第一話 琴韻(六)
影らが「あ」と小さく叫んだ矢先、ひとり前にのめり、ふたり後ろに揺らいだ。
闇中、落ち葉が激しくこすれ合う。
かん高く「裏切りだ!」と叫んだ声も途中で切れた。
姫はわけが分からない。
ただ、男は生き延びている。そうに違いない。
「走れ!」
「……黒衣どの」
安堵したのもつかの間、切迫した声がさらに届く。
「早く!」
姫は袖をひるがえした。
「逃げるぞ!」
「逃すな!」
影どもが姫を追おうとした、その背後を男は素早く突く。
別の影からの横槍が入る、幾人の影が男の脇腹を狙った。太刀筋を見切り、男は難なくかわしながら、中将を追わんとする影を追い、軽く首を撫でる。生温い血しぶきが飛散し、男は顔に少しばかり浴びた。
が、それはまだ良い。
さらに返す短刀を一閃二閃、やがて男の衣服は別の色に染まる。
多勢に無勢ながら、波状に襲いかかってくる攻め手をはじき返し、返す刀で見事に仕留めてゆく。が、次第に動きは鈍り、男は肩で呼吸し、荒い息を吐く。
(まだいるのか!)
相手するより逃げたい、と男は考えたが、両足が何かがからみついているかのようだ。視界定まらぬ闇の中、あとどれだけの人数が居るのか、どこに隠れているのか。それに自分はどれだけ斬り倒したのだ? 短い刀が大剣ほどに重く感じる。
(これ以上いれば)
脳裏をかすめるのは最悪の覚悟。
その時、襲いかかられたのは頭上からだ。
「くそッ」
男が大振りに走らせた短刀はむなしく空を切った。
着地した人影がしゃがれ声で告げる。
「裏切り者め」
「……」
「われが拾うてやった恩を忘れたか」
「今までの仕事で、恩は返した。今宵」
男は深く息をつき答える。
「悪いが今宵の仕事、褒美はみな、俺がいただく」
「すべて殺しおって」
「すべて」
男は口の端を上げた。
「八条王、あんたで最後か。助かったよ」
「ほざけ!」
人影が狼のごとく飛びかかる。
男は刀で受け止めた。
が、火花が散るや、そのまま篠笹の藪に倒れ伏した。衝撃と笹で切れた全身の傷に男は声を漏らし、刀をとり落とし、笹の中に埋もれた。敵を目前にして背を向け藪を探すことなどできず、顔色蒼然としつつ昂然と頭だけを上げると、月が雲間から顔をのぞかせていた。怜悧な月光を人影が遮り、それが手にする打刀のみが光に応じて輝きを増している。
「いい格好だな」
人影――八条王なる男が薄笑いを浮かべた。
「今まで可愛がってやったというに」
男は八条王を睨みながら考えた。
(ここで時間を稼けば、姫は)
どうにか逃げおおせられるのではないか。朝になれば長谷寺の寺容が見えるだろう。寺に逃げ込めば、当面は八条王の魔手からは逃れられる……当面は。
「可愛がってもらった分、俺も尽くしてやっただろう」
「おお、そうとも」
八条王が男の腹を踏みつけた。
「ぐっ!」
そして刀の切っ先でのどを数度つつく。
「字の読み書きができるお前がいたればこそだ。わしは貴人より仕事を請け負い稼げた」
「そうだろう。俺がいなけりゃ、今もあんたは佐保の河原でしかばね漁りをやっていた」
男は切っ先がのどに食い込まぬよう、小声で応えた。
「『王』なんてご大層な名乗りなぞ、できやしなかったんだぜ」
「驕るな。わしが拾ってやらねばとうの昔にのたれ死にだ」
黒衣の男は背中にかすかな振動が伝わるのを感じた。
それに八条王は気づいている様子はない。
一拍子置いて、男は何事も気づかぬふりで軽侮の笑いを見せた。
「ふん、まったくその通り。ありがたいことだ」
確かに振動は近づいて来ている。
「だがこれが潮時だ。正直、俺はあんたにうんざりしていた。従う気なんてもうさらさらない。従わずともやっていけると踏んだんでね。あの横佩の大臣さまのやんごとなき御前さまは、俺をいたくお気に入りとのことだ。つまりあんたなんぞはお払い箱」
「この薄汚れた逃げ雑兵が!」
「その貧相で卑しい姿と能無しの頭をかえりみるがいい。この俺を殺して先、どうする」
草木を踏みしめる、荒々しい地響き。
それはもうほど近く――。
「何っ!?」
突如、草叢から黒い迅影が飛び出した。
獣、黒い獣だ。それは荒い息を吐き、木々の間を疾駆する。
「馬だ、馬が……」
正体に気づいた次には、八条王は踏みつぶされた。
男は即座に立ち上がった。拾い上げた刀で八条王の息の根を止め、馬へ向かって突進した。
「黒衣どの!」
馬の背にあるは中将の姫。
姫がたてがみを引くと馬はあえぎ、馬脚を緩めて方向を変えた。その機に男は馬の背へと跳躍した。鮮やかに馬にまたがるや、
「行け!」
と、男が命じた。
馬が一声、雄叫びをあげる。
乗馬の主の命じるまま、蹄が激しく土をけり上げた。
姫は首にしがみつき、男はその背からたてがみを握りしめた
馬は枝葉を薙ぎ倒し、風を呼び、険路を駆け下ってゆく。道筋、黒い土と落葉が蹴散らされ舞い上がった。
寸刻前の死闘の場には、しばらくうめきが残った。此の世に思いを残す魂魄が、彼の地に縛られるがごとく……がしかし、怨嗟に満ちた声はか細くなり、やがて闇の中へと溶け込んでゆくと、誰気づくこともなきまま、消え失せてしまった。