第五話 神南(六)
やわらかな風につつまれた瞬間、春時は両手を伸ばし、空から舞い降りる白い者を受け止めた。
「れん!」
れんは答えず空へと数珠を掲げた。
「お助けください!」
どう、と荒波が押し寄せ、二人を呑みこむ。
――春時は川面を呆然と眺め、立ちすくんだ。
川が治まっていた。目に映るのは穏やかな流れ。
最前の波こそが荒れ狂い流れつくす最後の力であったのだろうか。その脅威は黄土まじりで木っ端を浮かべた水面に面影を残すのみ。空はすでに晴れ間さえのぞいていた。
そして春時の腕のなか。
「重い……」
春時は苦笑した。
れんと小さな男の子が眠り、ちいさな肩をあずけていた。
次に疑問がわきあがる。突如、空から降ってきたれんは、受け止めると羽のように軽く感じた。なのに今は人なみに重さがある。もっとも、空から現れたことがすでに不条理な話。真相を追及するだけ時間の浪費だろう。
「あなたさま」
声のする方へと春時は向きなおした。
弱々しい女の姿が見えた。髪もすがたも夢で見た時と同じだ。ふり乱れた髪にくずれた衿。記憶する姿と寸分たりとも変わりない。しかし今、現実に目で見る彼女の方が、夢の中より存在感に乏しくはかなげであった。おぼろ雲に姿を隠す月のごとく微かな風にさえ揺らいで消えてしまう、そんな印象を受ける。
「ありがとうございます、ほんとうに、ありがとう、ございます」
女は笑った。しかしその笑みは疲れきっていた。精も根も尽き果て、ただ感謝を示すことだけで精一杯のようだった。
「わたくしの、坊……」
「このとおり無事だ。お返ししよう」
春時が両腕にかかえる二人をさしだすも、女は力無く首をふった。
「わたくしにはもはや、冬を越す力はございません」
冬を越す?
春時はいやな予感がした。
「どうか……お預かりいただけませぬか。凍える冬を越え、あたたかな風待つ春まで。どうか、その子を」
「預かるって」
女は満足そうに笑った。足元から消えかかっていた。はかなげに見えたのは、本当にはかない命だった、ということか。
春時は笑い返すどころではない。
「待て。預かれなどとそんな」
女は――消え去った。
「了承してないぞ!」
春時の背後で忍び笑いがもれた。
「誰だ」
「しがない龍田の川守よ」
春時はその青年、龍田神を睨めつけた。
「貴様のしわざか。川の氾濫も常識はずれの荒波も、そしてれんがどこかに消えてたのも」
「大意では肯であるな」
龍田神は楽しげに笑みを浮かべた。
「そのさくら木、余が預かってもよいぞ」
春時はさらに警戒した。
「なにが望みだ」
「代わり、中将内侍に命ずるのだ。そなたから我が元へと赴くように」
「お門違いだ。そんな立場にはない」
「中将内侍のゆくすえはそなた次第」
「おれ次第?」
「そなたが逃げよと告げれば逃げ、難波津と告げれば中将内侍は従うた。天にゆけと奨めたならばまたしかり」
春時は肩をすくめた。
「そんなはずがあるか。おれの言うことなど」
「否、そなたの言挙げは中将内侍にとっては強力」
「言挙げ、それは」
「都から其を連れ出した折りを思い出すがよい」
龍神は白い指をれんに向けた。
「刃を握りし狼藉者の誘いに、なにゆえ中将内侍は従順について来た。脅して連れ出したか? さはあるまい」
まったく同じ疑念は春時にもあった。なぜ見知らぬ男について来たのか。姫がこわいもの知らずだからか。疑うことを知らないからか。ただそれだけ――なのか。
うつむくとれんが眠っていた。春時に支えられ安心しきっている。
「中将内侍はやっかいな女だ」
龍神の声に春時は再び頭をもたげ、
「それは知っている」
くく、と龍神は笑った。
「我と手を組め、春時」
「おれと?」
「そなたは我と同じく仏の意に添わぬ存在よ。いずれ観音菩薩を敵に回す」
「観音菩薩……どういうことだ」
「中将内侍は観音菩薩の分身として生を授かった女」
「何?」
「その女は余を鎮めた」
「……」
「人ならぬ力を持つ女。神も仏も物の怪も、この女を欲しておる」
春時はれんの寝顔を見下ろす。
高貴な生まれで少々風変わりな、ただの乙女でしかない。
「そんな、たいそうなものにはまったく見えないが」
馬上で眠りほうける、強情をはってはすねる。どこをどう見て菩薩の分身と思えというのだ。と言い返したい春時だったが胸におさめる。
「そしてお主は、共におればかならずや中将内侍を殺す」
「そんなことは」
ないと言い切れるか。刺客だった者が。春時は目をそらす。
「……難波津に送り届けるだけだ」
「いずれ解る時がくる」
龍田神は太刀を投じた。春時が受け取ると、龍田神が微笑した。
「持ってゆけ。必ずや役に立つであろう」
「なぜこれを」
「そなたと我は深い縁。水神の舞を伝えし我を忘れしか、真春よ」
「その名を!」
鋭く叫んだ春時、すぐに戸惑いの色を浮かべた。
「思い出したか」
春時は平静さを装い龍神を見返す。
「持てと言うなら。ただし龍神よ、これは貸しじゃない。桜の子も預ける気はない」
すべて見抜くかのごとくに、龍神は酷薄な笑みをもらした。
「詮無いな。だが、それでよい」
川はゆるやかに流れている。まだ水は泥や木の屑を含んで濁っていたが、空はすでに青く深く染まり、林が木漏れ日で光り輝いていた。
すべてが過ぎ去り、新しいなにかに生まれ変わったようだった。
春時は不意に軽くなった腕の中を確かめた。少年がいなくなり、代わりに桜の若木に姿を変えていた。おそらくこれが本来の姿なのだろう。そして若木はれんの両腕に抱かれていた。
れんはまだ眠っている。川を鎮めた疲れだろうか。それも春時の想像にすぎないのだが。
れんの小さな身体を抱きなおし、立ち上がる。まぶしげに崖の上へ目をやると、上から声がした。あの練行僧たちだ。二人も濁流から逃れ、無事だったらしい。
「ご無事か、若い人」
「この通り」
二人は良かった、と口々に言いあった。
「その女人は」
春時はもう一度、れんを見おろす。
きっと誰もこの女が川と龍神を鎮めただなんて、思いもしないだろう――そんなことを考えながら、春時は僧たちを見上げた。
「探していた……いもうとです」