第七話 禅師(五)
れんは粟の椀をすすり、芋煮と焼いたまこもの茎を口にし、あけびをかじった。
旅は疲れる。その上たくさんの人を診た。心身ともに疲れきっていた。だが、もっと苦しんでいる、飢えている人がいる――そう思うと目の前の膳がひどく豪勢なように思えた。
箸がすすまず、れんは思いのたけをこぼす。
春時は芋を嚥下すると、
「道鏡禅師はあまり考えずに食べるだろうな」
と言った。
「そうでしょうか」
「そういう方だ」
「そういう方とは、どういう方ですか」
「可哀想なくらい単純な方さ」
春時はからかうような口ぶりで続けた。
「この膳と向き合ったならどう思われるか。そうだな。うまい、まずい、満腹だ、物足りない」
「なんですか、それ」
「考えるのはその程度。目の前のひとつのことしか考えられない。れんのようにあれこれ、他事まで思い悩める方じゃない」
「そのようなおっしゃりかた、ひどいではありませんか」
まるで小ばかにした物言いに、れんは憤慨して問いただす。
「禅師さまは、立派なお方でしたわ」
「確かにご立派であらせられる、なにしろ禅師だ」
「だいたい、禅師さまと春時どのは、いかなる関わりでいらっしゃるのですか」
「何年か前、都でひどい流行り病があったろう」
「……豌豆瘡のことでしょうか」
れんはまだ幼かったが伝え聞いてはいた。
都はさながら地獄の様相を呈していたという――市井の人も殿上の人も、次々と高熱を発し、全身に空豆のような疱瘡が浮かびあがり、激しい苦痛にさいなまれながら亡くなっていった。
「禅師は、いやそのころは東大寺の修行僧でおられたが」
「はい」
「民を施癒されていた」
僧たちは寺の内外で活動した。病の退散を祈祷し、医の心得あれば治療を施した。
といっても豌豆瘡――天然痘の治療法が確立したのは千二百年も後、十九世紀のこと。貴族なら症状を和らげるありとあらゆる薬を服用できるというくらいで、自然に癒えるわずかな幸運のおとずれを祈願するしか道がないのは、身分の上下なくみな同じであった。
それでも仮の施薬小屋は数多の患者であふれかえった。医僧たちは昼夜たがわず、救いを求めるかれらに正面から向き合った。道鏡も数多くの民を診てまわった、そのひとりであったという。
「それで、お二方は」
「そこで施しをうけて会った」
「禅師さまからの施しですか」
「そうだ」
「……春時どのは、名を百回でも唱えられておられたのですか」
いいかげんなことを、とれんは憤慨した。
あふれかえる患者の一人を、夕暮れの旅の路で呼び止められるほど覚えているとは到底信じがたい。そもそも春時には痘痕ひとつない。
「三百は唱えたかな」
「少のうございますね」
れんは膳に残る青菜をたいらげた。立腹ながら満腹になった。
折りよく板戸の裏から顔を出したのは、話題の禅師である。
「れんどの、浴室を使われてはいかがかな」
「よろしいのですか」
れんは喜々として身をのりだした。
「浴室で身を清めるのは、医書に接するより善きことです。そも遠慮は無用。布施屋の浴室は旅人のためにあります」
「では、おことばに甘えまして」
いそいそとれんが着替えをかかえると、春時がうながした。
「佐久。おまえも浴室へ行け」
「なんで?」
「お守りしろ」
「わかった!」
佐久はれんについて行った。姫さまを守り助けるのが役割だ。桜の精の少年は、そう自認している。
「さて禅師」
両人の声も遠くかき消えると、春時が道鏡に向き直る。
「布施屋ではご迷惑ではありませんでしたか」
「とんでもない。正直、驚嘆しました」
道鏡がかぶりを振った。
いわく――おそらく何十回も医書を読み返したのでしょうな。医書の文字の並びまでしかと覚えておられる。不安そうであったのは最初のみで、病人の訴えにもよく耳を傾けられ、実にご立派でございました。しかるに、聞くにずっと家におり人に会うのは月例の礼にて参内するくらいしかなかったと、さように申される。まこと、芯の強いすぐれた御方よと感服いたしました。しいて瑕疵を挙げるならば、足りないのはより多くの人々を観ること。書物なぞは汎そのことを記した物に過ぎぬと解すること。それだけでございましょう。
その口上はすべらかで、おためごかしには聞こえなかった。
春時は苦笑した。うかつにも、れんは自分を宮中に参内する殿上の人と明かしたらしい。あとで苦言せねばなるまい。
ただ、言わずとも道鏡には見抜かれていたろう。それでも問題はない。
「おりいって頼みがございます」
むしろ出自を明かさねばならないのだから。
「いかようなこと」
「都に人を遣わすふりをしていただきたい」
「ふり……都になにか障りがおありか」
「追われております」
「貴殿ですか、それともあの姫御に」
「藤氏の中将姫です」
道鏡は絶句した。
かまわず春時はたたみかける。
「横佩大臣・豊成公の邸に人を遣わすふりをお願いしたいのです。先刻はみっともない行く先争いの顛末をお聞かせしましたが、結句、姫には人を遣わすとだけ話し聞かせればそれで済む。実際に人は要りません。なぜなら、そのむすめはすでに……」
「待ってください」
道鏡は困惑を隠さず話しをとどめた。
「なにか」
「いや、その話、いま少しゆるりと。拙僧は混乱しております」
「まさかこの私が、藤氏の姫御に手をさしのべようとは、と?」
「うむ……」
図星か、道鏡は返答をのどにつまらせる。
正直なかただ。春時は口もとを上げた。
「人の心は移ろうもの。ひとえに民の救済を願った貴僧が、殿上を目指されたように」
「……」
道鏡禅師は沈思する。
春時の言いようは決して非難ではない。むしろ好意的であった。そして、まるで自らに言い含めるようでもある。彼の心のうちのあらわれだろう。
「さておき。姫は継母の妬みにて銭目当ての盗人どもにかどわかされ、邸を放逐された御身です。しかし、その身の不幸は放逐のみならず。藤氏を仇敵とみなし一矢報いんと徒党を組む輩からもつけ狙われているらしい」
「ゆえに、都に戻るはその身を危うくする」
道鏡はまぶたを上げた。
おおかたの事情は察した。
都へ薬を届けたいという病のむすめも、その騒動に巻き込まれて果てたか。なるほど、姫と少年が座をはずすや、時もおかず前段なしで本題から説いたのも道理である。二人の耳に入らぬよう、早々に切りあげたいはずだ。
「分かりました。瀬雲どのを診ましょう」
「診ると申されましてもその者は」
怪訝な顔で意を問おうとする春時に対し、道鏡は首を横にふる。
「拙僧にできるのは、話を心ゆくまでうかがうことと施療だけです」
佐久とれんの話し声が庭先から聞こえてきた。