第一話 琴韻(八)
中将の姫は継母の照日御前とともに参内することとなった。
だが、そのために大変なこととなってしまった。みかどが気まぐれを起こし、照日御前にも琴を弾くよう命ぜられたのだ。
照日御前はたしなむ人ではない。とはいえ固辞するわけにもゆかず、母子で双琴を並べることになったのだが、案の定、照日御前は的外れの音をかき鳴らすばかりである。このままでは父の名誉回復になるわけがない、どうにかせねばならない。
中将の姫は即興で音を紡いだ。はずれた照日御前の音に合う音を求めて弾いた。
――まるで異国の調べのようじゃ。
ある公卿は夢見心地に、ほう、と深い吐息を漏らす。
また、ある公卿は息浅く、意識を失ったかのように微動だにしない。
耐えかねた照日御前が琴の爪を投げ出した。にわかに夢を覚まされ、眉をひそめる面々。
姫は突然、激しく箏をかき鳴らした。そうして気を逸らそうとしたのだ。
渓流のごとく衝突する旋律は、殿上の人々をはっとさせ、中将の姫ひとりに視線が注がれた。期待と好奇に満ちた目が姫一点に集中する。その期待を裏切るまいと、姫は持てる技巧のかぎりを尽くした。
殿上人らは姫の音に心奪われた。彼らの目にはもはや、ほかの何者も映らない。爪を投げた照日御前など、皆が忘れた。まるではじめから存在せぬかのように。
そして最後に、姫は柔らかく心和む調べで音曲を結んだ。
すべてを終えた姫はひどく震えていた。さきほどまで無心で動かしていた手が、今にも腕から落ちそうな感触がして、両方の手首を離すまいと、それぞれをしっかり握りあわせた。そうして震えをおさえながら、つくり笑いを浮かべて前を見すえると、誰しもが我を忘れたように放心し、しかし満足げに口元を緩ませているのが分かった。
――無事に大役をつとめあげることができたかしら。
ほっと姫は胸をなでおろした。
……そのはずだった。
「どのような結果を招いたか、ご存じか」
男が冷淡に問う。
「うかがっておりません。みかどがどう、おぼしめされたのか」
姫はなにやら思いついたか、急に早口で問いかけた。
「もしや、みかどのお怒りに触れたのでしょうか。だからわたくしは死をもって報いねばならぬと」
「みかどはかく仰せになったとか。その琴の妙手は並ぶ者なし」
姫はなにかを言おうとして、口をつぐんだ。
「あなたは御前に、みかどと殿中の人々の中で恥をかかせた」
「そんな!」
「恥をかかせるつもりは毛頭ない、その場をつくろうのに必死だった。おっしゃりたいことはよく分かる。
だが元来より御前は姫憎らしとのご存念。姫の善意を素直に善意と取りはしますまい。姫のために、おのれの不調法をことさら世に知らしめられた、と屈辱に思われた」
姫の瞳は潤んでいた。
「どうすればよかったのでしょう」
「逆恨みの理由など、突きつめても無駄なこと」
男は素っ気なく言った。
とても慰めようという口調ではない。
しかし姫を責めるでもない。それが気遣いなのか、率直な意見なのかは分からない。
ただひとつ、想像できたことがある。彼は命を下した照日御前を「主人」に仰いではいないらしい。子飼の下人ならこんなものの言い方はしない。「逆恨み」といった、照日御前に非のあるような言い方は。
「あなたさまはどういった身の方で」
「名は、春時。御邸の門の守り番」
(それにしては、あなたのお顔を拝見したことがありません)
疑わしくはあったが、姫はあえて尋ねなかった。
「春時どの。これよりどういたしましょう」
「……とりあえずは危険はないと思うが」
素っ気ない春時という男がはじめて困ったような表情を見せた。
(もしかして、いきあたりばったり、かしら)
そう推測すると、姫は春時になんとなく親近感をおぼえた。数刻前、刺客として刃を向けられたことへの恐れそして継母の理不尽な仕打ちへの悲しみは、どこかへ消えうせたようだった。不思議なことに、こんな中でも心が安らいでくる。
「追っ手はもう、いないのでしょうか」
「首領は倒したが、確実ではない」
「でしたら、姫、姫と呼びかけるのは、よろしくありません」
春時が向き直る。
「どうお呼びすれば」
「これよりはわたくしを、れん、とお呼びください。本当の名は、藤原蓮子。真名で、蓮華の蓮、と記します」
男――春時は皮肉交じりの笑みを浮かべた。
「承知しました。前の右大臣の郎女、中将の姫」
「だから、れんだって申しましたのに」
と、姫――れんは口をとがらせた。