第六話 難波(三)
ざわめく酒家の中、なまりのある言葉に春時は顔を上げた。
春時が手で了解を示す。と、浅黒い顔の男がにんまりと笑って座り、春時のそばの高坏に手をのばす。大きく手をたたく音に遅れて、
「唖!」
といった小さな叫びが座台に響いた。了解したのは相席だけだ、と春時が軽く笑うと、男も手をぶらぶらさせつつ懲りない顔で苦笑した。
肌の色は濃くぎらぎらした目、小さな身体にそぐわぬ隆々とした腕。男は津に停泊する外つ国の船――新羅あたりの船乗り、それも歴年の水手であろうか。
「海を渡り、唐土で暮らすか」
悪くない、と春時は思いつつ、ひさげを傾ける。
とはいえ、思いつきで飛びこめる世界ではない。多くの船は狂った波にもまれた果てに沈み、選ばれし船こそがこの地を隔てる海を越えられる。目の前の男はよほど海神に恵まれているに相違ない。
だが、海に消えるのも悪くない――しかばねは海の底に眠り続ける。人知れず海原の底にたゆたい、やがて朽ちて藻くずとなり消え去るのだ。刑場の露に消え獄吏の手で処理されるよりは、路傍で虻にたかられる醜悪な姿を衆人の目にさらし、狗に喰われるよりは、よほど報われる終焉ではないか。
そんな虚無的ともいえる想像から、いまひとりの少女の姿を連想する。
(刑場の露――首の女。そうだ、代えの首、堅虫のむすめ、瀬雲といったか)
れんが都に帰れば瀬雲が死んだと必ず知るだろう。いや、難波でも伝え聞くかも知れない。瀬雲が姫の身代わりにと服毒した、と。その事実をれんが知ったとしたら。
(いや、堅虫どのが漏らすまい)
春時は即座に否定した。
が、すぐに否定もできないと思い直す。話の出所は堅虫だけとは限らない。家人や出入りの下人からうわさを聞きつけることもあろう。
瀬雲のことを知った時のれんの嘆きはいかばかりだろう。やはり堅虫の名を出したのは失敗だった。彼の忠義と奔走ぶりは、恩賞で報いなければならぬほど安っぽいものではないはずだ。
「かわいらしいお方だったよねー。父上」
「え?」
横には色白の男の子が座っていた。
「だれだ」
「かわいそうなおいら。一日前のことなのに、もう忘れられてら」
そう言われ、ぴんときた。
「桜の小枝か」
「おうよ!」
桜の木に助けを求められ、龍神に剣を託され、次は桜の小枝。春時はもう驚く気も失せている。ため息をつき、男の子から目をそむけた。
正面では例の相席の男がニヤニヤしている。
「イ尓的兒子」
(おまえの子供って。俺はそんなに老けてるか。どんな若気の至りだ)
顔のはしで不満を表明する春時に、桜の枝の少年がにっこり笑っていわく。
「よろしく頼むぜ、ちちうえ」
「それが父上に対する態度か」
春時が皮肉を交じえるが、桜の小枝はまったくこたえていない。
「ところでさ、あのかわいらしい方は戻ってこないの」
「かわいらしいとは」
「川からここまで馬に乗せてた、あの女の人」
れんのことだ。
「戻ってこないな。この難波津のお邸に来るのが目的だったから」
「そうなの。残念だなあ。天女さまにお仕えできてうれしかったのに」
「天女さま」
いぶかしげに春時が問う。
桜の小枝はまじめな顔になり、卓の上で両手を結んでまぶたを伏せた。
「水龍さまがお怒りの中、ずっと天から声が聞こえてたんだ。母上とは別の、若い女の人の声、あの人にすごく似てた。いま少しこらえて、必ず、助けるから」
「そうやって励まされたから濁流の中も流されずにすんだ」
「かも。いや、絶対そう!」
桜の小枝はぱっと笑って、ひさげを手にして春時の高杯に酒を注いだ。
天からの声。あの状況下ではれんがその主、そうとしか思えない。ほかにだれがいるだろうか。桜の小枝を励ましつづけるような、悠長で奇特な少女が。そして、
――観音菩薩の分身として生を授かった女。
龍神にそう語らせた、不可思議な力の持ち主が、ほかにいただろうか。
桜の小枝が春時の袖をひっぱる。
「父上?」
「ん?」
春時の傍らに若い男が立っていた。春時の目に、男は上流の者と映った。身を包む袍は新品同様で、頭巾は麻ではない(世間ではあまりお目にかかれないような)良い衣を使っている。人相も穏やかで卑しさがみられない。
「商人か」
「まあな」
かたわらに堅虫から託された荷をおいている。間違われても無理はない。
「すばらしい太刀だな」
「これは売らぬ」
春時は即座に言いはなった。
「吾は良い太刀とみれば糸目はつけぬ。どうだ、交換は米か、銭がよいか、それとも絹がよいか」
「無駄だ」
「言い値でよいが」
「あきらめてもらおう。こう見えて金には困っていない」
男は退かず、春時の斜め前に座った。春時が太刀を引きよせた刹那、女が通りすぎてゆくのが見えた。
(あれは)
春時が立ち上がると、
「おいおい、あからさまにすぎるぞ」
若者は不平を口にすると春時の肩に手をかけた。
「急用ができたのだ」
その手を春時は穏やかにおしとどめ、
「再び縁あらば俺も一考しよう」
「気が変わったら都の田村第を訪ねてくれ。『刷六に太刀を見せる』と伝えればよい」
田村第――左大臣の藤原仲麻呂の屋敷。仲麻呂は前の右大臣豊成の弟、れんの叔父にあたり、兄をもしのぐ権勢をほこる。その縁者としたら、酒家ではじめて会った男の太刀の代に大枚はたく酔狂も、気まぐれのひと言で片付く程度のものか。
春時は若者から顔をそむけると、わずかに顔をゆがめた。
(仲麻呂、その名を思うだけで忌々しい)
卓に銅銭を置いて早々に店を引きはらう。桜の枝も立ち上がり、春時を追った。
同じ卓子の男は春時の残した銅銭が「おごり」と分かると、大声で次々と酒を要求しはじめた。太刀を求めたあの若者も、そのタダ酒争奪戦の喧騒にまきこまれたか、それとも素直に「この場は」いったん退いたのか。春時を追いかけてくることはなかった。
相席の新羅人には朝鮮語でなく当時の国際語である唐の言葉でしゃべらせました。