夕焼け空があるばかり。確か、向こうはヤープのある方向だったか。
「何もないじゃねぇか」
「違います!」
目の前に立って息を切らす兵は言う。
「来るんです!」
「はぁ?」
眉をひそめてとんだ慌て者を眺める彼女の隣、ともに首をひねっていた男が口をパクパクとさせる。
「あぁ? お前まで何を……」
再びに空へと視線を戻し、彼女は『来る』という言葉を理解した。
緑の光がやってきた。じわりじわりと赤を押しのける。
緑の線が現れた。その長さを延長し、ずんずんと育っていく。太っていく。
「ッ! 来るぞ!」
少女は呆気にとられた二人を引っ張って走り出した。
背後に、聞いたことのないほど大きな落下音を聞く。
「木の根⁉」
緑に光りながら、そこにはトレスタには少ない樹木の趣があった。
それは、生命を宿したかのように大地をのたうつ。轟音とともに家々を瓦礫の山に変え、死体の山を吹き飛ばし、四方八方に魔手を伸ばす。
少女と二人の兵も、標的の一つだ。
「ザババ様! あれはいったい……」
「言ってる場合か! 走るんだ!」
街の各所で、悲鳴が聞こえ始めた。あのうちの幾つが自分の部下なのかと、彼女は考えずにいられない。
「理不尽じゃねぇかよ……」
緑の大蛇は、無情なまでに速かった。振り返れば、跳ね飛ばされた石片が少女の顔を襲う。
バケモノの通った後が、緑に光る。少女はやつが周囲を取り込みながら進んでいると、本能的に理解した。
死体が一つ、目の前に落ちた。それを避け、脇を抜けようとする三人。誰も、黒焦げの死体が緑に光り始めていたことに気づきはしない。
「うわぁ!」
根の襲来を告げた兵が突如前のめりに倒れこむ。
死体から、枝葉が伸びていた。それが彼の足に絡みつき、引き倒したのだ。
少女の堪忍袋の緒は、音を立てて引きちぎられた。
「あんま調子乗ってんじゃねぇぞ!」
彼の足首に絡みついたものを手ずから焼き払い、少女は大蛇と対峙する。
「ザババ様⁉︎」
「さっさと逃げろ!」
二人の兵士は彼女の意図を悟り、もはや後ろを振り返らなかった。一度は死の沼に足を突っ込んだ彼でさえも。
小さな背中で二人の期待を受け止めた彼女は、ぐっと石畳を踏みしめ、両の手に炎を灯す。乾いた唇を、舌でなぞる。迫る緑に闘志を高める。
五歩、三歩、一歩……
完璧なタイミング。突き出した彼女の手は、敵を焼き焦がすはずだった。
「なぁっ⁉」
しかし、それは彼女を避けた。ぶちぶちと言いながら真ん中で二つに割けて、彼女を素通りした。双頭の蛇はその速度を増し、彼女の守ろうとした兵を追う。
徹底的に少女を無視する行動。彼女の神経をこれほどまでに逆撫でるものはないだろう。
「ざけんな!」
腿から抜き取った短刀を投げる。そして、彼女は双頭の付け根に引き潰され、死んだ。
新たな死体が緑に侵されるのと、短刀から陽炎が生ずるのは同時であった。揺らめきの中に実体を得た赤髪の少女は、慣性のままに蛇の頭に肉迫する。
彼女の手が、触れた。
少女の顔に凄惨な笑みが浮かぶ。
一瞬で火の手がまわり、音を上げて根が燃える。凄まじい赤が一瞬で緑をかき消す。
惜しむらくは、あまりに苛烈すぎたこと。
「ぎゃあ⁉︎」
その悲鳴は、ぱきっという音に続いた。
黒焦げの表面を割り砕き、細い木の槍が飛び出したのだ。
腹から突き出した異物を、それを包む鮮やかな液体を、兵士は信じられぬように手で触る。少女にはその背中しか見えない。表情など、伺い知ることはできない。
瞬きののち、彼女の目に映ったのは炎の色よりなお深い、そんな赤色の飛散。彼女の口に生暖かな何かが飛び込み、鉄臭さが鼻を突き抜ける。
弾力のあるそれを飲み込むわけにも、噛みしめるわけにも、吐き出すわけにもいかなかった。彼女の思考は停止する。
着地の衝撃がその思考を引き戻すと、彼女は地面にうずくまって嘔吐していた。
びちゃびちゃと飛び散る胃液の音に、新たな悲鳴が重なった。
初めての敗北だった。
彼女は未知の感覚に対し、行動を起こすことができない。胃液に痛む喉を咳き込ませながら、涙の滲んだ目で周囲を睨み付けるばかり。
彼女を避けて、根っこはさらなる獲物を探し蠢く。彼女は、あたかも自分が嘲笑われているように感じていた。




