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荷葉の路  作者: 鏑木恵梨
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第六話 難波(五)

 ややあって、れんは音もなく立ちあがった。

 そろそろと西の孫庇(まごひさし)へと歩み、足をとどめる。

 外は闇。数歩先までままならぬ。

 れんは思案した。邸内と大路を隔てる塀まで、どれほど離れているのだろうか、と。闇の先にあるはずで、灯りを差し出せば判るかもしれないが、女房たちの耳目を集めることはしたくない。日も高い時分には考えもしなかったことと、れんは苦笑した。

 あらためて耳を澄ますも、周りに人の気配は感じられない。虫の音さえない静謐の中、草木と風のささやきや、灯りのゆらぎさえも聞こえそうだ。

 れんは軽く安堵の息をつく。

 ゆっくりと背後の母屋へと目を向けると、蓮向かいからはわずかな光りが差し込んでいた。れんは暗闇の中に浮かぶ人影を認めた。

「お話してもよろしいですよ」

 月あかりを背にして少年が立っている。れんは彼に問う。

「桜の、小枝どの?」

「はい。佐久といいます」

 少年の声は少し緊張の色を帯びていた。

 一方、れんはその答えに納得した。木簡の束よりこぼれ落ちた小枝。それを見るや、れんは予想した。小枝は龍田川の濁流から春時が救い出し、連れて来た桜。そして木簡の送り主は春時に違いない。

 れんは佐久に近づいてゆく。彼はおのれより小さな子どもだ。

「佐久どの。ことづてがおありだそうですね」

 佐久はぎこちなくうなずいた。

「桜が訪れたから、釣船、寄せてもいいですか」

「釣られるのはわたくしですね」

 れんは固まっている彼の手をとった。

「行きましょう」

 佐久はうつむいたままだ。

「ええと、では、春時に知らせてきます」

「どのように?」

「外までひとっ走りを」

「いけないわ、捕まってしまいます」

 佐久は驚いてれんを見上げた。

「じゃあ、どうしたら」

狼煙(のろし)をあげてはどうかしら。今から、この場所から動きます、と煙でお知らせすることができます」

 しばらくの沈黙ののち、佐久が一言。

「目立ちます」

「狼煙は、目立つものでしょう」

「姫さまが、目立ちます」

「大丈夫ですよ」

 れんはにこり笑って答えつつ、矛盾だらけだと思った。先ほどまで目立つまいとした。が、今そのこだわりはない。れんが捕まっても身の危険はない。なら、佐久や春時になるべく害が及ばないよう、注目はおのれにのみ集めた方がいい。

「これよりわたくしは、薬を煮たり煎じたり、することになっています。物音を立てたり、煙をあげたりしても、それほど不自然ではありません」

「でも」

「大丈夫ですよ」

 れんは再度言い切ると、早速せっせとそこらのものを集めはじめた。荷造りだ。あとは着替え。この邸でくつろぐ姫の身格好ではまず逃げ切れまい。

 佐久はもう反論できないと悟ったか、細い小枝に戻った。れんが外へ飛び出すその時を待つばかりだ。



 袁比良は奥の控えでひとり悩んでいた。

 姫が邸に入られたのがつい昨日、今夜は薬とやらをお作りだ。そんな中、邸内の者に不審がられぬよう姫を外へ連れ出せ、というのが小侍従の依頼。無茶をおっしゃる、と袁比良は心の中で愚痴をこぼした。姫が外へ赴く理由づけは難題にすぎる。

 小侍従は焦っているらしい。十人を超える供まわりの男を集め、夜中に船を出して木津川を下り、難波津に入ったという。

(姫がおひとりで難波にいらっしゃるなんて、前代未聞。小侍従どのが焦るのも無理ないわね)

 当の横佩大臣・豊成公から歌まで届いている今、焦ったところで手遅れだろう。が、知ったことではない。姫を託す役割さえ果たせば済む。それで袁比良は前の右大臣家の難波津でのあるじも同然の立場になる。

 袁比良は姫のようすを見ようと座を立ったのだ。

「けむり……!」

 彼女は庇の中からあがる煙を認めた。そして庭を横切る孤影。一瞬盗人と見まがうが、目を凝らすとその小さな影は姫に違いない。

「誰か! 姫さまがお外へ……」

 侍女たちも奥から表に飛び出してきたが、袁比良が姫の追跡を命じても、

「走られているのが姫さま?」

「あっ、築地をお登りに」

 と、狼狽するばかりだった。

「門外の小侍従さまにお知らせせよ」

 と、その場を仕切ったのは若い男の声。築地を追いかけるのは間に合わない、馬を曳け、と次々に指示が飛ぶ。小侍従の連れて来た供まわりたちだ。

 その若い男が袁比良以下、別業の家人たちに告げる。

「ご心配には及びません」

「されど」

「もの狂いの姫さまは必ずや吾らにて都へ連れ帰ります」

「もの狂い……」

「夜ごと邸を抜け、いかがわしいふるまいをなさるのです」

 あの姫は物狂いであったのか。ならば話はつながる。姫が突然現れたのも、姫の短い髪も、妙な薬づくりや父からの便りに淡々としていたのも。夜を徹して難波へと下り、姫の引渡しを求めた小侍従の行動は、世上のうわさに上らせないため。小侍従が別業の外に身をおいたのも姫に顔を知られているからこそだ。筋の通った説明に、難波の別業の者たちは納得した。

 ただ一人、袁比良を除いては。姫を逃した失態、まずあるじ『右相国さま』への悪印象は免れないだろう。彼女は悔しさに歯噛みした。



 れんは目に映った桧垣によじのぼり、築地塀の上から飛びおりた。周囲を探ると人がいて、目が合った。どちらともなく笑みがこぼれた。れんは安堵の笑い、春時は、苦笑。

「春時どの」

「佐久はどこに」

「あ、はい。ふところに」

 れんは衣の袖をさぐる。

 と、ごろん、と小さな香炉が転がり落ちた。

「それは」

「きっと、食う元手になります」

「……確かに」

「でしょう?」

 得意げに微笑したれんは香炉を拾い上げた。

 精巧に金格子細工の逸品で、確かに高値には違いないのだが。

「盗賊の所業だろう」

「ぜんぶ、父上のもの。むすめが、少しばかりお借りするだけですわ」

 れんは悪びれずに答えを返す。

 れんは背中に妙に大きい包みを背負い、玉で装飾を施した懐刀を腰帯に差し、男の童の姿でいる。本人としては万端の旅支度を装っているわけだ。賊からすると歩く宝のようでも。春時はわざとらしく嘆息するが、これ以上触れないことにした。時間の無駄だ。

 築地塀の向こうが明るくなる。邸内が騒ぎはじめたのだ。

「佐久、馬を。例の場所へゆけ」

「わかった」

 香炉とともに転がり落ちたか、いつの間にか人になっている佐久が走っていった。

「佐久はあおを操れない。だが、あおはれんの言うことなら聞く。佐久から行く先を聞いてれんがあおを走らせるんだ」

「春時どのも、ともに行かないのですか」

「寸刻ほどはな」

「なにゆえ」

「客人だ」

 闇から突如、黒影が飛びかかる。

 春時は抜き打ちに影へと一刀。

「……ぐ……っ」

 激しい音がし、男が飛沫を上げ転倒した。

「春時どの」

「難波も魑魅魍魎の巣窟らしいな」

 れんは小さくうなずくと、れん姫さま、と佐久が呼んだ。

「あおを連れて来たな」

「うん」

 すぐ近くでたいまつの灯りがいくつも浮かび、次々と怒号が上がった。

「いたぞ!」

「賊じゃ!」

 春時はすばやく告げた。

「くい止める、早く行け」

「春時どのは」

「一人では、怖いか」

 春時が揶揄するように笑った。れんの小さな顔は血気をなくしていたし、指先は細かに震えていた。だが、自らの手で、切り抜ける覚悟をさせねばならない。

 れんはくちびるを結んだ。春時を強く見返し、すそをたぐった。

 あおの手綱を持つ佐久が、姫さま、と再び声をかけた。春時の言うとおり、佐久はあおを動かせないらしい。ただ、背には乗れるようで、佐久は曲芸師のようにあおに飛び乗って見せた。れんは佐久にあおの背へと引っ張りあげてもらうと、あおのたてがみを柔らかくなでて懇願した。

「あお、行って」

 れんの願いにあおはひとつ荒い息で合図すると、駆け出した。

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