第六話 難波(八)
あおが竿立ちになり、れんのからだはこらえきれず投げ出された。
れんの目の前の世界がぐるりと回った――。川面が見える。月が半分、雲で隠れようとしている。丸太の山が縦に並んでいる。
自分の周りから水しぶきが上がった。
と思うと、背中や頭に痛みを感じ、次いで全身が水に覆われ沈みこんだ。
(川に落ちたのね……また)
妙に冷静にれんはそう思った。それと、この前の泥だらけの川よりはましだ、とも。
自分の周囲をあぶくが取りまいては次々と水面へと逃げてゆく。あぶくが消えると今度は、さらに細やかな光のつぶが右へ左へとちらちらと舞っていた。
おしりが川底についたとき、水面は手をのばせば届くほどに近かった。川は浅くて、立ち上がればよいだけだ。川底の地面は川岸よりもさらにやわらかい砂場。立とうとして足をとられ、一度おぼれかける。今度は慎重にひざをついてから立ちあがると、胸から上が水面に出た。
川岸を見た。あおが取り囲まれている。取り囲んでいるのは三人ほどだ。
「あお、助けないと」
れんは急ぎ、両腕で水をかき分け岸へ向かった。
あおの横にいる男が香炉を手にしている。こいつは相当のお宝だぞ、と不愉快なしゃがれ声が聞こえた。いつの間にかれんのふところからこぼれ落ちたらしい……が、香炉はこの際どうでもよかった。むしろ、香炉を落としたがゆえ、今まさに、あおを危険にさらしている。そのことをれんはつよく悔やんだ――あおはわたくしが必ず助けなければ。
喜々とした男の声がれんの耳に届く。どこの若様のお馬さまだ? まあいいだろう、お宝だ。荷の結び目を強引に切ろうとした。あおが抵抗する。
「やめてください」
丸太のわきに人のままで佐久が倒れているのが見えた。
あおは、手綱を強引に引っ張られ、首や尻尾を押さえつけられていた。
「やめてくだ……」
あおが全身をねじらせる。いらだった男たちのひとりが刀をふり上げた。この糞馬が!
「――やめて!」
れんは懐刀を抜き、ひざ元の水をけりあげて走った。
「あおから、離れて!」
そのとき、川下より激しい勢いで水柱が立ちあがった。
賊どもが川へと顔を向ける。と、水柱は狂える三頭の大蛇の姿となり、走るれんの頭上を追い越した。
れんはにわかに覚えた畏怖で足をとどめた。
賊たちには見極めるときも、声を上げる間さえもなかった。大蛇は男たちに襲いかかった。ひとりをはじき飛ばし丸太の山に叩きつけ、ひとりを葦の茂みに叩きこむ。と、それはすぐに姿を消した。
寸刻ほど――
静寂があたりを支配した。
おずおずと、れんは後ろをふりかえる。
川はもとどおり穏やかな流れをたたえ、水面に月のすがたを映していた。少しばかりの風が通りぬける。と、映し身の月はゆらゆらと形を変え、葦の茂みが揺れてすすきの穂どうしがささやきあった。
(なにが、起こったの)
わからない。だが、れんにはわずかに自覚はあった。すなわち、自身のあおを救いたいとの願いに大蛇は応じたのではないか、と。
(わたくし自身が、呼んだ……まさか、そんなことがあるはずが)
れんは頭をふって一度、
「いいえ」
と強く言いきかせ、その考えをふりはらった。
まだ油断はできない。あおは無事。だけど、あおの影にとっさに隠れて難を逃れた男がまだひとり、残っている。
れんはその男を見すえた。短刀を手にかたく握りしめ、胸元でかまえる。
「な、なんだ……今のは……!」
その男は叫んだ。なんなんだ、なにが起こったんだ。幾度となくくり返し叫んでいた。
れんは気づいた。男のすぐ後ろにえぐり掘られたような大きな窪みができていた。あの大蛇が大地に刻んだ傷跡だろうか?
さらにあおと男に近づくと、男はれんを見るやますます恐慌をきたし、わめいては後ずさりをした。男は悲鳴をあげつづけた――化け物、化け物だ、化け物があらわれた、近づくな、化け物、助けてくれ、殺される――後ずさった彼は窪みに転がり落ちた。
「化け物。わたくしが、化け物?」
れんはうめき声を聞いた。葦の中に埋もれる男は苦しげに倒れ伏して、うめいていた。つづいて、丸太にたたきつけられた男。意識を失っているのか微動だにしない。そして砂の穴の中の男は支離滅裂なことをわめきつづけている。
れんはふるえた。
あらためて思う。怖い、と。
腕がふるえ、手がかじかみ、その手から短刀がこぼれ、砂上にとり落とした。れんは短刀には目もくれなかった。ただ目の前の惨憺たる情景をぼんやりと見つめ、絶望を吐き出すようにつぶやいた――化け物。
「そこで何をやっている」
どこからか若い男の声がし、続いて子どもの声がした。
「役人だっ」
逃げ来た方角、斜面の上には二、三の火がゆらめいていた。その火が、れんたちのいる場所に近づいてくる。
もう一度、男の子がどこからか呼びかけた。
「役人がきたぞっ」
助けてくれと悲鳴をあげていた男はすぐに走り去った。葦の中に飛ばされた者もはっと目を覚まして身を起こすと、その火が近づくのを見てとるや、役人が来たと叫んで逃げ出した。
れんはその火が近づくにつれ、緊張や恐れがほぐれていった。そして自分に向けられる、皮肉がちなのに優しい、安心できることばを待っていた。
「大活躍だな」
「春時どの」
ふたりはお互いに歩みより、向かいあう。
「わたくしを、あおや、佐久どのが、助け……」
れんの双眸から涙があふれる。頭がいっぱいでろれつが回らない。
「待たせて悪かった」
あふれる涙をれんはぬぐおうとした。が、川に落ちて全身ずぶぬれになったからか、黒髪がほおや鼻や額や目元、口元にさんざんへばりついている。ぼろぼろと双眸からこぼれる涙は、頬を伝い、髪に沿って流れたり、鼻の先からしずくになって落ちたり、口の端にたまったり。
「あの、春時どの」
「どうした」
「今、わたくし、化け物みたいな顔、してませんか」
「気にすることはない」
「やっぱり」
れんは半分やけになって、ふふっと笑った。そうよね、そうに違いないもの――みずからに言い聞かせて、笑った。
春時が不審に思い、どうしたんだとたずねるが、
「なんでもありませんわ。大丈夫です」
れんは微笑んで、首を横にふった。
「そうです。だいじょう……」
大丈夫、と言い終わらぬうちに、れんは足元から崩れおちた。
佐久が小さな声でつぶやいた。
「姫さまは」
「寝入った」
春時はれんの顔に視線を落としたままだ。
「佐久、なにが起こった」
「悪いやつらに襲われてたら、川からたくさん蛇がでてきて、やっつけたんだ」
「蛇……」
れんの安らかな寝息が腕の中から聞こえる。小さく白い手は、春時の衣をしっかりとつかんで離さない。春時がそっと丸太の山にもたれかかると、れんの寝息が一瞬みだれ、左手首にかかる数珠が少しゆれて、音をたてた。
れんの睫毛が、その頬に影を落としている。
春時が駆けつけたとき、その佐久いわく、悪いやつらの叫び声を聞いた。化け物、確かそう耳にしたはずだ。そして、れんは泣きそうな顔でこうたずねたのではなかったか――今、わたくし、化け物みたいな顔、してませんか――。
(人ならぬ力と、龍神は告げたが)
佐久が春時、と声をかけると、彼はふっと困惑めいた笑いを見せた。
「おまえのおかげだ」
「おいら、なにもしてないよ」
「いるだけで救われる」
春時は眠るれんに視線を落とす。童子のような短い髪に指を通すと、髪はさらさらと指からすべり落ちた。