第一話 琴韻(四)
男は廃屋の軒下から天をふり仰いだ。
星の瞬きに反し、その目は物思いに沈んでいる。
男は思う。
思いのほか中将の姫は強かった。まだ子供っぽさの残る姫ゆえ、さぞかし延々とすすり泣くかと思ったがそんなようすは一向になく、毅然とした態度を見せるし、いろいろと質問をあびせ、さらには「背いていかになさいます」などと問う。よくぞ刃を向けた不逞の輩に「なぜ命令を破るのか」などと尋ねたものだ。
なにより意外だったのは、懐刀を抜き、さらには投げ捨てたことだ。
右大臣邸で殺すつもりはなかった。一刀目は脅しだった。騒ぐならば口を押さえ、暴れるなら殴りつけてやろう、腰を抜かすなら見おろして嘲笑し、そして卑しい満足を快感に変える。
恐怖と絶望にうち震える前の右大臣の姫、三位中将内侍。その哀れな姿を心ゆくまでに見下し、満月のもと楽しむつもりだったのだ。
それが思わぬ反撃。深窓の姫ともあろうものが懐刀でむかえ撃つとは。全く予想外、いや、抵抗は予想していたが、その身のこなしは想像をはるかに越えていた。あまりの驚きに動きを止めてしまったほどだが――いや、さらに驚愕だったのはその次だ。姫は父の命令だと聞くや、迷うことなく刀を捨てたのだ。命を惜しむようすなどは片鱗も見えなかった。
「どうしてそこまで潔い?」
背いていかになさいます、と問いかけられた。
あの時、答えられなかったのは恐れたからだ。
「数え十四の中将内侍に? なにを恐れた?」
廃屋から流れる澄んだ音に男は気づいた。
「これは」
梟も鳴くのをやめ、木々に止まりその身を寄せる。
山の破れ屋より届く、乱れなき旋律。
「音に聞く中将内侍の琴……天上の調べ」
そして男はにわかに手で目元を覆い、低く呻吟した。
「この琴の手、まさしく話に違わぬ琴の名手」
男はしばし、天人の旋律に身を委ねた。
そして思いはめぐり、くり返す。
廃屋を出たとき、中将の姫を直視できなかった。
中将の姫の澄んだ瞳に、よどんだ心を見透かされはしまいか。恐れたのは、そのことだ。後ろめたさが心を支配し、いても立ってもいられなくなったのだ。
なぜ……久しく忘れていた罪の意識などを覚えたのだろう。捨て去ったはずだった良心がにわかに蘇ったのだろう。
彼は手を顔から外し、眉を歪めつつ虚空を睨みすえる。
やはり、答えは出ない。
木々の間からは星がこぼれ落ちそうに瞬く。月を隠した雲はどこかへ消えていた。谷間の泊瀬はふき通る風もなく、葉は静かに時を待ち、木々は互いによりそい眠っている。泊瀬川の速む早瀬のせせらぎが、遠くにかすむ。闇に隠され見えぬ遥か右手の山からは、若い馬たちのいななきが届いた。まるで姫の琴の音に、天人の呼び声に、我らはここぞと応えるように。
「馬、複数」
男ははっと我にかえる。
「だめだ、とどめなければ」
男は素早く身をひるがえした。