毛利元就 厳島の戦い 村上通康の決断
弘治元年(1555年)の9月30日、まだ冬の気配は感じられない瀬戸内の晩秋、安芸の国の南に位置する厳島。
瀬戸内海の村上水軍の一派、来島を拠点とする来島水軍の大将、村上(来島)通康は船の上から北の方向、遠くに見える厳島を見つめていた。
陶晴賢と毛利元就、この両者が、決着をつけようとしている。
勝敗は初めから見えている。
陶晴賢の勝利。
旧大内家の武功派重臣の筆頭である陶晴賢が、2万5千の兵を率いて、5千にも満たない毛利軍を叩こうとしている。
毛利家の当主、毛利元就が、いかに権謀術数の名将の呼び声高いとしても、陶晴賢もそれに劣らぬ名将。
おそらく、陶晴賢が毛利家を完膚なきまでに叩きのめすことになるであろう。
これはいくさではない。
処刑であった。
村上通康は、そこまで思いを巡らせたあと、頭の中の考えが前日から何度も気になっていたひとつの事に立ち戻った。
数日前、この来島水軍に毛利家から使者が訪れた。
もちろん、援軍要請のためである。
村上通康率いる来島水軍に味方をしてもらい、大きな兵力差を少しでも埋めようという毛利家からの協力要請であった。
来島水軍には、過去に厳島における警護米(海の関所料のようなもの)の徴収権を陶晴賢に奪われたという事情があるため、毛利の使者を無下に追い返すわけにもいかなった。
だが、当然、陶晴賢からも使者はもうすでに来ている。
陶晴賢からは厳島における警護米の徴収権を戻すことを条件に味方するように説かれていた。
結論は決まっていた。
勝ち馬に乗って、厳島の警護米を取り戻す。
村上通康は、毛利の使者が陶方を上回る条件を提示したとしても、体よく断るつもりでいた。
通康は毛利の使者と対峙した。
「我が当主、毛利元就からの書状を預かって参りました。」
「見せてみよ。」通康は近習の者に合図し、使者から書状を受け取った。
書状を見ると、この戦いの義が毛利にあること、毛利が勝利を収めたのちには、厳島の警護を任せるということ、そして、そのために『1日だけお味方いただきたい。』と書かれていた。
通康は首をひねった。
『これはどういう意味だ。』とは心の声である。
「この書状には1日だけ味方を願うと書いておるが、1日だけでよいのか。他の日は味方せずともよいのか。」
「我が当主からは『書状に書かれている通りと答えよ。』と命ぜられておりまする。」
通康はその答えに沈黙した。
「では、いつだ。」
「は」使者は尋ねた。
「ここに書かれている1日というのはいつの1日だ。明日か、明後日か、それとも何月何日のことだ。」
「は」使者は答えた。「わが主、毛利元就は、村上様が当然そうお尋ねなさるだろうと話されておりました。」
「ほう、」道康は頷いた。「して、では、いつなのじゃ。」
「は」使者は神妙に頭を下げ、「それにつきましては、『いくさを見ていただければわかる』とのこと。」と答えた。
「むう。」通康はうなった。
『毛利元就に、何か策があるということか。』
通康の頭の中に、この確信が広がった。
人にものを依頼するときは、当然のことであるが、具体的であればあるほどよい。
漠然と、「仕事を手伝って」、と言うより、具体的に「この作業をこう手伝って」と言った方が、相手にも伝わりやすい。
それは、また同時に、その仕事を依頼している人間が、その仕事のことをよく理解し、明確なビジョンを持っているということでもある。
陶晴賢はただ、「味方をしてくれ」と言うだけであったが、毛利元就は「1日だけ味方をしてくれ」と依頼してきた。
毛利元就は1日でいくさに決着をつける明確なビジョンを持っているということであった。
『だが、どのような策があるというのだ。』
『待てよ』通康はそこでひらめきを得た。
通康は毛利の使者に対して向き直った。
「元就殿には、この通康が『あい、わかった』と申していたと伝えよ。」と答えた。
その場に居合わせた重臣達が動揺の様子を見せた。
使者は、「はは、ありがたきお言葉、早速わが主にお伝え致します。」と安堵して答えた。
毛利の使者が帰ったあと、重臣達は通康に「先日、陶晴賢の使者にも味方すると約束したばかり。どういうことです。」と詰め寄った。
通康は、皮肉な笑みを顔に浮かべ、毛利元就からの書状を見せて、答えた。
「毛利に味方する必要はない。なぜなら、味方するつもりだったが、その『1日』がいつのことか分からなかったと答えればいいだけのこと。」
重臣達は、通康と同様に「なるほど」と、もう帰ってしまった毛利の使者をあざ笑うような表情を見せ、納得した。
「馬鹿な毛利元就よ。」
通康の方針はそこでも決まっていた。
勝ち馬の陶晴賢に味方し、厳島での警護を取り戻す。
だが、気になって仕方がなかった。
『毛利元就の策とはいったいどのようなものなのか?』
通康は再び、北の方の厳島をおもむろに見つめた。
「おやかた様、今夜は嵐が来ますぜ。」一人の船がしらが、通康に話しかけた。
「このまま沖で、いくさの様子を見守るのは危ねぇです。どうしますかい。」
船がしらに指摘されて、通康は西の方角に視線を移した。
西の空には、どす黒い厚い雲がはっきりと見えていた。風も西に向かって強く吹き始めていた。
「嵐の日に船いくさをする馬鹿はいまい。我等の仕事は船でのいくさ。全船に能美島のアジトに戻るよう、伝えなければならぬな。」
「へい。」
通康の命により、沖に出て、陶軍と毛利軍のいくさの状況を探り見張っていた船のすべてが続々と能美島のアジトに戻った。
通康は、帰還した船がしら達から、詳しい戦況の報告を聞くことができた。
陶晴賢の軍は全軍を厳島に渡し、厳島にある毛利家の城、宮尾城を攻め始めて数日が経過していた。
そしていよいよ、嵐の日の翌日、明日に、一斉攻撃にて攻め落とす予定であるらしかった。
毛利元就はこの陶晴賢とのいくさを前に、厳島に宮尾城を築城した。
戦略は予想できる。
安芸の国に入った陶軍を毛利の城、吉田郡山城で迎え撃つことになると、厳島の宮尾城は陶軍にとって、背後になる。 宮尾城に兵を入れておいて、背後から陶軍を襲い、陶軍を挟み撃ちにする、という策であることは明白であった。
策としては悪くないが、あからさまなのがよくなかった。
その策ならば、厳島には城は築かず、兵を配置して隠しておくだけでよい。
城まで造ってしまっては、毛利軍が厳島から背後を狙っていることを敵に知らせるのも同然である。毛利元就も知恵の働く武将ゆえ、宮尾城を築くのではなかったと、後悔していると伝え聞いている。
従って、一方の陶晴賢の戦略方針は、まず第一順序として、厳島にある宮尾城の毛利勢力を一掃することとなる。
それで背後を安全とする。
そして、現実の展開もその通りになっていた。
陶晴賢軍は、宮尾城を攻略するため、全軍をまず、厳島に渡らせていたのである。
『しかも、天候が陶晴賢に味方している。』通康はそう思った。
嵐のタイミングを利用し、宮尾城を総攻撃すると、毛利家は嵐のため、宮尾城に援軍を送ることができなくなる。
規模の小さい方の勢力が、分断され、更に兵力をそぎ落とされることになるのである。
『このいくさ、やはり、陶晴賢の勝ち。』
空が暗くなって、風が更に強くなってきた。
船がしらの言うとおり、今夜は嵐になるのは確かだった。
『だが、この嵐は明日の夜明けには収まっているだろう。』
『勝ち馬に、乗り遅れてはならぬ。』
陶晴賢は夜明けと共に毛利軍の宮尾城を攻撃するはず、この来島水軍がそのいくさに遅れては、陶晴賢との約束を果たさなかったことになる。
『嵐が収まってからでは遅い。嵐が弱まってきたら、すぐに出港しなければならないだろう。』通康はこう思った。
「皆の者にいつでも出港できるよう準備しておくよう伝えよ。」通康は全軍にそう指示しておいた。
嵐は、予想通り夜半過ぎには弱まってきた。
通康は、船がしら達と相談しながら、ギリギリ出港できる波の収まりを待った。
そして、
「全軍、出発。」通康は命令を下した。
来島水軍は一斉に厳島に向かって出港した。
通康は空を見て、『この分だと、夜明け前には厳島に着けるだろう』と予測した。
陶軍と毛利軍の戦いの口火である、宮尾城戦に間に合えば、いかに圧倒的勝利となる陶軍においても、この来島水軍の貢献を軽んずるわけにはいかない。
このいくさ、大勢が決する前に陶軍に合流すること、これが最も重要な要素であった。
波が更に落ち着くと、通康はさっそく、早舟を出させた。
「厳島の様子を逐一、報告せよ」
「おお」兵達も血気に逸っていた。
たとえ、天候が悪くとも、海がまだ夜の闇に包まれていようとも、この海域については知り尽くしている者ばかりである。
確かに波はまだ荒れていたが、これからは徐々に波が収まっていくという確信とこれよりひどい波にも誰もが一度は経験しているという自信とが、この一大事を前にして兵達を迷いなく突き動かしていた。
通康はそんな兵達を頼もしく感じた。
「さぁ、いよいよ、いくさが始まるぞ。」道康自身も気持ちが引き締まる思いがした。
厳島に近づくにつれて、空が明るみ始めていた。
波も確実に収まってきていた。
ちょうどそのころ、偵察に出した早舟の第一報が返ってきた。
「厳島に何らかの動きあり。」
これが第一報であった。
「?」
通康は考えた。
もしかすると、陶晴賢軍が夜の闇をついて、宮尾城を攻めたのかもしれなかった。
「艪を早めよ。」
「おお」
『急いだ方が良い。』通康は直感した。
偵察船の情報は続々を寄せられ、詳細が分かってきた。
毛利元就軍五千が、闇夜に嵐の中をおして、厳島の包ヶ浦に渡り、そこから博打尾に登り、陶晴賢軍が駐留する厳島神社、塔ヶ岡の背後に迂回して、そこから一気に陶晴賢軍に対して夜襲をかけたのであった。
厳島に渡って、宮尾城は楽勝と安心しきっていた陶晴賢全軍は、突然の奇襲に周章狼狽し、全軍総崩れとなり、本土へ敗走しているということであった。
通康は戦慄した。
「おやかた、ど、どうなさいますか?」重臣達が震える声で指示を求めた。
勝ち馬は陶晴賢だと、思い込んでいた。
それが、毛利元就になろうとしていた。
道康の心の震えは止まらなかった。
目の前が見えているのに見えなかった。
家臣の声も聞こえているのに聞こえなかった。
その場で二本の足で体を支えることだけはかろうじてできた。
方針は決まっていた。
勝ち馬に乗って、厳島での徴収権を取り戻す。
その時、通康の頭の中に言葉がよみがえった。
「1日だけお味方いただきたい。」
毛利元就の言葉。
それは救いの言葉でもあった。
「そうだ!」
通康は叫んだ。「今日だ。この時をおいて他にはない!」
「そうだった。」
「俺は元就と約束していたのだ!」
通康は重臣達、そして周りにいる家臣達をグッと睨み、大声で叫んだ。
「皆の衆、我等が交わした毛利家との約定、ここにその約束の1日が判明した!それは、本日である!
われら来島水軍は、毛利家との約定通り、本日1日限り!毛利家に味方する!!
よって、ただちに厳島に急ぎ、逃げ去る陶晴賢軍を完膚なきまで、追撃するのだ!
陶晴賢軍を一人も逃すではないぞ!
よいな!」
「はは!」この情勢になって、通康の方針に逆らう者など誰もいなかった。「おお!」
「急げ!」
「はは」
『早く!』通康は逸る心の中で叫んだ。
厳島から逃げ去ろうと慌てふためいている陶晴賢軍2万5千に、海上から、来島水軍が突如として襲いかかった。
陶晴賢軍にとっては、援軍の到来と期待した来島水軍が、なぜか自軍を攻撃してきたのである。
それは許しがたい裏切りであった。
だが、陶晴賢軍にはその衝撃的な裏切りに反撃する気力さえ、残っていなかった。
陶晴賢軍はなすすべもなく、一掃されていったのである。
通康はふと思った。
「陶軍がこんな状態であるなら、我等が味方せずとも、毛利軍だけで追撃できたのではないか?」
それほどに、陶晴賢軍の戦意は喪失していた。
毛利軍の大勝利。
そして、その勝ち馬に乗ることができたのだ。
結果的にではあったが、通康は元就の依頼を引き受けておいてよかったと思った。
通康は、毛利元就のいるであろう厳島の方を見た。
それは、東の方向、これから登ろうとする朝日を見ることにもなった。
もちろん、毛利元就の姿が見えるわけではなかった。
だが、東の水平線から昇る朝日の中の厳島に、いるであろう元就をはっきりと感じることができ、その元就が通康を見ていることが感じられた。
このいくさ、毛利元就の思惑通りであった、と考えれば、考えられないこともなかった。
だが、果たして毛利元就は自分を勝利をはじめから確信していたのか。
そんなはずはない。
偶然、幸運だ。
では、なぜ、毛利元就は、この村上通康に、1日だけ味方して欲しいと依頼してきたのか。
何か策があったのだ。
毛利元就の策とは、敵を厳島に引き寄せて、夜襲をしかけることではなかったのか。
それなら、この来島水軍に、1日の出番さえもない。奇襲に援軍など必要ないのだ。
この時がそうであった通り、誰がやっても成功するダメ押しの追撃戦に参加するだけのことである。
村上通康にはわからなかった。
自分が率いる来島水軍に何が起こったのか、この村上通康に何が起こったのか。
この毛利軍と陶軍のいくさで何が起こったのか。なぜこうなったのか。
全くわからなかった。
その原因のすべては毛利元就であった。
そして、最もわからなかったのが、毛利元就という男であった。
それゆえ、通康は毛利元就という男が恐ろしくなった。
その底知れぬ、わからなさに、おそろしくなったのである。
「毛利元就、恐るべし。」
中国山陽山陰にあっては、これから毛利元就の時代が続くのかもしれない。
そして、この来島水軍は毛利家に従うことになるだろう。
通康は、朝日に向かって、跪き、祈った。
家来達は、その姿を来島水軍が何とか勝ち戦にしがみつくことができた幸運を感謝する姿だと解釈した。
だが、それは、元就のいる厳島の方向でもあったのである。