まだ、筋肉痛は次の日にやってくる
生温かくなってきた風も、ひんやりとした空気に変わる。夜更かし組の家灯りと街灯が照らす街は、いつもと違う雰囲気につつまれていた。聞こえてくる音も、匂いも、見える景色も、なにもかもが独特であり、いつもとは違う自分が見知らぬ街にいる気分になる。
ナルシストなのかもしれないが、いつもと違う自分に浸るというのは気持ち良いものだ。
真冬の大雪の時期に窓を開けて、温かいコーヒーの湯気と一緒に楽しむ。または雨の音をBGMに、ただひたすらモノクロの世界に魅入ったり。たぶん、今世界とは別の時間が流れていると思うのが好きなのだろう。
今回もそうだった。もう時期的には春ではないのだが、朧月が浮かんでおり、誰が喋っているのかもわからない地方のラジオを聞いていた。
盛り上がるパーソナリティとメールの住人だが、オレはこのラジオを初めて聞くので、妙な疎外感を味わっていた。そんな中『改正道路交通法』という言葉が耳に入った。そういば、6月から自転車の取り締まりが強化されるという話だったことを思い出す。
なぜだろう。ふと何年も乗っていなかった自転車に乗りたくなった。しかし、ただ自転車に乗るのは面倒臭い。コンビニに行こうか、24時間やっているスーパーに行こうかと、とにかく何か理由を探していた。時計に目をやると深夜の一時。良い具合に小腹が空く時間だ。自転車と同じくらい接点がなくなっていた弁当屋がある。あの店は夜中の3時までやってたはず。少し遠出になるが、丁度良いかもしれない。でも、流石にこの時間に食べるのはアレだ……。よし、夜は食べずに朝から豪勢にいこう。
そう思ってからは早かった。寝間着の上にパーカーを一枚羽織ると、家のドアを開けた。
マンションのエレベーターの中で、自転車の鍵を回してカチャカチャと音を立てる。この感じも久しぶりだった。今日はどこに行こうかと、意気揚々と家を出る小学生の頃の自分を思い出す。マンションの外に出ると、昔を懐かしむにはおあつらえ向きの、夏の夜の匂いがしていた。土や草花の匂いが湿った空気混ざっているあの感じ。果たして、あの頃のように自転車に乗れるだろうか。少しの不安を胸に駐輪場に止めてある、自転車の鍵を開けた。思ったよりも夜に響く音にびっくりしながら、自転車の点検をする。まずタイヤに空気を入る。そして、携帯を見ながら車体を確認し、ブレーキを確認。それが終わると、一度心臓がトクンと高く脈を打った。いよいよベルの確認だ。今は深夜。果たしてベルを鳴らしていいものだろうか。当然深夜であろうと自転車のベルは鳴らす必要はあるが、オレは外から聞こえてきたら「ああ! うるせえ!」と心のなかで悪態をつくタイプだ。オレ以外にもそういう人はいるだろうし、なんとかマンション寿明を妨害しない方法は無いだろうかと考えた。
1分も立たない内に、マンション前の歩道を人が通り過ぎていった。これはマズい。自転車泥棒と間違われたらどうしよう。深夜に駐輪所で、自転車に手をついてボーッとしてるだけなんて怪しすぎる。
というより、なんでオレがこんなに気を使わなければいけないんだ。でも、改正道路交通法のこともあるし、しっかりと点検しなければ。イライラが増えてくる前にさっさとベルを鳴らそう。
オレは銃の引き金を引くように、ゆっくり、重く、ベルの引き金を引いた。
――チリンチリン
マヌケにうるさく高い音でベルが二回鳴る。
まぁ、そうだよなとしか思わなかった。期待通りに小さくなれば、ベルの意味が無い。悪いことをしてるわけではないが、音を立てた罪悪感を感じ、逃げるようにマンションから離れた。
久しぶりの自転車は良かった。外はいつもよりも少し暑かったが、切る風のおかげで身体を冷やす。ただ……。少しサビつきの気味のチェーンのせいで、ペダルが重いのはいただけない。そのせいか、よけいなことまで感じてしまう。歩道とはこんなに山と谷があったのか。山で重く、谷で軽く。ペダルは何よりもわかりやすく太ももに教えていた。
10分ほど自転車を走らせたところで、たまらずブレーキをかける。普段の運動不足のせいにしても、これじゃ歩いた方がマシだ。筋肉痛になる。太ももは、そう確信出来る気だるさに包まれていた。
あともう一つ。オレの尻はこんなに弱かったのか。鉄の板の上に座っていたんじゃないかと思うほど、尻が痛む。少し身体(主に尻)を休ませるために、コンビニで缶のスポーツドリンクを買った。
優雅な深夜徘徊のはずが、いつのまにか過酷なロードレースに。それもママチャリで。飲み干した缶を、コンビニ前に設置されているゴミ箱に入れると、首元の汗を拭って再び自転車にまたがった。
それからまた10分程自転車を走らせていたのだが、この間に様々な発見があった。
信号待ちではサドルから尻を下ろす。これだけでも随分楽になる。
ペダルをずっと漕いでる必要はない。ある程度スピードに乗ったらしばらく慣性の法則に任せる。
凸凹道では腰を浮かす。
そんな自転車に乗り立ての時のようなことを、再発見していた。知らず知らずに身につけていたスキルは、知らず知らずのうちに忘れていた。
そして、とうとう川風が気持ち良い橋の上まで来た。この川沿いを下りきれば、目的地の弁当屋がある。後は楽な下り坂。気楽に最初のペダルを踏み込んだ。
なんて気持ちの良い風だ。来るまでにかいた汗を乾かすように服の隙間に入り込んできた。ワックスもなにもつけていない髪を、オールバックにしていく。
オレは、両足を前面に放り出して坂道を下って行きたい気持ちをグッと押さえた。危ないとか、改正道路交通法とかではなく、羞恥心だ。流石にノリノリで坂道を下っていく姿を見られるのは恥ずかしいからだ。
ペダルは踏まず、少しブレーキをかけながら川沿いのマンションに目を向ける。壊れた電光掲示板のように、ポツポツと部屋の明かりが付いていた。仕事をしているのだろうか、ゲームかパソコンか、オレが聞いていたラジオの続きを聞いてる人もいるかもしれない。深夜に起きてる人全員に奇妙な一体感を感じていた。
ふっと部屋の明かりが一つ消えるのが見えると、下りきった坂にある十字路を曲がった。
のれんが出ている。この時まで考えもしなかったが、閉店していなくて良かった。
手動のドアを開けると、香ばしい揚げ物の匂いが漂ってきた。メニューを見る前に携帯を見る。時刻は二時。閉店まであと一時間だというのに、未だ揚げ物をしているとは、今時無い攻めてる店だ。コンビニだって深夜はホットスナックのコーナはガランとしているのに。
カウンターに置かれたメニュー表を眺めていると「竜田揚がったばかりですよ」と、店員から耳寄りな情報。
ここのチキン竜田は何よりタレが美味い。照り焼きのなりそこないのような薄い甘じょっぱさがあるタレなのだが、鶏肉の旨味と合わさると、口の中で濃厚に広がる。この濃厚さも、また丁度良い。ちょうどご飯を一口食べたくなる濃厚さだ。他にポテトサラダと、具なしナポリタン、三種の野菜の煮物も入っている。多めに入ってる漬物のおかげで、口の中で他の味と混ざることなく食べ続けられるのも良い。
「それじゃそれと……。あと単品で玉子焼き」
オレがそう言うと、たぶん昔通ってた時にも板であろう初老の女性がとんでもないことを言い出した。
「ご飯は、白米と五穀米があるけど、どっちにします?」
なるほど。ただまん然んと店を構えていたわけではなく、進化を続けているのか。値段を聞いてみると、どちらでも変わらないとのこと。それなら五穀米を頼む以外選択肢はない。
「いつの間にか、そういうサービスも始めたんですね」と聞いてみると「開店以来ずっとやってますよ」と返ってきた。
ここ数年でオレの味覚が変わっただけらしく、昔通ってた時は白飯しか頼んでいなかったのだろう。そういえば昔のオレは「白飯以外のご飯はいらない」と主張する奴だった。
出来立ての弁当を受け取り、店を出て、自転車のカゴに弁当を入れる。後は返って音楽でも聞いて寝るかと、意気揚々と自転車を走らせた。
しかし、先が見えない歩道を見て絶句する。ここに来るまでに下り坂を通ってきたということは、帰りは上り坂を自転車で走らなければいけない。
三回、四回とゴムを引っ張るような重いペダルを踏み込んだ。そこからはよく覚えていない。
気付けば口を半開きにさせて、かいた汗の不快感と空腹を感じながらマンションの駐輪所に戻っていた。
べったりと汗で濡れたシャツとパンツを脱ぎ洗濯機に入れ、シャワーを浴びる。半裸で部屋をうろつき時計を見ると、三時半だった。深夜なのか早朝なのかよく分からない時間。
オレは迷わず弁当を食べた。