第六話 難波(四)
女は、春時に気づくことなく去ってゆく。
土塀の影に身をひそめる春時。かの姿には見覚えがあった。いや、顔かたちだけのみならず、女についてはそれ以上のことも知っている。
(小侍従)
れんの継母である照日御前の侍女、小侍従。
あの女がこの難波津にいる。ひと波乱があるのか。龍神が告げた「いずれ解る時がくる」――あれはあながち間違いではなかったか。ただ難波に送り届けただけではすまないというのか。春時は腰の太刀に手を触れた。
(いや、だが待て)
「小侍従さま」
枯れ松の下、いま一人、女がいた。女は侍女筆頭の袁比良その人であったが、春時は知る由もない。ひそやかな会話をはじめる二人。周囲には彼女らのほか、気配もない。
春時は顔を伏せて通りすがりをよそおい、至近の築地へと動いて身を隠した。話を盗み聞くためだ。
「……なのですが、いかがいたしましょう」
問いかける袁比良。対する小侍従は、
「薬草は買い与えなさい。むしろ都合が良いわ。今晩は生薬と土瓶のそばにかかりきりになるでしょう」
と指図した。
「筆もお求めですが」
「右相国さまの手に渡る証跡の一片でも残されてはならない」
「しかし市に行きながら筆を手に入れないのは、不自然で」
「姫にふさわしい良いものがなかったとでも言えばよいでしょう。それくらい頭をお使いなさい」
「申し訳ありません」
「とにかく貴女は戻り、中将の姫を安堵させ、門番を取り込む。それだけよ」
袁比良がこくりとうなずく。
「それだけで、貴女はこの難波の別業の主になるわ。良いわね」
「はい」
「では明日、あけぼのの刻に」
会話を切るや、二人は足早に別々の方向へと立ち去った。
春時は息を殺したまま、短い会話から推論を組み立てる。
袁比良のことは知るよしもない。だが別業の侍女だろうと、会話から察しをつけた。しかも小侍従の配下もしくは協力者であり、照日御前の思惑に従う者である、と。春時もとい堅虫にとっては痛恨の事態だ。姫の身を御前の手が及ばぬよう遠ざけたはずが、姫を陥れんとする者がなにくわぬ顔でれんのそば近くに控えていたのだから。
だが悔やんでもしかたがない。それよりも「明日のあけぼのの刻」だ。明日の日の出とともに、あの侍女の差配でなんらかの動きがあるとみていい。だがなにが起こるのか。門番を取り込むというのなら、御前一派を邸内に引き入れるのか。それともれんを連れだすか。端的に示すことばを会話から見いだすことはできなかった。
では、ひとまず彼女らを泳がせるか。それとも先手を打つか。
(なによりも大事なのは)
春時は足元に視線を向けた。小さな木の芽にすぎないそれは、寸時前は少年の姿をしていたものだ。
「桜の小枝、もういい」
すると、どういうわけか木の芽はぐん、と伸び、少年の形をとった。
「やれやれっと」
「桜の……まどろっこしいな。おまえ、名は」
「ない。つけてよ」
「では、桜だから佐久」
「適当すぎない?」
「そのとおりだ。で、佐久には重要な任務がある」
春時の耳打ちに桜の小枝――佐久はにこりと笑った。
「できるよ」
「託したぞ。天女さまを救い出すんだ」
佐久は春時の期待に応じるべく、こぶしをふり上げて宣言した。
「まかせて!」
再び舞台は横佩大臣の別業へと戻る。
時は夜更。れんのいる西の対屋の母屋まで、ほのかな月あかりが差しこんでいる。
袁比良は拝礼し、入手した薬種を載せた高杯を母屋のあるじに献じた。
「ありがとう」
目前に控える侍女筆頭に、れんは謝意を示した。やはり筆はなかった、と内心気落ちはしたものの、一方ではやはりそつのない仕事ぶりに感心していた。口伝で五種ほど頼んだというのに、間違いも欠けもなかった。なじみのないものを求めるのは難しいものだし、しかも求めるものは覚えづらい、漢名の薬種なのだ。
れんは薬種を手にとり吟味をはじめようとした。するとそこへ侍女が、
「姫さま、姫さま」
と喜々とした呼びかけをくりかえし、とびこんできた。安佐女だった。
「なにごとです」
「右相国さまからのお文でございます!」
そう述べて安佐女が差し出したのは、木簡の束とすすきの穂。袁比良はするどく詰問を浴びせかける。
「右相国さまのお使い、名はなんと申したのです」
安佐女が困惑の態でいると、袁比良はたたみかけるように問いただした。
「名乗りはなかったのですか」
「あの、都の右相国さまのお差配と申しておりました。名は、うかがいませんでしたが」
「どこぞの者とも知れぬのにやすやすと信じて受け取ったというの?」
「あ、あの、口上も立派でしたから」
「不埒な輩みながみな、あやしげな物言いをするはずがないでしょう」
安佐女はもの言えず顔も青ざめ、縮こまっている。険悪な雰囲気の侍女らを見るに見かねて、
「袁比良、あまり責めないであげてください」
と、れんが仲裁に入る。
「されど姫様」
「安佐女は、わたくしが喜ぶであろうと、早く渡そうとしたのでしょう」
さすがに袁比良もこれ以上責めるのは分が悪いと察したか、姫の面前で騒いだことをわびた。安佐女はまさにほっと息をつき、元来楽天家なのだろう、顔色ももとの紅をさしたようなほおに戻った。
安佐女のようすに胸をなでおろしたれん、気をとり直して木簡の束を広げた。すると、ひざ元に小枝がはらりと落ちた。れんはその小枝を手に取り、次にすすきに目をやり、そして五本の木に記された文字をしげしげと見つめる。
「まこと右相国さまからでしょうか」
袁比良がたずねた。
れんは木簡から視線を外すと、おもむろに歌を朗じはじめた。
秋萩の花野の薄穂には出でず
わが恋ひ渡る隠り妻はも
「すできな恋の歌ですね」
感じ入っている安佐女に、袁比良が違うと一蹴。
「右相国さまはなんと情けないことをおおせなのでしょう」
れんはただ愁眉をよせた。
秋の花野のすすきのように、表に出ぬよう隠している恋しい妻はどうしているのか――歌は恋情にあふれていた。しかし『隠り妻』に仮託した姫のありようは、世間より隠れ人目を忍ばねばならない身の上。いいかえると、しばらくは都に戻すわけにはいかない、そう命じられているも同然なのだ。
れんはいまひとつ、淡々と詠じる。
山の峰の上の山桜咲かむころ
難波の浦に寄する釣船
袁比良が確かめるように言った。
「右相国さまがここ難波に来られるのは桜のころ、ということですか」
「半年以上も先のことではありませんか!」
まるで我がことのように安佐女は憤りをあらわにした。
れんは袖口でまなこを覆い、物思いに沈んでいたが、やがてかすれた声でふたりに告げた。
「今宵は、わたくしひとりにしてください」
侍女たちは思った。姫は寄る辺なき身を嘆いてひとり涙を流したいに相違ない、と。でも侍女がそばにいる限り、髪を短くされようが、半年は会わぬと宣言されようが、気丈にふるまう。それが中将の姫なのだ。そんな痛々しくもけなげな姫の心をおなぐさめするには、おひとりにしてさしあげるべきだろう。それに警護がなにより大事とも言いづらい。
袁比良は静かに礼をし、安佐女とともに侍廊の奥へと下がったのであった。
そしてただひとり母屋に残ったれんは、小さく嘆息する。
「春時どのって、やっぱり意地が悪いわ」
「秋萩の花野の薄穂には出でずわが恋ひ渡る隠り妻はも」(「万葉集」巻10 2285)