誘引
姉さんが死んだ。肺がんだった。冷たくなった姉さんの、安らかな表情を見て、僕は心にぽっかりと穴が開いたのを感じた。
「死のう。」
病院の屋上は、夏だというのに涼しかった。風が吹いているからだろうか。それとも、僕が汗でぐしゃぐしゃになっているからだろうか。フェンスの隙間から、下を覗く。
コンクリートの地面が広がる駐車場だ。ここから飛び降りれば、確実に姉のもとへ行くことができるだろう。今度はもっと先のほうを見渡す。もう夜も深いのに、馴染みある街の風景をくっきりと見ることができた。幻かもしれない。その幻に目を凝らす。
小さい頃、よく姉さんと遊びに行った公園、毎年夏になると姉さんに連れられて行った市民プール。どこもかしこも、姉さんとの思い出が詰まった場所だった。この街は、姉さんの面影が強すぎる。
僕はフェンスに背を向け、背面からもたれかかって中原中也『春日狂想』の一節を呟いた。
「愛するものが死んだ時には、自殺しなけあなりません。愛するものが死んだ時には、それより他に、方法がない。」
僕は、意を決して、フェンスによじ登る。意外にもフェンスは高い。内側へ向かって返しのついている部分があり、体勢がきつくなる。一番上の部分を右手が掴んだ刹那、僕の体は落ちていた。
フェンスの内側に。
「けれどもそれでも業が深くて、なおもながらうことともなったら、」
『春日狂想』の次の節が聞こえてくる。それは、少女の声だった。
消灯時間も面会時間もとっくに終わっているはずなのに、僕と同じ高校の制服を着た少女が僕のすぐ後ろにいた。僕が彼女の顔を地面に寝っ転がったまま見上げると、暗くてよくわからないが、泣いているようだった。その時、僕は理解した。僕が死に損なったのは、この少女が自分の足を引っ張ったからだと。
「奉仕の気持ちになることなんです。」
少女は続きを暗唱する。
「奉仕の気持ちに、なること、なん、です。」
続きを諳んじながら、何となしに頬を拭うと、濡れていた。僕は泣いているのだ。
これは、屋上の少女――有栖川宮卯月と、全国で三十一番目に多い名字を持つ僕――石井湊の、何もはじまらない物語だ。