いつの日かまた君と
昔、あるところに一人の少女がいた。彼女は、生まれつき目が見えなかった。けれど、彼女にはある能力があった。それは、心を読む能力。その能力の前では、誰もが隠し事を暴かれてしまう。
だからこそ、人々は彼女を迫害した。けれど、彼女は全てを見極めていた。
人々の心に溢れていたのは、憎悪と恐怖と嫉妬と羨望……それら以外の感情も、全てが混じり合ったものだった。
少女はそれが嫌だった。自分がいるせいで、人々が負の感情に呑まれることこそが、彼女にとっては何よりも辛かったのだ。
だからこそ、彼女は人里離れた山奥へと居を移した。ひっそりと、誰の目にもつかないようにしながら山小屋の中で過ごす。
そんな日々を送っていたある日のこと、彼女は森の奥で人の気配を感じた。
(誰……?)
微かに思念を感じるが、これまでに触れたことのない類のものだった。それに少しばかり興味を惹かれた彼女はそちらへ足を向かわせる。
すると徐々に気配が強くなっていく。しかし、その気配というのも弱弱しいものだった。少女はその人物が死にかけているというのを本能的に察知したのか、杖を突きながらも、急いでそちらに足を向かわせた。
やがて気配を感じていた場所に到着するなり、彼女はそっと口を開いた。
「もし、誰かいるのですか?」
「うぅ……」
ふと聞こえた声に彼女はハッとして意識を集中させ、気配を探っていく。それからそちらまで駆け寄り、再び問いかけた。
「私の声が聞こえますか? 立てますか?」
「……いや、立てそうにない」
渋い声だった。彼女は暫しグッと唇をへの字に曲げた後で、その人物の体を抱きかかえた。しかし、やはり女性の力で担ぐことは難しい。半ば引きずるような形になりながらも彼女は自分の小屋までその人物を運んでいった。
途中何度も転びそうになりながらもやっとの思いで到着し、彼女はすぐに家に入ってその人物を横にさせる。
「大丈夫ですか? 怪我ですか? 病ですか?」
「……いや、ちょっと……腹が減った」
少しばかり恥ずかしそうな声を聞き、少女は苦笑する。それから近くにあった戸棚からあらかじめ作っておいた干しイモを取り出すなり、彼に渡した。
「食べられますか?」
差し出された干しイモを見るなり、その人物は目を輝かせてそれにかぶりついた。先ほどまで息も絶え絶えだったというのに、すさまじい勢いでそれを完食する。
「どうもありがとう。助かりました」
「どういたしまして。ところで、あなたはどこから来たのですか?」
「僕は……都の方から来ました」
言われて、少女は首を傾げる。都といえば、ここからはだいぶ離れている。それに、彼女がいる山――引いては近くにある村は辺境だ。こんなところに来るものなど、よほどの物好きでしかない。
けれど、少女は疑問を胸に秘めたまま語りかける。
「あの、あなたのお名前は?」
「僕は……邑楽。君は?」
「私はイズナと言うの。よろしく」
邑楽は少しばかり戸惑った様子で口を開いた。
「あの、君は目が見えないの?」
「ええ、そうよ」
イズナは即答した。が、次の瞬間には自分の目を指さしてみせる。
「でも、私には見えるのよ。あなたの心が」
彼女はふっと意識を集中させた。すると、徐々に彼の心が明らかになっていく。
『心が読める? まぁ、どうせ冗談だろうな』
「冗談じゃないわよ」
「――ッ!?」
核心を突かれ、邑楽は飛び上がり、目を見開いてみせる。その気配を肌で感じながら、イズナは再び意識を集中させ、またしても彼の心を覗く。
『心が読めるだって……? まさか、この子も物の怪の類か?』
「私は物の怪の類じゃないわ。それより、この子もってことは、あなたは物の怪なの」
そこで邑楽はグッと息を呑み、諦めたように口を開いた。
「……そうだよ。僕は物の怪だ。見るもおぞましい、鬼だ」
そう。彼は鬼だった。と言っても、身長は人と同じくらいで、筋骨隆々といった感じではない。どちらかと言えば、線が細い印象を受ける鬼だった。
実のところ、彼がここに来たのもそういうことである。今、都は鬼たちが支配しているのだが、彼はそこでの争いに敗れた。だからこそ、落ちぶれてここまで来たのである。
彼は無意識のうちにそれを思い起こしてしまった。無論、その考えはイズナにはお見通しである。そこに秘められた深い悲しみを受け取ったからか、彼女は深く頷いた。
「大変だったでしょう? しばらくはここにいていいわよ」
「えっ!? 正気かい? 僕は、鬼だよ?」
「そうね。でも、どうしてそれが泊めない理由になるのかしら?」
「だ、だって鬼と言ったらおぞましく凶暴で……」
彼の言葉の途中で、イズナはクスリと笑った。それから彼女は目尻を指で拭い、補足を入れる。
「ごめんなさい。悪気はないの。でも、さっきからあなたの心を読んでいて、嫌なものを感じなかったから」
「嫌なもの?」
「そう。嫌なもの。村の人たちは、いつも私に負の感情を抱いていたわ。でも、あなたは違う。私にそんなものを向けなかった」
「まぁ、心を読む物の怪はいるし、慣れているから」
その返しにイズナはまたもクスリと笑った。
「不思議な人。あなたさえ良ければ、ここにいてくれていいわ。ほとぼりが冷めるまで」
「なら、お言葉に甘えさせてもらうよ。でも、僕にできることがあったら何でもやるから」
「ありがとう」
その時彼女が見せた笑顔に、邑楽は思わずドキリとしてしまう。
鬼である自分に笑顔を向けてくれたものなど、これまで一人もいなかったからだ。
彼はもともと赤い顔を真っ赤にさせつつ俯く。その心を読み取ったらしきイズナは、またひとりでクスクスと赤子のように笑うのだった。
それから一か月が経とうかという頃、二人はすっかりその生活に慣れていた。力仕事や目が見えなくてはできにくい採集や調理などは邑楽が担当し、イズナはそれができるのを待つだけ。流石に自分も何かしたいと思ったか、彼女が当番制での家事を申し出るとイズナはキッパリとこう言った。
「ダメだ! 僕は居候の身なんだし、君は心が読めるだけで目は見えないんだろう? だったら危ないことは僕に任せてくれ!」
そこまで堂々と言われてしまってはどうすることもできなかったのか、イズナはそれに同意を示した。彼は会心の笑みを浮かべながらまた家事に戻っていく。
(それにしても、優しい人)
イズナは当初、彼の優しさに困惑していた。生まれてから一度も優しくされたことなどなかったのだ。
『めくら』と罵られ、『化け物』と蔑まれてきた。けれど、邑楽は違った。
彼女を一人の人間として扱ってくれていた。それは当初彼女にとって未知の感覚だったが、心を読んだ時に伝わってきた温かい思いからそれが偽善ではないことがわかったのである。
イズナは次第に彼に心を惹かれていった。それは邑楽も同じだ。彼も種族の垣根を超えて彼女のことを愛していたのである。
そんなある日のこと。邑楽が家に帰ると、イズナの姿はどこにもなかった。
「イズナ?」
彼は首を傾げつつ、辺りを見回す。だが、彼女はどこにもいなかった。
途端、彼の全身を悪寒が襲う。邑楽は顔面を蒼白にして家から走り去っていった。
鬼族特有の嗅覚を使って彼女の後を追っていく。彼女の匂いが続いている場所は――崖がある方だった。
「まさか……ッ!」
脳内に浮かぶ最悪の想像を払いながら、彼は足を速めていく。そうして崖がある場所へ着くとそこには――崖の先端に腰掛けるイズナの姿があった。
「イズナ!」
彼は叫びつつ、彼女の方に寄る。するとイズナはふっと頬を緩め、優しく微笑んだ。
「あら、邑楽。どうしたの? そんなに血相を変えて」
「どうしたもこうしたもないよ! 君がいなくなったからもしかして……」
「死んだと思った?」
イズナはそっと彼の方に体を向けて、両手を前に突き出した。まるで、彼を迎え入れるように。
「私は死なないわよ。だって、幸せだもの。あなたと一緒にいたいもの」
「僕もだよ。だから、怖かったんだ。もし、君がいなくなったらって思うと、どうしようもなく怖かった……」
邑楽は彼女の手を握りながらがっくりとひざを折る。安堵からだろう。彼の目からは涙がこぼれていた。
イズナは指の腹で涙を拭ってやりながら、告げる。
「邑楽。私はあなたが好きよ」
「ああ、僕も好きだ。大好きだ」
「知ってる」
彼女は少しだけ意地悪っぽく笑い、それに邑楽は苦笑した。
「ずるいな。君は全てが見えるんだから」
「全ては見えないわ。私が見えるのは、内面だけ。対して、あなたが見えるのは外面だけ。中々どうして、お似合いだと思わない」
イズナは満面の笑みを浮かべて彼の体を抱きしめた。それに邑楽も応え、彼女の体を優しく抱きしめる。
「もっと強くしてもいいのよ?」
「ダメだよ。鬼は強いんだ。君の身体なんか折ってしまう」
「それでもいいの。あなたをもっと感じたいの」
「……わがままだね」
「ええ、そうよ」
邑楽は言われるがまま、少しだけ抱く力を強める。彼女の温かさと柔らかさ、そして匂いに包まれながら、邑楽はそっと目を閉じた。
「この時が永遠に続けばいいのにね」
「そうね。そう思うわ」
「僕も人間だったらよかった。そしたら君をもっと力強く抱きしめられるのに」
「私は鬼だったらよかった。そしたらあなたともっと一緒に生きられたのに」
その言い方に、邑楽は引っ掛かりを覚えた。けれど、胸元にいる彼女は幸せそうに微笑んでいる。それを見ると、脳内に浮かんでいた考えはどこかへ行ってしまった。彼はごくりと唾を呑みながら、口を開く。
「あの、さ。イズナ」
「言わなくてもいいわ。いいわよ」
「また心を読んだのか……」
「ごめんなさい」
邑楽は口の端を吊り上げつつ、更に何かを口走ろうとする彼女の唇を強引に塞いだ。下を絡ませ、唾液を交換し合い、それから二人はそっと顔を離す。
「イズナ。愛してる」
「邑楽。私も愛してる」
ここにいるのは鬼と人。見た目も何もかもが違う。けれど、二人は幸せそうに抱きしめあっていた。
翌日、邑楽は上半身を起こした状態で大きな欠伸をしていた。横には、ぐっすりと眠るイズナの姿。すでに日は高く上っている。彼は壁にかけてあった上着を着て、それから鉞を持って出ていく。
と、そこでふと足を止めて家の方に向きなおり、
「行ってきます、イズナ」
そう言って朝の日課であるまき割りへと出かけていった。
――それから数時間後。昼飯を取るために帰ってきた邑楽は鉞を玄関に立てかけてから中に入る。イズナはまだ布団に横になったままだった。
彼は苦笑しながら、そちらに寄る。
「イズナ。もう朝だよ」
返事は、返ってこなかった。
違和感を覚えた邑楽は彼女の頬に手をやって、顔面を蒼白にさせる。彼女は、高熱を出していた。しかも、苦しげに呻いている。
「イズナ!」
彼女は、うっすらと目を開けてゆっくりと口を開いた。
「邑楽……おはよう」
「そうじゃない! 一体、何があったんだ!?」
そこまで言ったところで、ようやく彼は気付く。昨日、彼女が言っていたことの意味を。
(もしかして、イズナはこうなることが……?)
「ええ、そうよ。わかってた」
イズナは掠れる声でそう言って、涙を流す。
「ごめんなさい……本当なら、あなたに黙っているつもりだった。あの時だって、あなたが来る前に飛び降りて死のうかと思った」
「な、何で!? どうして!?」
「だって、あなたは苦しむ私を見たら泣いてしまうから。でも、飛び降りることはできなかった。そうしても、あなたは泣くと思ったから。それに、もっとあなたといたいと思ってしまったから」
「イズナ……ッ!」
邑楽はそこまで言ったところで、きっと眼光を強めた。
「待ってて! 今僕が村に下りてお薬を取ってくるから!」
「ダメよ。そしたら、あなたは退治されてしまう。それに、わかるの。私はもうすぐ死ぬわ」
「そんな……」
けれど、鬼である邑楽には本能的に理解できていた。彼女はあと少しで死んでしまうと。だからこそ、黙り込んでしまう。彼は、悲痛な声を漏らしていた。
イズナは彼の頬に手をやりながら、呟いた。
「私は幸せだったわ。あなたと出会えたんだもの」
「僕もだ。君がいてくれてよかった……」
そこで彼は言葉を詰まらせてしまう。涙を流す彼に、イズナは続けた。
「言わなくてもわかってるわ。だって、心が読めるから」
「君は、本当に、ずるい人だね」
「ええ、そうよ」
いたずらっぽく笑う彼女に、またも邑楽は笑いをこぼす。
「――ッ! げほっ!」
「イズナ!」
突如大量の血を吐いた彼女の手を、邑楽は必死に握る。イズナは掠れる声で告げた。
「優しい人……ありがとう。私の愛しい、鬼……」
「イズナ? イズナ!」
もう彼女は息をしていなかった。邑楽は彼女の体を抱きしめながら涙を流す。
(優しいだけじゃ何もできない……僕は、大好きな人を救うことができなかったッ!)
邑楽は絶叫し、悲痛の涙を流した。そうして、彼女の冷たくなった体を力いっぱい抱きしめた。
「もっと抱きしめてあげればよかった! 僕は、僕は本当に馬鹿だ! ごめん、ごめんよ……」
邑楽は大粒の涙をぼろぼろとこぼしていた。それは彼女の頬に落ちていく。イズナは、とても幸せそうで、まるで眠っているかのように逝っていた――。
翌日、彼女を埋葬し終えた邑楽は土饅頭の前で跪く。
「イズナ……いつでも帰っておいで。僕はいつでもここで待っているから。鬼の寿命はとても長いんだ。だから、生まれ変わってきたら、絶対に会いに来て。僕は、今度こそ君を救ってみせるから」
邑楽はそれだけ言って、立ち上がる。その瞳には、力強い覚悟が満ちていた。
彼はどこへともなく歩き出す。いつの日か、彼女とまた会えることを願いながら。