第六話 難波(一)
おだやかな日の光を受け、甍が輝く。
難波津――そこでは多くの民が行き交っている。それも異相が多い。
奈良の都も異国の民は見かけるが、難波津の比ではない。難波津は大和の海の玄関口と、その光景がしめしている。
皇都として遷せられ「難波宮」と称されること二度。一度は天智天皇の御代。そして先代、聖武天皇のころ。異例なことに、天皇ご自身が難波でなく恭仁の宮にいるにもかかわらず、皇旗が翻ったときもあった。
それゆえ殿上人は、難波に「別業」つまり別邸を構えていた。いつまた皇都となるか知れないからだ。中将内侍の父・藤原豊成はかつて右大臣から太宰府帥に左遷されたが、太宰府に向かう船に乗らず、この難波の別業ですごしたことがある。
今、れんと春時はたたずんでいた。
難波宮の大極殿の甍をすぐ北に望む、長く延びる築地の日陰。築地の向こうは豊成の別業である。
「これを、門番に渡せば、よいのですね」
れんは竹簡をにぎりしめて言った。
横佩大臣の家司・堅虫が春時に託した竹簡だ。
「春時どのは」
れんはためらいがちに尋ねた。
「いっしょにいらしてくだされば、お礼などできますのに」
「人さらいがのこのこ顔を出せるか」
「でも、わたくしを助けてくださいました」
「礼なら充分いただいている」
「継母上からですか? それは、お仕事の報酬でございましょう」
春時は虚をつかれた。
れんの口から「報酬」という言葉が飛び出したことに。この姫には無縁だったはずの言葉だろう。邸より逃れて以来、前の右大臣の姫・中将内侍は今までかかわりのなかった仄暗い世間をのぞき、素直すぎるくらいに吸収している。
そして、春時は迷う。告げるべきかどうか。
「春時どの?」
「……堅虫どのだ」
「堅虫、どの。平城京の、家司の」
「あの方から礼物はいただいている。この難波に住まい、時を置いて都に向かえるよう段取りを図ってくれてもいる」
「まあ!」
「都に戻ったら大臣に堅虫どのの忠義をたたえるよう申し上げてほしい」
「はい、かならず申し上げます」
れんは納得したか、にこりと笑った。
「父上にそっと。母上にはもらさぬように、申し上げますわ」
大丈夫だ。れんは分かっている。
「頼んだ」
「はい」
れんは深く一礼し、
「春時どの、お世話になりました。くれぐれも御身を大切になさってくださいませ。では、ごきげんよう」
顔を上げるとしずやかに門へと向かい歩んでいった。一度足をとどめたが、しかしふり返らずに再び進む。
春時は身を隠しそのなりゆきを眺める。
れんを門番がとがめた。しかし竹簡を渡すとすぐ、門を通り抜けていった。
ふう、と春時は太い息を吐く。
(これで終わりだ)
胸に広がるのは安堵感。
自分がさらった「れん」は前の右大臣の姫、中将内侍に戻っていった。
(襲うつもりが人助け、か)
この皮肉なめぐりあわせに、春時は思いをはせた。
なぜ助けたのだろう――潔い態度。そんな理由を口にしたこともあったが、あれは、でまかせに答えた理由にすぎない。
分からないでもいいか、とも思う。もう二度と会うことはないだろう。かたや藤原氏の姫、かたや住まう所も名も籍にない逃散の者では、住む世界が違いすぎる。
春時は腰に手をやる。
手に触れる冷ややかな感触に、腰に佩いた太刀の存在を思い出す。この神具は不思議と重さを感じない。
記憶に龍田龍神の声がよみがえる。
――おぬしに預けるぞ。
(分からない。なぜ太刀を預けた)
まだ都への道が憧憬の対象であったころの幼い自分と、龍神。
そして中将の姫を望む龍神。
姫の短い旅の道行きとなった自分。
これは偶然ではないのか……。
(いや、もう終わったことだ)
姫が無事に難波に到着した、と堅虫どのに知らせよう。
それでこの話は、終わるはず。