第一話 琴韻(五)
中将の姫は手を止めた。
影が手元を覆ったからだ。
顔を上げると男が立っている。自分を見下ろしていることに気づく。
「黒衣どの」
「夜が明けると追っ手が来る。出立する」
「今すぐ、ですか」
「今すぐに」
「さようですか」
姫は細く、息をついた。
「黒衣どの。できましたら、この琴を持って行きたいのですが、馬にのせても大丈夫でしょうか」
男は絶句した。
その様子を見、不安を覚えた中将の姫が、ためらいがちに訴える。
「とても良い音がします。弦は切れていますが、直せば良いものです。もう少し、さわってみたいと思いまして」
「それはこの屋敷の方の持ち物。主人が不在とはいえ、琴を持って行くのは」
「いけませんか」
「それは盗人の所業」
「盗人」
姫はさも驚いたようすで目を丸くした。
「分かりました。琴は、置いて行かねばなりませんね」
悲しげな視線をちらりと落としてから、中将の姫は男に向き直った。彼は一顧だにせず、ふたたび廃屋の妻戸をくぐり外へ出る。姫は後ろ髪を引かれる思いをふり払い、男の後について出た。
月明かりのもと、男は大股で暗い山へと歩を進めた。はや歩きに慣れない中将の姫を気遣うようすもない。下草を踏み、枝を払いながらも、勢い速足で登りゆく。姫が必死に追う。息を切らしつつ追った。
白い息が姫の顔の前にあらわれ、そして消え去る。山中は冷えた空気に包まれていたが、姫は先を急ぐがゆえに寒さを感じなかった。
姫は時折、息継ぎし損ねたのか、顔をしかめ胸や腹をおさえている。だがそれをふっきると、
「あの馬にも」
と息継ぎまじりに、それでいてはつらつとした口調で話しかけるのだった。
「お聞かせ、さしあげ、たく思い、まして」
男はふり向きさえしないが、姫はかまわず続けた。
「馬は、林の中に、つないで参りました、でしょう。あの小屋からでは、あの馬に、琴の音、聞こえません、から」
「その口、控えてもらいたい」
「ご、ごめんなさい」
わずかに声がふるえている。
男は心が痛んだ。そう厳しく言わなくとも、と後悔もした。
(いや、間違っていない。これでいい)
姫自身の命運がかかっている。
しかもそれを姫に説く時間もない。
杉木立をくぐり落葉をふみ分けて行く。歩みは速く、上り坂。姫には経験のない山歩き。息も絶えだえになる。さらに進み行くと足元は落葉の下に木の根が幾重にも走り、木のないところは大小入り乱れた岩肌がむき出しで、姫が進むにはあまりに険しい道なき道となってゆく。
「道を違えたか。それでも」
男は舌打ちし、刀を片手に行く手の小笹を切り払った。
「戻って追いつかれるよりは」
(追いつかれるとは、追っ手に?)
不安はあるものの、男の足が緩まったことの方が、姫には幸いだった。追いつけずに脱落してしまえば自分に生きのびる道はない。今なら息を整え、ぴたりと後を追ってゆける。
すると急に先を行く男が立ち止まった。
姫は男の脇から前方をかいま見た。
灯りが見える。ひとつ、ふたつ……幾つもの灯り、そして黒い影が、木々の合い間から姿をあらわした。
「これはいかなることだ」
影のひとつが鋭く問いかける。
(これは、いかなること?)
姫もまた、心の中で問いかけた。
男は落ち着きはらった様子で、静かに返答した。
「土地の者に見られたんでね。よそへ向かうことにした」
中将の姫は「だれにも会っていないわ」と内心思いつつ、なりゆきを見守る。
(落ち着きなさい)
と、自らに戒めて。
影は複数。次々、姫と男をとり囲む。
黒衣の仲間か。
だが影らは、姫と男がふたり連れだって山をゆくさまに疑いをかけている。男の語りはうまく切り抜けるための嘘であろうか――そうだと思いたい。姫は天上の月、そして泊瀬の谷の向こうにおわすであろう観音菩薩へと願いをかけた。
その月を次第に雲が覆い、山肌を映し出す光をも消し去り始める。
影らはますます数を増し、もはや十に近い。じわり、と囲みを狭めてくる。
そして男は突然、身をひるがえした。