第六話 難波(六)
春時はあおのひづめの音を聞いた。ひとつ憂うべき材料が減ったところだ。
「さて、姫も消えた」
相対する者供、逃げ道を断たんとじりじりつめ寄りつつある。その数、十人は下るまい。
「この場にあるはすべて、都の御前の手の者か」
答えはない。かわりに刃の垣が縮む。
春時に彼らが何者かを知るよしはない。ただ、覚えのある顔が見える。八条悪王の手下であったころに見た顔だ。そんな素性の悪い輩もおり、事実かくの如く問答無用で刃を向ける好戦的な連中なら、姫が館にあってもその身の安全は保証のかぎりではなかったろう。つまるところ、難波津も姫の安息の地にはなり得なかったのだ。
左手から一人が矢のように打ち込んだ。
春時は右足を下げ身をひねりざま、太刀を前に繰り出し左へ動く。敵がどっと足元に倒れた。
また背後右手より、突きが入る。と、正面より上段から叩きつけられる。挟殺の形となる中、半身を返した春時、
がつり
と打金が響くとともに、一刀が空を舞った。
正面より踏み出す一人が勢いのめり転倒すると、背後の男が瞬時、動きを止めた。隙を逃さず春時は太刀を打ちこんだ。血飛沫が舞い、ひとりはひざから崩れ落ち、今ひとりは横転。そして春時は元の位置、元の態勢に戻る。
その間、息わずか五つ。
「回り込め!」
「わきをつめろ」
「落ち着け!」
短い叫びが春時の耳朶を襲う。
「姫を追うのが第一だ」
首領格か。かなり後方にいる。首領をしとめて混乱に乗じて逃げるのは……無理か。
「しかし」
「すぐ助勢が来る」
それはまずい。十人足らずならば凌駕する自信はある。しかし、まともに戦えば無傷ではいられまい。助勢が加わればさらに危険は増す。必要以上の足止めもくらう。
逃げよう。
春時は即断した。追っ手を減らしたかったが、そこまで危険をおかすこともない。れんが逃げおおせる時間を確保すれば、あとは遁走あるのみだ。
「春時」
聞き覚えのある女の声。
気をとられた刹那、猛然と白刃がひらめく。
(しまった)
避けるとっさに足元が揺らぐ。右横に倒れかけるところ、
――吾を離せ。
(分かっている!)
太刀の望みどおり手放し片身で受け身をとったところから、空いた手で地を払い、回転の勢いで立ち上がり駆け抜ける。定めた目標は名を呼んだ者。覚えのあるその声の主は……。
「ああ!」
女の叫び声は春時の両腕の中から上がった。
さらに声をも封じるように、春時の左手が女の喉元にあてがわれる。
「動くな」
「小侍従様!」
やはりと春時は納得し、抑圧する腕に力を込めた。
小侍従は全身をくねらせもがき、なんとか逃れようとする。が、抵抗するほどにその動きを押さえ込まれ、動くことさえままならなくなってゆく。悲鳴を上げようとするも、声ならぬ吐息が漏れるだけだ。
春時は相対する『敵』に強圧的に迫った。
「下がれ」
彼らには目に見えた動きはない。
「下がれ! この女の喉を絞めつぶす!」
じわりと包囲がゆるむ。距離は歩数にして十歩あまりか。邸の灯りが頼りの暗がりの中、かろうじて互いの立ち位置が分かる程度の距離だ。これなら小侍従を派手に突き放して、かく乱させた隙に逃げおおせることは可能だろう。
だが三歩ほど先に太刀を転がしたままだ。太刀は回収したい。龍神の太刀ということもあるが、それ以前に手持ちの得物がないのだ。
「この場にあるはすべて、都の御前の手の者か」
春時は再度、同じ問いを投げた。時間稼ぎだ。小侍従を抱えながら、徐々に歩を進めて太刀へと近づく。
「答えられないか。右大臣どのの御意向は、刃を以って姫を追うことではないからな」
答えはない。なくともよい。出まかせだからだ。太刀を拾おうとする動きを気取られぬよう、揺さぶりをかけるための問いに過ぎない。
これはどうか。さらなる動揺を誘おうと、おぼろげな記憶を、口にする。
「見覚えがある。葛上、葛下か……いずれかで」
「……!」
追手の者たちの間に動揺が走った。今しかない。
小侍従を締め付ける右腕をゆるめ、太刀に手を伸ばした。
小侍従はすきを逃さず、自由となった右半身をひねり、背後の春時に肘撃ち。太刀に気をとられた中でのわき腹への衝撃に、春時の左手も思わずゆるんだ。
好機とばかりに小侍従が渾身の力で春時より逃れようとする。が、春時は頚部に手刀を振り下ろす。小侍従はその場で崩れ落ちた。
「小侍従様!」
春時は足元の太刀を悠然と拾いなおし、
「おっと、動くなよ」
と、倒れる小侍従の背中に刃先をあてる。
「今度は喉を潰すんじゃなく、背中を突き通してみようか」
形勢は変わらない。距離も時間も十分稼いだ。もう逃げ時だ。
「みようか、ではないな。突き通そう」
そう宣言した春時は、大きく太刀を振り上げ、振り下ろす。
――大丈夫ですか。
この身に呼びかける声が重なって聞こえる。
意識はある。だが空ろだ。
後頭部には鈍痛が残っている。それでも小侍従は痛みをおして身を起こした。そして、おのが身を支える若い男に告げる。
「問題ないわ」
虚勢だと男は見抜くが、あえて気づかわず本題に入る。
「春時、とおっしゃってましたか。ご存知なのですか」
「……八条悪王とかいう悪党の一味よ」
「なにゆえその賊の一味が姫を助け、連れ去るのですか。ましてやそんな小者、賊の一味が右大臣どのの御意向うんぬんを口にしたりするものですか」
「知らないわよ!」
小侍従が顔を上げてわめくや、また顔を伏せた。両手を握りしめて痛みをこらえているようだ。この小侍従が髪が乱れるのも忘れてくってかかるところ、春時という者は相当小侍従の情緒に触れる存在らしい。
だが小侍従も取り乱したと悟ったのだろう。毅然と頭を上げ、冷静さを誇示するように男に流し目をくれる。
「……嘉都良」
「はい」
「姫を追って」
嘉都良と呼ばれた若き男、肩をすくめて小さく笑う。
「なぜ? おそらく中将の姫は都に当分還らぬでしょうし、充分外聞の悪いことになりましたから、これ以上は人手を割くこともないと思うのですが」
「姫がこの世にいる限りはそなたの本望に障りがあるでしょう」
嘉都良は答えず近くの者を呼び、小侍従の身柄を預けた。そして立ちあがると素早く撤収の段取りを指図する彼に、小侍従は鋭く問いただした。
「追わないというの?」
腰の刀をすえ直しつつ、嘉都良は答えた。
「すでに追っています」
「ならそう言いなさい」
「安請け合いはよくないですから。あ、そうです。小侍従様にお願いがあるんです」
「なんです」
「傷が癒えましたら都へお戻りを。わざわざ、このような場に足を運んでいただかなくともよろしいので」
小侍従は分かったわ、と切り捨てるように答えた。
嘉都良の言い方は丁重ながらも、小侍従を暗に責めるものだった。彼女が場違いにも顔を出した挙句、人質となって追撃を阻んだ。二度としゃしゃり出て邪魔するなという非難なのだ。
たかが門番のくせに――小侍従は反発を覚えたが、確かに小侍従が春時の存在に気をとられ、彼らの足を引っ張ったのは事実だ。
なにより、中将の姫が難波に向かうと突き止めたのも、この若い右大臣邸の門番なのだ。加えて、物狂いの姫と吹聴して邸内での騒ぎをおさえた機転。急遽集めたならず者たちを率いた手腕も見事で、彼の能力は認めている。小侍従は素直に引き下がった。ただし、都で吉報を待っている、と嫌味も忘れない。もっとも、
「ええ、いずれよい知らせをお届けしますよ」
と、まったく嘉都良にはこたえたようすはない。
「それと小侍従様にいまひとつ確認しておきたく」
「なに?」
「今度はあの春時は、斬りますよ」
小侍従はきっと厳しく目を細めた。
許さない――春時。今や行動のすべてが許せない。あの男はなにかの目的がある。その目的のために八条悪王も、そしてこの私も利用したに違いないのだ。でなければ中将内侍を守らんとする意味がない。その目的がなにか。それは分からない。けれど……知る必要もない。私を利用した。それだけで許せない。
そして中将内侍、春時の手により包囲網より逃れた横佩大臣の郎女。あの忌々しい姫も、どこに行こうとも追いつめてやらなければ。
「首を届けて頂戴」
小侍従を見下ろして嘉都良は微笑した。
「ご希望の旨、了解しました。それでは御前様によろしく」