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荷葉の路  作者: 鏑木恵梨
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第八話 勢多(二)

 半刻前。

 道鏡はある若者を呼んで問答をしていた。

 清閑な仏道の説諭ではない。きわめて俗な話である。

「案生の勤めだけじゃ食べてくのが精一杯だからです」

 道鏡の追求に若者は反論する。

 案生とは事務方のヒラ役人。若者の位は初位。下っ端もいいところだった。

「だから父上と同じことをしたと?」

 彼の父も長年、東大寺写経所の雑物を管理する案生を勤めていた。

 品物の出納管理とは帳簿合わせかというと、さにあらず。余剰分の横流しにより利益を得ていた。その利益は役所の運営に使われる一方、役人自身も俸給でない銭でその懐をあたたかくしていた。得をするのは役人のみではない。さらには、東大寺の僧や大臣等の殿上人も利得にあずかっていた。東大寺にいた道鏡には周知の事実である。

 こういったことに目端のきく下級官吏は便利だ。殿上人は分かっている。だから任官に際して自然と目を配る。ある者は位階は低くすえ置かれながら、複数の造作所別当を兼務するまでになった――今の造石山寺所の別当・安都雄足とは、そういう人物だ。

 さて、問題はこの石山寺でも「それ」を認めるべきかどうかだが。

 認めよう。

 道鏡ははなからそう決めていた。

 あえて止めよととどめる理由はない。だが得た利殖をただ特定の人物に食い物にされてはたまらない。寒さに凍え、飢えに耐え、病に苦しむ民にこそ還元すべきだ。

 かくなる理想をどう実際のものにするか。

 別当の安都雄足は宮中、とりわけ太相・藤原仲麻呂に近すぎる。そんな彼に利を還元せよとは要求できない。となれば逆に、最も現場にあるこの若者を味方につけてはどうか。

 そんな考えとはまるで逆の物言いをするのは、若者の反骨心をあおるためだ。

墨縄(すみなわ)どの。こなたの父上はこなたに商いはさせぬと申されていた」

「それは」若者はためらいながら続けた、「自分は品定めは得意だが交渉が苦手だからです。損をするからやめよと」

「ではいかに」

「春時がいれば問題ない。彼に市での購いを頼めば間違いがない。もろもろが捗る」

 決して損はせぬ、と彼は言いつのった。

 が、それではまったくの他人頼み。この調子では困る。

「春時どのは一時の逗留にすぎぬ。れんぎょう丸どのの従者じゃ。かの童が別天地に修行の場を求めればここを離れる」

 墨縄は思い悩んだ末、意を決して告げた。

「春時がいる間に、あいつの知恵を学びます」

「時は短い」

 春時どのにしばらくここにいるよう頼むか。

 いや、あの若者は一筋縄にはいかぬ。商いごとをただ頼んでも「肯」とは答えまい。

 だが彼が連れている藤氏の姫。あの姫君を守るためなら、彼は首を縦に振るだろう。

「益を仏法興隆と国家安寧に投じること。これなら、れんぎょう丸どのもこなたの行いに納得して長の逗留を考えるであろうな」

 もちろん拙僧にとっても喜ばしいこと。

 淡々と説いて聞かせると、若者は「誓って」と目を輝かせた。彼の功利心が欲と不安に勝ったようだ。

 道鏡は期待した。



 道鏡の目の前は当の本人がいる。

 もちろんかくなる魂胆を話すつもりはない。問いただされても、柳に風のごとく受け流すだけだ。

 一方の春時。意図をうかがうのはあきらめ、いまひとつの真実をしっかり耳に入れていた。

「やはり……離宮造営ではなく『遷都』」

 この勢多の地が『都』となる。

 しかも真近にせまっている。

 勢多の市はあらゆるものの値が他より高い。周辺各所での大規模な造作が原因だ。

 そこへさらに遷都真近とのうわさ。急激な人の流入を見越し、雑品や木材は日を追うごとに高騰していた。もはや売り側の言い値になる傾向さえある。銭での購いは明らかに不利だった。

 照日御前からの褒美や堅虫から託された財は相当のものだ。それでも無駄にはできない。ひとかどの人物に装う衣に、あおの世話に。いろいろ気を回せば回すほど、目減りする一方である。

 春時は一計を案じた。

 造石山寺所の若い役人の副業を手伝うのだ。横流し商いの利の一割、高利貸の取り立ての駄賃。それで日々はくらしてゆける。

 涙ぐましい努力だ。なのに正々堂々とれんに話せる内容でないのがまたこたえる。

 平城の都でやっていた八条悪王の手下よりはましだ。盗らず犯さず殺さず。心がけはずっと良い――春時はそう自分に言い聞かせる。

「近々とはいわれていますが」

「行幸は来週です」

 来週。

 春時は一瞬、自分の耳を疑った。

「禅師の石山寺入りは行幸にあわせてのことですか」

 どうでしょうね、と道鏡は頭をひねる。

「師・良弁大僧都(ろうべんだいそうづ)は『仏法のため』とだけ仰せになり、石山寺へゆくよう申し渡されたので。及第ならず、更に修法せよというのかと、どうも気が進まずまっすぐ来ないで諸方を寄り道していたのですが」

「寄り道」

「そう、その寄り道でかくも良き邂逅に恵まれました。仏縁でしょうか」

 どうもくすぐったい。

 この初老の僧に対しては、なぜか春時も追求する気概がゆるんでしまう。老獪とはとても言えぬ、どころか率直すぎる。

「禅師はただの僧ではない。宮中に仕える看病禅師です。都を離れるのは勤めに反するでしょう」

「内道場の禅師の中でも拙僧は末席」

 いてもいなくてもそう変わりません、と道鏡は軽く笑う。皮肉ではなく本心らしい。

 ……本当に率直すぎる。

「仮に行幸を迎えるべく拙僧を寄越したのだとしても、本当に遷都できるか難しいでしょうな」

 活況ではある。

 だが工事は思うように捗っていなかった。

 原因は相次ぐ事業による慢性的で深刻な人手不足にある。

 作事の進行に応じ、各地から工人を派遣させるのだが、予定より長期間の従事となるのは当たり前だった。木工人が担当の仕事を終えても帰郷させず、慣れない仏工に使役させることも珍しくなかった。行幸が近い今は、ありったけの工人を召集せよとの命が下っている。私事で訪れた官人を働かせたり、石山の工人に東大寺司からの召集があっても「所在不明」と返答してその地にとどめたりと、最早なりふり構わない状態であった。

 事業としては破綻寸前である。

「それでも強引に押し進めるはず」

 なぜなら太相・恵美押勝(えみのおしかつ)――藤原仲麻呂にとっては、必ず成功せねばならない事業だからだ。

 近江国大津、勢多は藤原氏の――中臣鎌足以来、伝祖の地。ここに唐の陪都「北京太原府」に擬した都を造営するのだから、完成すれば彼が目指した唐風政治の最大の成果であり、人臣を極めし仲麻呂の栄華の証となるのだ。

 強引に進めるには、帝の行幸。

 当たり前のことだ。帝が動けば百官も従う。

 都から逃れてきたのに、これでは都が追いかけてきたようなものだ。長くとどまるわけにはいかない。いや、いつなんどきでも旅立てるよう、身辺を整えるべきだ。

(いやな予感がする)

 春時は一抹の不安と焦燥を覚えるのだった。

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