第七話 禅師(三)
西の空に日が傾きつつあるころ、樟葉の里を通りかかった。
淀川水運の上流の拠点であり、山陰道との分岐である山崎まではあと数里もない。船は山崎湊に拠せることが多いからか、岸辺には漁をする小船がいくつか並んでいるほどだ。
ただ、人通りは多かった。
難波と違って、官人らしき人は少ない。
疲れきったうつろな目をし、薄汚れた装いで行き交う旅人が目立った。
かれらがどういった人々なのか、れんは耳にしたことはあった。
兵士か、土木工事か、国衙か寺の造営か。そのいずれかの徴発をうけて現場に赴くか帰郷をする人々だ。いずれの雑徭に携わるにせよ、かれらが郷里と現場との旅のあいだに飢えに苦しむことは珍しくない。かれらは日々の暮らしも苦しい。その上に、手持ちの装備や食糧を持ち出さねばならなかった。旅の途中でなけなしの蓄えがなくなれば、やがて衰弱して命を落とす。
生きつづけて再び出会えた、あのきよくの老親たちはまだ幸せなほうだった。
苦しい思いを飲み込むように空を見上げた。雲を眺めるにつけ、世の無常さを感じずにはいられない。れんの目に映るのは空ではなく、やはりどこか苦しげに前へと進む人々の残影だった。
春時と佐久は、れんがどこか上の空になっていることに気づいていた。
「姫さま」
「佐久、邪魔をするもんじゃない」
「どうして」
と佐久が問うと、
「やんごとなき方は、世の在りようをその目で見、そして世を良くするために考えることがつとめなのさ」
横であれこれ言っているのに、れんは無反応だった。
「父上ってもの知りだね」
「兄だと言っている。親子設定は認められんとあれほど」
「だからそれは世間が認めてくれてたじゃない」
再度論争をくりひろげる彼らだった。
が。
「れん?」
邪魔をするなと言った当の春時がれんに声をかけた。
「…………春時どの」
「どうした」
「思い出しました!」
れんは突然大声をあげた。そして、あおから落ちかけた。
毎度のことで春時が支えたのだが。ため息をつきながら何を、とぶっきらぼうに言う春時に、れんは身を乗り出さんばかりに答える。
「薬を作って、届けねばならないのです」
「どこに。誰に」
「都の、家の司の、瀬雲にです」
瀬雲――春時は思い出した。都の右大臣家司の堅虫のひとりむすめ。
蒼白となった顔に、うるんだ眼。堅虫に人ばらい中だと叱られながらも、几帳のかげで小さな体をふるわせながら平伏していた。あれは、春時があの娘を見た最初であり、かつ最期の姿でもあった。
もはや瀬雲はいない。だが、そのことを春時はれんに話していない。身代わりとして命を落としたのだ、とはどうしても告げられないでいる。
だから説得理由はひとつしかない。
「都には戻れない」
「しかし」
「追っ手がかかっている」
「瀬雲は今も苦しんでいます」
れんはみずからが苦しんでいるように訴える。
「昨晩のことをもう忘れたのか。やつらは簡単に刃を向けてくる。命を落とせば、その瀬雲が苦しむようになる。なにも変わらない」
「薬を届けたら、また逃げればよいではありませんか」
「簡単に考えるものだな」
冷ややかに春時が言った。
れんは常ならぬ不安を感じる。今まではあきれたと言いたげな口調だった。思えば、れんの無知をとらえて冷笑はしたが、受け入れる余地があってこその揶揄や反論だったのだ。今の応答は違う。あきらかな拒絶だ。
「……春時どの」
「山崎までゆき、泊まれるところを探そう」
春時の誘導にしたがい、あおが方向を変える。
れんはことばを継げなかった。
しかし、彼が冷笑とともに態度をひるがえすことを望む。
難波へとゆく生駒越えでは、望みは受け入れられた。仕方ない、とあおをれんの望む方向へと向けたのだ。山崎からも、南へ進めば都に戻ることはできる。
西からの風が北からに変わる。九月、陽が傾くととたんに寒さを感じはじめる。だから今夜は山崎で足を落ち着ける。それだけだ。
そう信じたい――ほんの少しの期待をして、れんは無言で手綱を握りしめた。
すると突然背後から、
「そちらの行き商いの方。もしや」
と声をかけられた。れん、そして春時は振りかえる。
十歩ほどあとから僧侶が二人歩みよってきた。若くて身ぎれいな黄色の法衣の僧と、初老のみすぼらしく色のはげた衣を着けた僧。二人はあまりに対照的な姿をしている。
「あなたは」
と春時が困惑したようすでいると、初老の僧が柔和な笑顔を見せた。
「やはり真春どのですね」