第六話 難波(二)
「なんという……」
「ひどうございます」
と侍女たちが口々に嘆くさまが、れんには不思議に思われ「なにがでしょう」と問いかけた。
侍女たちは声をそろえていわく。
「そのお髪でございます!」
れんは得心いったらしく、後ろ髪に手をそえてほほえんだ。
「でもね、かえって、すっきりしたみたいです」
「姫さまはたいへん優しいの心持の御方ですわ。みなに心配かけぬよう、気丈にふるまっていらっしゃるのですね」
年かさの侍女がわけ知り顔でひとり納得すると、ほかの侍女も、
「まあ……なんと」
「おいたわしいことですわ」
と、そろって袖を湿らせるのであった。
そんな大げさな。そう思いつつも、れんは口をつぐんだ。わざわざ場の空気を悪くすることもない。
袁比良という侍女を筆頭に、四人の侍女が傍らを離れることなく、れんの世話を焼いていた。正直、世話を焼きすぎる。れんがそんな感想をいだくほど、彼女らはきわめて甲斐甲斐しい仕えぶりをみせている。
(少しはひとりにしていただきたいけれど)
れんはそれが高望みだとも分かっているから、口にはしない。誘拐され戻ってきた後だ。警護上、許されることではないだろう。
そんなれんの胸中を知るや知らざるや、袁比良は自身たっぷりに言った。
「姫さま。ご安心なさってください。ここは姫さまの御母上、紫御前さまゆかりの方ばかり。みな、姫さまのことを心よりお慕い申し上げております」
「さようです。そんなに気丈にお振舞いにならずともよろしいのですよ」
「そうですよ。髪が結えぬとお知りになれば、右相国さまのお嘆きはいかほどか」
「これ、よけいなことをおっしゃいますな」
「あっ」
叱られたのは若い侍女だった。名はたしか安佐女といったろうか。肩をすくめて両手で口をおさえている。
「でっ、でも大丈夫です。なんでも北の方にゆくとかで、右相国さまはしばらくは難波にはいらっしゃいませんから」
この邸では皆、藤原豊成のことを『右相国』と称している。豊成公が右大臣から太宰府帥へ降格となるも赴任を嫌って滞在し続けたのがこの難波だ。それゆえ邸の者はあるじが『右大臣』であることにこだわり、右大臣の唐名を呼称とし続けているのだった。
それはさておき、れんは少しばかり肩を落とした。
「父上が嘆かれるのですね」
無理もない。この短い髪はとても世間に出せる姿ではないのだ。縁組や参内はおろか、右大臣の姫の名で寺へ詣でようにも姿をさらせない。おばばさまの代参をするための美濃行きなど、もってのほか。人前に出ることがことごとく『はばかられる』のである。由々しき問題だ。
「どれくらいで、元どおりまで伸びるかしら」
「元どおりになるには三、四年はかかるでしょう」
れんは目をぱちくりさせて驚いた。
「三、四年。そんなにかかるのですか」
思いがけない長い年月。「すっきりした」とのんきに構えていた自分が、やはり考えなしだった、と情けなくなる。
「それでは、その間、父上とお会いすることも叶わないのでしょうか」
「いえ。さすがに右相国さまとの面会を幾年も行わないわけには参りますまい」
れんは思わず身を乗りだした。
「妙案があるのですか」
「挿頭花をして短い髪を覆えばよろしいのです」
なるほど。短い髪は仏道に入った者を表す。ならば世俗の者らしく飾りたてよ、ということか。そう知れば急に望みが高くなるというもの。
「ああ、今すぐにでも父上にお会いしたいわ」
「右相国さまがごく自然に難波においでいただけるよう、とり計らっております。姫さま、しばしのご辛抱にございますよ」
「その日が楽しみですわ。それでは……そうだわ。竹と筆はないかしら」
袁比良が首をひねる。
「なぜそんなものを」
そう問うので、父上に消息を知らせるのだとれんは答えた。
と、そんなものは侍女に書かせればよい、と袁比良が言う。高貴な姫が手づから文を書くなど考えられないといわんばかりだった。
「せめて、わたくしの筆になるものを、父上にお送りして差し上げたいのです」
「わかりました。しかし、姫さまのための御筆をとりよせねばなりません」
数日ほど待つように袁比良は告げた。
今、邸にあるものでいいのに、とれんは思った。なぜ数日かかるのだろう、とも。新たな筆をとりよせるにしても、難波津の市にゆけば筆はいくらでも手に入る。小ぎれいな衣に替えるため、春時に連れられて市を回ったので、れんはそのことを知っていた。しかし反論する気も起きず、れんは小さくため息をついた。
(春時どの)
もう、お会いすることはできないのかしら。
春時とすごした数日は貴重なことを知った。邸の内にいれば何年かけても学べないことだろう。筆など市にゆけば手に入る。知らなければ、数日待つことに異論もなかったろう。
(もう火をおこすなんてこと、ないのでしょうね)
ふっと笑みが漏れた。
確かに春時の言うとおりだ。ここにいれば木っ端をこすり合わせて火をおこすことなどない。「逃げよ」と告げられ、従ったことも結局はよいことだった。彼の言は正しい。
その春時の最後の頼みは、堅虫どのの忠義なはたらきを称揚することだ。
堅虫どのを……
「あ」
「姫さま。いかがなさいましたか」
堅虫のむすめ、瀬雲のことを思い出した。
瀬雲の胸の薬はじき切れる。早く作って送らねば、瀬雲は発作で苦しむことになるだろう。
だがここに、煎じるための道具はあるだろうか。なにより材料となる薬草は。
市には多くの唐人がいた。筆以外に草木の束も見かけた。きっと売っているに違いない。邸内を探させるよりは購入するほうが早いようにも思える。
「薬草を、頼みたいのです」
「薬草でございますか」
「ええ。これは、急いでいただきたいわ。ないと病で苦しい思いをします。今夜には煎じて冷まさねばなりません」
袁比良はまた首をかしげ、
「病でしたら薬なんかより祈祷がいちばんです。すぐに僧をお呼びします」
「いいえ、薬草が必要です」
れんはきっぱりと告げた。
「唐人のいる市なら、あるはずです。市にゆき、探してきてください。今から必要な草木の漢名を書いて……筆がないのでしたね。では、お話しますから、それをそのまま、薬の商人にお伝えなさい」
袁比良は納得いかないようすだった。病には祈祷がいちばん効くというのが貴族の常識。あやしげな薬草を姫が所望するとはいかなる了見、といったところだろうか。
しかし、他の侍女の前で姫の要求をなおざりにするわけにはいかない。袁比良はみずからすぐに市にゆくと答えたのだった。
れんは少しだけ期待した。
(ついでに筆も調達してくれたらよいのですが)