第七話 禅師(六)
蒸し風呂にて躯の内外を洗い流しつつ、れんは思いに沈む。
売り言葉に買い言葉というほどでもないが、春時とはうまくいかない。
都には戻るべきでない。
頭では分かっていた。頭ごなしの否定に収まりがつかなかったのだ。それで言い争いになった挙句、偶々通りかかった道鏡禅師を巻き込んでしまった。どうにも始末が悪い。
道鏡は説教めいたものは語らなかった。布施屋を案内したのは、人を癒すことの実際を身をもって諭すためだろうと、れんは受け止めている。
「わたくしが行き、薬を与えねばならないと、思いこんでいたわ」
それこそ思い上がりというものだろう。医書を座学で修めていようと、毒にも薬にもならぬ。
瀬雲には堅虫という立派な父がいる。思慮深い堅虫が、吾がむすめの身体を気遣わぬわけはない。都には本草に造詣の深い薬師があまた居るのだ。いざとなればかれらを訪ねればよい。
「かならず、わたくしが行かねばと、そう思ったけど、世間知らずのおろかな思いこみだったわ」
ただ、実際にはどう立ち回ればよかったのか……忘れればよいとも思えない。
そして――わめいている佐久の声に気づいたあと、さらに落ち込んだ。
「浴室でぼんやりするのはやめてください」
「ごめんなさい」
佐久に叱られ、れんは恐縮した。
考えすぎてのぼせて意識が遠のいたところを、佐久により浴室から外へひっぱりだされたのだ。ついでに頭から冷水を浴びせかけられた。
もしこれが佐久でなく春時だったら、
(恥ずかしくて、顔から火をふいて、焼けて消えてしまいたくなっていたでしょう)
いそいそとあてがわれた寝屋処に戻る途中、こっそり佐久に頼んだ。
「このこと内密に」
「いいよ」
佐久は笑顔で応じた。
「父上が聞いたらぜったい姫さまに説教だろうし、そしたら姫さまは怒りだすでしょ。もう夜更けだもん、面倒くさいから言わない。また今度にするよ」
「また今度もやめてください」
嬉しいやら悲しいやらの答えに、れんもクスリと笑って答えた。
そして、やや間をおいて佐久に問いかける。
「佐久どのは、都に戻るのは、とんでもないとお思いですか」
佐久は少しうなって答えたことは、
「やめたほうがいいんじゃない?」
「やはりそうですか」
桜の精の子どもでもそう判断するのなら、自分の言い分など甚だしく論外であろう。
(謝らなくては)
れんはそう心を定めて寝屋処に足をふみ入れたのだったが、
「れんどの」
すぐに道鏡から声がかかった。
「すっきりされましたかな」
「はい、とても」
どきりとしつつも、なんとか答えた。
春時に謝ろう。そう思っていたのに、禅師がいるはす向かいに春時がいるとなると正直、謝りにくい。気まずい、それでうまくことばが出ない。
それでも決心したことであるからと、握るこぶしに力をこめた。
「春時どの、あのっ」
「れん、都の瀬雲どののことだが」
いきなりくじけた。
「禅師に都の瀬雲どのを診ていただける」
「えっ」
思いがけない申し出にれんは固まった。
つづけて道鏡が問う。
「いいえ、拙僧が診るわけではないのだが……ともあれ、れんどの。経過と処方をお聞かせください」
れんは持ち物の袋にかけ寄ると、中をあわててかきまわし、ありましたと声をはずませ木簡をとり出した。
道鏡は木簡の墨書にざっと目を通すと顔を上げる。
「寒滞肝脈の症があるようですね」
「はい」
「れんどのの見たてをお聞かせ願えますか」
「瀬雲はいつも青ざめた顔をなさっていて、なのに時折、たいへん顔が紅くなります。あと、めまいと手指にふるえがあります。ひどいときにはおからだすべて、ふるえています。おそらく寒虚で内熱があるのだと思います」
道鏡はうなずきながられんの話に耳をかたむけ、少し思案してからまた問診をつづける。
「瀬雲どのはどのようなお方ですか。病に対する性分の意味あいで」
「症状がひどくとも、苦しいとおっしゃらない、がまん強い方です」
そういった心の強さがかえって我慢を重ねたすえに内熱をためて体を悪くしていると思う、とれんは所見をそえた。
道鏡はふむ、と深く息をついた。
「鍼はおこなっていますか」
「いいえ。わたくしは習得しておりませんので」
「しびれがあるなら鍼は非常に有効です。食が細いのなら養血を促すことが肝要。それと冬の気が強くなる中ですから、温経散寒の効をより強くする必要があるかもしれない」
れんは感心しつつ何度もうなずいた。
「いずれにせよ難しい病のようです。季の変わり目でもありますから、こまめに脈診をしたほうがよいと感じました。その上で薬を調じるほうがよろしいでしょう」
「されど、わたくしは、ゆえあって都に参れないのです」
「知り合いの薬師に頼んでみましょう」
「よろしいのでしょうか」
「易いことです」
「ありがとうございます」
ありがたい申し出だった。都には腕のいい薬師がいるのは分かっていた、ただ、れんには伝手がない。どうすればよいか分からなかったのだ。
「この簡ですが、頼む者に送ってもよろしいですかな。処方と経過が実によくまとめてありますから、参考になるでしょう」
「ぜひお持ちください」
「ほかに伝えるべきことはありますか。その郎女のことに限らず。いっしょに携えさせますが」
「もし、父上に文を届けられるのなら」
「どうでしょう」
道鏡が春時に判断をうながした。春時が答える。
「良いかと」
「では手配してまいりましょう。文は朝の出立までにお渡しください」
道鏡は腰を上げた。
さて、禅師がいなくなり佐久がごろ寝しているところ。意を決してれんは口にした。
「春時どの、ごめんなさい」
春時はしばし黙っていたが、
「なにかやらかしたか」
と少し困った表情で逆に問いかけた。
れんはあっけにとられ、そして肩を落とした。
(覚えていらっしゃらないのね)
言い争いを気に病んでいたのは自分だけだったらしい。これほど思い悩んだというのに。
「ええと」
説明をしようか。それも寝た子を起こして、わざわざ事を荒立てるようだ。
どうしたものかと答えあぐねているところ、
「くふふ」
春時のかたわらでかみ殺したような笑いがおこった。
床にころがっている佐久の脇腹に、春時が攻撃を加える。
「この、たぬき寝入りの枝め」
「くふ、うひゃひゃ」
「なに笑ってる」
「くすぐるからだっ」
「そのまえに笑ったろ」
「うひゃ、やめて、降参」
佐久は派手に身をよじって逃げ、ごろりと身を反転させるや座ってひざに手を添える。
「姫さま、浴室でのぼせてちゃったんです」
「さっ、佐久どの、約束したのに」
れんが顔を真っ赤にして抗議する。
「姫さまごめんなさい黙ってるの無理でした」
無理なのはれんの方だ。その件の弁解はまったく考慮外であった。
「あのっ」
春時はれんの言葉を待たずに淡々と問い返した。
「佐久以外の、禅師さまや他の方に迷惑はかけてないのだろう」
「誓って、迷惑はかけていません」
「なら、いつもの馬上みたく寝ぼけたのまで小言をいう筋合いはないさ」
「いつも、ではありません!」
れんはむきになって反論する。
それに春時はやる気のない大あくびで応じた。
「分かったから早々に文書いて寝てくれ。俺は眠い。先に休む」
れんは無言でほおをふくらませた。
やはり春時とはうまくいかない、でもそれは春時どのが悪いのだ。売り言葉に買い言葉どころか、からかっておきながら、面倒になったらまともに取り合わないのだから。
日も暮れた屋戸の庭では蟋蟀が互いに呼び合い、治癒をほどこす室からは時折、苦吟が届く。異なる哀切な情緒をもたらす夜半の声。それらに耳をかたむけつつ、れんはため息をついた。
あの木簡を禅師に渡すだけで、瀬雲を救うことができる。
今、筆を走らせんとする木簡はなにをもたらすだろう。
ただ、父に無事を知らせるだけでよいだろうか。思うに、春時は家司の堅虫に会っているから、れんの無事は父も知っているだろう。そこへあえて自らの筆になる文を送る必要があるのか。むしろ、継母に居場所を知られるほうが危ういのではないか。
春時は送って良いと判じたが。
「今一度、聞いてみましょう」
春時にも禅師にも。
「書く内容も、よくよく意見を聞いて、考えてからのほうが、よいかもしれません」
手元が暗くなってきたと思ったら、雲居の空に月が隠れてしまったようだ。
それもあって、れんは筆をそっと置いて灯火を消すと、ゆっくりと身を横たえた。